5.

 ――次は東陽町、東陽町。

 そんな車内アナウンスで五十嵐は目を覚ました。薄く目を開けて周囲を見渡すと、座席にはぽつぽつと空きがあった。

 今乗っている路線はいつも混んでいるというイメージがあったが、この時間は空いているのだろうか。それとも今日はたまたま空いているだけなのだろうか。 

 蛍光灯が煌々と車内を照らしているものの、窓の外は夜のように暗い。地下鉄だから当然のことなのだが、この路線は地上も走っており、五十嵐が乗った駅は地上にホームがあったので、眠っている間に夜になってしまったような、狐につままれたような、不思議な感覚があった。

 何度も利用している路線ではあったが、東陽町は降りたことがない駅だった。ここで降りてみるのもありかもしれない。このままではきっと、まっすぐ帰省することになってしまう。

 そう思って五十嵐が腰を浮かしかけたときだった。

 見間違いにしてはあまりに鮮やかな色合いをしたそれに気付いたのは。

 ちいさな、けれど無視するにはあまりある違和感。それは少し沈んだ色味の赤い魚のかたちをしていた。

 五十嵐は魚について詳しいわけではないが、金魚の類ではないのは分かった。恐らく熱帯魚の一種だろう。そう大きくないが、飛蚊症の症状と割り切るには無理がある。

 まるで外敵が存在しない環境を泳いでいるかのように、その魚は大きな尾びれを翻して悠々と泳いでいる。

 扉が閉まります、というアナウンスが、壁一枚隔てているかのようにぼんやりと聞こえた。

 浮かしかけた腰を再び座席に落ち着けて、五十嵐は素早く周囲に視線を走らせる。

 はす向かいに座る中年のサラリーマンは折り畳んだ経済新聞を読んでいるが、随分と眠そうだ(そういえば、先ほどから時折、頭がぐらりと傾いていた)。そこから左に一つ空けたところには長い茶髪を綺麗に巻いた若い女が座っている。手にしたスマートフォンに視線を落としているが、退屈そうだった。時折画面をスクロールしているのは、何か目的があってのことではなくて惰性なのだろう。その左隣には、浅黒く日焼けした男がだらしなく腰掛けている。その男は白いハーフパンツを履いた足を投げ出して、前傾姿勢をとっていた。こちらは完全に寝入っているようだ。そこから更に左に一つ空けたところには、カバーをかけた文庫本を眉間に皺を寄せて読んでいる老婆が座っている。難しい内容なのか、あるいは単に遠視で細かい文字が読みにくいだけなのかもしれない。

 車内はそう混んでいないものの、ガラガラというわけでもない。そして、誰もが皆眠っているという訳でもなければ、何かの作業に夢中になっているというわけでもない。イヤホンをつけてぼんやりと宙を見つめている自分と同じくらいの歳の男だっている。

 そう、問題は五十嵐以外に誰もその魚の存在に気付いていないことだった。

 気付いても気付かないふりをしているのかもしれない。けれど一人で電車に乗っているわけでもない人間だって大勢いるのだから、彼らが話題に出してもおかしくないはずだ。それなのに、誰も彼もがまるで何も見えていないかのように平然としている。

 今だって、魚は本を読む老婆の手元をゆっくりと泳いでいったというのに――明らかに視界に入っていたはずなのに――老婆は何の反応も示さなかった。

 これだけの人がいて、それなのに誰も気付かないのか。自分だけがおかしくなってしまったのか。

 腿の上に乗せたバックパックを抱き寄せて、五十嵐は顔を伏せる。しかし足元にも数匹、色も形もバラバラの魚が泳いでいるのが見えて、慌てて顔を上げた。

 先ほどまでいたのは真っ赤な魚が一匹だけだったのに、気付けば魚は数を増していた。

 今やこの車両は水槽と言ってよかった。無数の魚が群れをつくり、あるいは一匹で気ままに泳ぐ巨大な水槽だ。

 五十嵐は再び視線を周囲に滑らせる。これだけの数の魚が泳ぎ回っているというのに、相変わらず誰一人気付いている様子はなかった。

 おかしい。――いや、おかしいのは自分なのか?

 不意に、黄色と黒の縞模様の魚が五十嵐の手を掠めた。しかし、ほんの一瞬とはいえ確かに自分の手の甲に触れたのが見えたのに、その魚は五十嵐の手に何の感触も残さなかった。

 たしかに見えるのに、触れてもまるで手応えが感じられない。幽霊かなにかのようだった。自分しか見えていない上に掴むことも出来ないそれは、ただただ気味が悪い。

 その場に留まるのが耐えられなくなって、けれど先ほど駅を出たばかりの電車はこの先二分くらいは止まらないことに思い当たる。しかしその二分すら耐えられそうになくて、ひとまず五十嵐は他の車両に移ることにした。

 突然立ち上がった五十嵐に驚いたのか、鮮やかな黄色の魚の群れが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 それは、強風に煽られて銀杏の葉が散っていく様子に少しだけ、似ていた。



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