元引きこもり殿下の甘くない婚約生活9
レカルディーナは男装姿のままルーヴェ市内にある中央駅へとたどり着いた。途中までディートフレンに馬車で送ってもらったのだ。屋敷を出る際、正体がばれるのではないかと戦々恐々としていたけれど心配は杞憂だった。
ディートフレンが堂々と正面玄関に馬車を横付けして屋敷から連れ出したため、ベルナルドの騎士らが男装したレカルディーナに気づくことができなかったのは別の話だ。
大胆な区画整理をされ建設された鉄道事業である。一番線から五番線まである乗降場はルーヴェ市内と地方都市を結ぶ列車の発着で毎日とても忙しい。人の流入が多くなり、駅周辺の様相も十年前とはまるで変わったと、誰かが昔話していた。昔ながらの建築方法ではなく大きなガラスを屋根として使用し、鉄柱がむき出しのまま柱としてそれを支えているホームは巷では近代的と言われてもてはやされている。
レカルディーナは駅舎の正面にある大きな広場真ん中に立つ英雄像の近くに座り込んでいた。百年くらい前の王様らしい像の周りにはベンチがいくつも置かれているのだ。
レカルディーナは頭を抱えていた。
せっかく祖父母の屋敷から逃げ出して来たのに、色々と問題が山積みだったのだ。先ほどからため息が口からダダ漏れだった。
まず一つ目は本日分の列車の切符が完売していたのだ。アルンレイヒに帰るにはルーヴェからサンタンツエルまで行かなければならない。フラデニアの東部にある都市の名前だ。列車はサンタンツエル以降は南の方へ進路を変えるので、ここで今度は馬車に乗り換えてアルンレイヒとの国境沿いに向かうことになるのだが、時期が悪かった。ちょうどフラデニアの祝日と重なっていたため本日分の切符が完売していた。
レカルディーナは仕方なく明日の朝一番は、取れなかったので二番目の列車の切符を買った。人生初めての二等車だった。
まあ、一日くらい待たされるのは仕方ない。
二つ目の問題の方が大きいかもしれない。
「はあ……」
レカルディーナは盛大に息を吐いて立ち上がった。
考えていても仕方ない。駅周辺の宿を当たろうと思っていたけれど、祝日前ということを考えると満室かもしれない。これまでの人生で一人きりでなにかをするということがなかったため、旅の段取りを決めるということに慣れていないのだ。
レカルディーナは目につく宿屋を一軒一軒当たりながらもう一つの問題について考えを巡らせた。
国境を超えるときに必要なものがそろっていなかったのだ。
身分査証と旅券である。どちらも国境越えの通関所で必要な書類だった。そもそも自分の預かり知らないところでかっさわれて来たのだ。カルラはどうやってレカルディーナの必要書類をそろえたのだろうか。実は、フラデニア側で偽名を使い特別書類を作成していたのだが、それはレカルディーナの預かり知らぬ話である。 ファレンスト家の名を出せばたいていのことは大目に見てもらえるくらいに権力を持っているのだ。
さすがのディートフレンもこればかりは準備できなかったらしい。最終手段としてアルンレイヒ大使館に駆け込むという選択肢もあるが、これはあまり使いたくは無かった。絶対にベルナルドに迷惑をかけるからである。
色々と考えることはあったけれど、ひとまず今夜泊る場所を確保しないことには始まらない。
駅の周りを中心に片っ端から旅籠を回ったが、めぼしいところは満室でレカルディーナは余計に途方に暮れた。こうなったら男装を解除してライツレードル女子寄宿学院にでも泊めてもらうか。エルメンヒルデならかくまってくれそうである。
「なあ兄ちゃん。さっきから困ってるみたいだな」
後ろから野太い声がかけられたが、レカルディーナは自分に対するものではないと思い込んで振り向かなかった。
「兄ちゃん。おまえさんだよ」
男がレカルディーナの肩に手をやって、そこでようやく後ろを振り向いた。
四十代と思わしき髭面の男が目の前に立っていた。
「ぼ、僕のこと?」
「そうだよ、おまえさん以外に他に誰がいるって? さっきから宿捜してんだろ。この時期どこも満杯だよ。だいたい明日が何の日か知らないのかい?」
「知っているよ。ちょっと失念していただけだし」
地元の人ならだれでも知っている祝日を知らないなんて、と小馬鹿にした態度をされてかちんときたのでレカルディーナは語気を強めた。
明日は建国記念日なのである。フラデニア現王家が三百年前にそれまでいくつかの州に分かれて統治していたフランデーア地方を統一し、フラデニアと定めたのがちょうどこの時期だった。百年ほど前の王様がせっかくだから記念に祝日にしよう、と改めて二月八日を建国記念日と定めたのだ。
この日は各地で盛大に祝いの花火が打ちあがるのだ。
「だったらおのぼりさんか。まあいいや、そんなことより俺がいい宿紹介してやるよ」
男は勝手に決め付けて本題を切り出した。
単なる客引きだったのか。にやりと口元を緩めて顔を近づけてくる男から距離を取ろうと一歩後ずさった。なんとなく、酒臭い気がする。
「……いいよ。他に行くあてあるし」
「なんだよぉ、遠慮するなって。俺が連れて行ってやるから」
レカルディーナは辞退したのに男の方はしつこかった。レカルディーナの鞄を取り上げようと腕を伸ばしてくる。
「いらないって言っているだろう! しつこいよ」
レカルディーナは寸前のところで後ろに飛びずさって、なんとか鞄を死守した。それにしてもいらないと言っているのに、どうしてこんなにも親切の押し売りをするのだろう。
「うるせぇ! こっちは金が要るんだよ」
「あっ! 兄ちゃん待った? ほら、こっちこっち! 宿取れたよ」
男がレカルディーナに叫んだ時、小さな腕が素早くレカルディーナの上着の裾を掴んで引っ張った。
そのまま勢いよく走りだすからレカルディーナもつられて走り出す羽目になった。少年がレカルディーナの上着を掴んでいた。わけもわからなかったが、振り返った少年は目線だけでついて来いと言っていた。
「えっ、ちょ、待って」
後ろの方では「なんだよー」とかなにか言っている男の声が聞こえた。
そのまま少し走り二つ目の路地を曲がったところで少年はぴたっと止まった。十にもみたないくらいだろうか。金色の髪をした愛らしい少年だった。重そうな綿の上着に着古したズボンに埃をかぶった靴という、このあたりではごく当たり前のいでたちをしていた。
「兄ちゃんてばどんくさいね」
「ど……」
愛らしい口元からなかなかに辛辣な言葉を吐かれてレカルディーナは言葉を失った。
「あんな見るからにうさんくさい客引きに捕まるなんて。この辺はそういうの多いからきをつけたほうがいいよ」
「客引き……?」
「そ、宿屋とグルになっているから相場よりも高い部屋代金を取られるってわけ。で、紹介者にも仲介料が支払われるんだよね。あいつ飲んだくれだから。酒代がほしかったんだろうね」
愛想よくぺらぺらと少年は話した。
よくわからなかったけれど、あのままついていけば高額の宿代を請求される恐れがあったということか。少年に助けられる形になったレカルディーナは素直にお礼を言った。鈍感とか言われたことは水に流すことにした。
「ありがとう」
「どういたしまして、お礼はりんごでいいよ」
ちゃっかりした少年はそう言って正面の屋台で売られている林檎の山を指さした。レカルディーナは苦笑を洩らした。なるほど、ちゃっかりしているのかしっかり者なのか。
でもまあ助けてくれたお礼としては適正な要求範囲とも言えなくはないのでレカルディーナは素直に従うことにした。そういえばレカルディーナ自身朝食を食べたきりで何も食べていない。りんごに意識を向けると途端にお腹が空腹を訴えてきた。
「わかったよ。りんごじゃなくてパンにしない? おなかすいちゃった」
「いいよ~」
少年は両手をあげて喜んだ。こういうところは可愛らしい仕草である。
だったらお勧めがあるんだ、と少年に連れて来られたのは人だかりの出来た駅近くのパン屋だった。旅行者だけでなく地元の人と思われる人たちも客の大半を占めており、この界隈の人々から支持を集めていることが窺い知れた。
レカルディーナはハムとチーズのサンドウィッチと干した果実ののった楕円形のパイを買って、少年には手の平大の大きなクッキーを買ってあげた。ひっきりなしにやってくる客を押し分けてなんとか店の外にでる。
「はい。どうぞ」
レカルディーナはにこやかにクッキーを少年へ手渡した。
「ありがとう。兄ちゃん親切だね」
「いいえ、このくらい」
「あー、でも。これからはもうちょっと警戒心持った方が世の中うまく渡れるよ……って、ね! じゃあ~ね」
少年はクッキーの入った紙袋を受け取って、そのあとにさっとレカルディーナが肩からかけていた鞄をかすめ取って走り去った。
時間にしてほんの数秒、あっという間の出来事だった。レカルディーナが財布を鞄の中にしまったことを少年はしっかりと確認していたのである。
「え、ちょ……、ま、待ちなさぁぁぁいっ!」
少年はあっという間に雑踏の中に紛れ込んだ。
レカルディーナもすぐさま追いかけた。
なにしろあの鞄の中には全財産が入っているのだ。明日の列車の切符は、上着のポケットの中、だからまだマシ、とかそういう問題ではない。
「こぉぉらぁぁぁぁ!」
少年はすばしっこかった。
ただでさえ駅周辺は人ごみなのである。しかも彼はこのあたりを熟知しているのかわざと人の多い方へと進路を取っている。体が小さな少年と少女とはいえ大人に近い体格をしたレカルディーナとではどちらが有利か考える暇もなく少年に理がある。
それでもレカルディーナは諦めなかった。
(絶対に捕まえてやる!そんでもって警吏隊に突きだす)
少年の方もレカルディーナが予想外に根性を見せるために焦ったのか、駅舎の中へと入って行った。撒くつもりだろうが、そんなに世の中甘くない。少なくともレカルディーナは気合い十分で少年を追っていた。短期決戦でないと体力が持たないからだった。
一方の少年もレカルディーナのあまりのしつこさに辟易していた。
鞄ごと狙ったのがよくなかったと悟り、走りながら片手を突っ込み財布だけを抜き取って後方へ投げ捨てた。ちょうどホームへ渡す階段を登り切ったところだった。
レカルディーナは突如投げられた鞄に気を取られた。
階段の途中にも関わらずに、鞄の方へ体が傾いだ。あっ、と思う間もなくバランスを崩してしまったのだ。注意が完全に弧を描き宙を飛んでいく鞄の方へ向いてしまったのだった。
(うそでしょ……)
階段の半ばにいたレカルディーナは足元をぐらつかせて、そのまま重力の法則にしたがった。
「レカルディーナ!」
誰かがレカルディーナを呼んでいる。大きな声だった。
階段から落ちたらさすがに痛いかも……と、覚悟を決めたけれど想像したような痛みは感じなかった。
衝撃はあったけれど、それはもっと柔らかかった。
どさり、と誰かに抱え込まれるようにして後ろから受け止められたのだ。
「やっと、捕まえた……。本当に、おまえはいつも無茶ばかりする」
「そ……の、声……」
なぜだか頭上から懐かしい声が落ちてきた。レカルディーナは半信半疑で呟いた。まさかそんな、という思いでいっぱいだった。レカルディーナの頭はついていかないのに、抱きとめた人物は当然のようにそのままレカルディーナを後ろから抱き締めた。ぐっと体同士が密着する。
「レカルディーナ……。会いたかった」
切なそうに、絞り出すような言葉が耳元に届いた。
レカルディーナのよく知っている声だった。熱を帯びた、少し低い、けれどもとても安心できる大好きな声。
言いたいことはたくさんあったはずなのに、その言葉を聞いたらレカルディーナは二の句を告げなくなった。
どうしよう、先ほどまでとは違った意味で心臓がばくばくしてきた。
「ベルナルド様。鞄を回収してまいりました」
「ああ」
もう一人十分すぎるほど馴染みのある声が聞こえた。彼に仕える近衛騎士隊長の声だった。声の後、レカルディーナを抱きしめる腕を緩めて密着した体を名残惜しそうに離された。
レカルディーナはゆっくりと体の向きを変えた。早鐘を打つ心臓を手で押さえる。ゆっくりと顔をあげるとそこには懐かしい婚約者の安堵した双眸があった。
「……本物……」
「当り前だろう。こんな顔がいくつもあってたまるか」
大きく息を吐いたベルナルドは、愛おしそうにレカルディーナの頬に手をやってもう一度ゆっくりと抱きしめた。
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