五節:逃走者
「なんでしょうか?」
目を逸らすことなく瞳を見返し、三島を見上げる麻祁が答える。その言葉に見下ろしていた三島もその目を見返しまま、問い掛けた。
「ここには一体何の用事で?」
「次に開催されるバレーボールでの大会に関して、少し話がある為に来ました」
「バレーボール? ああ、それで体育館に? 貴方は一体?」
「協会の事務をしているものです。日程などの調整の変更に関しての話をする為に来ました」
「そうですか……それならば、先ほど外で居た際に、声を掛けてくれれば担任の場所まですぐに案内したのですが……ね?」
何かを探るように問い掛ける言葉に、表情と口調を変えることなく麻祁が答えた。
「外で用事を済ませていたら、ちょうど校門前にいた先生が居なくなっていましたので、勝手ながら入らせてもらいました。何度も訪れた事があり、場所は分かっていたので」
「それならすでに職員室で手続きも済ませましたか?」
「ええ、済ませてあります」
「担任の先生はいましたか?」
「ええ、いませんでした。ですので今から第三体育館に向かっている所でした」
「……そうですか」
「それじゃ私は……」
麻祁が立ち去ろうとした時、
「待て!」
再び左手を掴まれた。
ぐっと引き寄せられるように手を引かれ、三島の顔が麻祁に近づく。
「手続きを管理する先生は今校門前だ。他の先生にはできない。一体誰に何を通したんだ?」
「…………」
更に睨み合う視線。麻祁は黙ったままその目を見返し、そして――三島の左足を勢いよく踏みつけた。
「いっ!!」
声を上げ、掴んでいた麻祁の左手を無意識に離す。
麻祁はすかさず、右足を上げ、今度は三島の股に蹴りを入れた。
「ーーッ!!」
声にならない音を喉の奥から出し、苦痛の表情を浮かべながらその場に崩れ込んだ。
麻祁はその姿を最後まで見ることなく、蹴り上げた瞬間に体育館に向かい走り出した。
ポニーテールを揺らし、靴音を響かせながら長く伸びる廊下を走る。その後ろ姿を、下腹部を押さえながら苦痛の表情で見ていた三島は辺りを窺い、そして、後方からこっそり見ていた男子生徒の存在に気付いた。
「西山ッ!」
叫ぶ三島。
「は、はい!!」
西山と呼ばれた男子生徒はすぐに三島の傍へと駆け寄った。
まるで潰されたカエルのようにうつ伏せで倒れる三島に、西山はしゃがみこんでは顔を近づける。
「だ、大丈夫ですか、先生?」
「俺はいい! それよりあの女を追ってくれ! ただし、絶対に捕まえようとするな! 何をしてくるか分からない、俺が必ず捕まえる! もし、近くに先生がいたら警察を呼ぶように伝えてくれ! 頼む!」
「は、はい!」
突然の事に動揺するも、西山は急ぎ麻祁の後を追うために、立ち上がり走り出した。
「あの女が他の生徒に近づいたら離れるように叫べ!」
「わ、分かりました!!」
小さくなる西山の声と後ろ姿を見送った後、額から滝のように汗を流す三島が小さく呟いた。
「……クソ」
――――――――――――
夕陽が落ちる通路を麻祁は走り、後ろへと目を向ける。
そこには三島に頼まれ、必死に追いかけてくる男子生徒の姿があった。
麻祁が速度を落し走るのを止めると、その男子生徒もそれに気付き、急ぎ速度を落し歩きだす。
――足を止める。後ろも止まる。
――足を進める。後ろも進める。
まるで麻祁の影のように、その男子生徒は不安な表情を浮かべながらも、動きに合わせ距離を保っていた。
麻祁にとって、この状況は非常に都合のいいものだった。
あの三島と言う男に何を言われたかは知らないが、本来追いかけて捕まえるはずの人物が、捕まえず、ただその行動を見守っているだけなのだから、ある意味、自由にしてくださいと言ってるようなものだった。
無理に走りまわり、わざわざ注目されるよりも、今の異常事態を周囲に知られることもなく、ただ平然として見てまわれる。――これほど侵入者の立場としての都合の良い事はない。
麻祁は何食わぬ顔で通路を歩き、第一体育館を目指す。
後ろでは額に汗を浮かばせながら、不安そうな表情を見せる男子生徒が、麻祁の背中に注意を払っていた。その姿、傍から見れば、まるで先生に付きまとうストーカーのようだ。
屋根しかない迷路のような通路を歩き、そして第一体育館の入り口が見えてきた。
通路側の入り口はちょうど体育館の側面に付けられており、麻祁が中を覗くと、そこには部活に励む生徒達の姿があった。
広々とした体育館の中央には、仕切りとして緑のネット張られ、そこでは卓球とバトミントンが互いを牽制し合うかのように、激しい衝突音を上げていた。
麻祁は顔を少し覗かせた後、すぐに引っ込め、体育館の表へと回るため体を翻す。
その突然の行動に、付いてきていた男子生徒は隠れる事が間に合わず、麻祁とちょうど向かい合わせになった。
距離は離れているものの、こちらに向かい麻祁が歩いてくる。
男子生徒は急ぎ隠れる場所を探す為、辺りを見渡し、そして細い通路の支柱へと身を寄せた。
腰を屈め、両手で支柱を掴んでは鼻と体の中央だけを隠し、目を覗かせる。
麻祁はその姿を気にする様子もなく、通路を少し戻った所で道を逸れ、体育館の正面へと移動した。
丸みを帯びた屋根にいくつもの窓。入り口の横には、バトミントン部と卓球部と書かれた木の札がそれぞれ一枚ずつ掛けられている。
正面から中を覗くと、先ほど背中を見た部活の生徒と激しく交互に飛び移る球が見える。
軽くその光景を見た後、麻祁はその横にある第二体育館へと足を進めた。
ふと、強い風を体に感じた。
左側へと振り向くと、そこには一本の広々とした道が、体育館の大きさに合わせ、まっすぐと伸びていた。
奥では風が木々を靡かせ、そして休憩中の生徒がいる通路へと走ってくる。
麻祁はその道へと入り、第二体育館の横にある入り口へと近づく。
聞こえてくる威勢のある掛け声と音に、麻祁は顔を覗かせた。
目に入る緑のネット。入り口側では剣道部が掛け声と同時に竹刀を振るっては叩きつける音を上げ、その奥にいる柔道部は互いに組み合い、声を張り上げては敷かれた畳へと体を叩き付ける音を上げていた。
麻祁はその光景を見回した後、再び正面へと戻る。
体育館の入り口には、剣道部、柔道部と書かれた木の札が掛けられていた。
叫び続ける掛け声を耳に、麻祁は第三体育館へと移動する。
風だけが通る誰もいない通路。体育館の横にある入り口に近づき、顔をのぞかせ――。
「――ッ!?」
突如麻祁の右腕が誰かに引かれ、そのまま自分の背中へと押し付けられた。
抵抗する間もなく、そのまま体育館の壁へと体を叩きつけられ、拘束される。
麻祁は落ち着いた様子で精一杯、右側に向いていた首を後ろに向ける。
視界に映ったのは、慌てた表情を見せる先ほど付いてきていた男子生徒の姿とガタイのいい灰色のスーツだった。
「捕まえたぞ!」
後ろから聞こえる三島の声に、麻祁は表情を変えない。
「西山!」
「は、はい!!」
麻祁を右腕を掴み、壁に押し付けていた三島が近くにいた西山を呼ぶ。
「すぐに職員室にいって他の先生に警察を呼ぶように!」
西山にそう伝えた後、三島が麻祁だけに聞こえるように声を掛ける。
「おい! 立派な不法侵入と暴行罪だ、女だからと言って見逃すと思うなよ! 西山はや――」
――西山早く! そう三島が言い切る前に、麻祁が声を上げた。
「西山さんッ!!」
突然口を開いた不審者の言葉に、二人は驚いた。
西山が動けずその場に立ち止まる中、麻祁が間を空けずに次の言葉を震わせながら口にした。
「助けて……」
「なっ!?」
弱々しく聞こえる女の声と今にも泣き出しそうな女の雰囲気。その姿に三島は驚かされた。
それは先ほど通路で見せていた、ふてぶてしくも冷静であり、尚且つ暴力を振ってきたあの態度。その面影が今はどこにもなく、ただの女性となっていたのだ。
突然態度を変えた事により、その場の雰囲気は一変した。
今では一方的に壁に押さえつけ、更には警察を呼べと叫んでいる男――三島の方が悪者にも見える。
すぐに三島が西山に声を掛ける。
三島本人は今、目の前で起きている麻祁の言動は、全て演技だと分かっていた。それは今までの行動から一変している為そうだと思える。だが、その横で今の状況を見ている西山は直接話しもせず、関わってもいなかった為それが判断がしづらい。
「西山気にするな! 早く先生に――」
一瞬緩む力。麻祁がその瞬間を見逃さず、押さえつけられていた右腕を横へ捻り、一気に引き抜いた。
抜ける感触に気付く三島、視線を下へと落す。――麻祁の右肘が腹部へと向かい迫っていた。
三島が腹に力を入れる。しかし、右肘は届かなかった。
麻祁はわざと力を緩めていた。それは、前の壁が邪魔をして、十分に右腕を振り切れなかったからだ。振りの弱い右膝を当ててもダメージは期待できない。
麻祁は陽動の一つとしてわざと右肘を注目させ、力を入れるように仕向けた。
腹に力を入れた為、三島の次の動きが一瞬遅れる。その隙に麻祁は横へと滑るように移動すると同時に左足で、三島の右足を踏みつけた。
「がっ!!」
反対側の足も踏まれ、膝をつく三島。
「ありがとう西山」
「えっ……」
突然の言葉に、西山が驚く。
「い、いえ……」
言葉を返そうとした時、そこには既に麻祁の姿はなく、通路の奥へと走り去ろうとしていた。
その揺れるポニーテールの後ろ姿を少しの間見続けた後、跪く三島を思い出し、すぐに駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか、先生!?」
「くっ……だ、大丈夫だ。あいつは俺が追いかける、西山はすぐに……職員室に……クソッ!」
地面に悪態をついた後、三島は立ち上がり、少しふらつきながらも、麻祁の後を追い走り始めた。
揺れる大柄のスーツ姿に心配そうな視線を西山は送り、そして校舎に向かい走っていった。
――――――――――――
麻祁は走りながら、後ろを確認する。……誰も付いてきていない。
しかし前回とは違い、今度はあの大柄の男が追いかけてくるだろう。麻祁はすでに三島の性格を読んでいた。
それは最初の通路での会話と行動、そして体育館で再び会うまでに行動と理由を考え、導き出した一つの仮定としてのものだった。
一回目の時、三島は西山と言う男子生徒に追いかけさせた。その理由としては自分がすぐに立てない程の痛みを負ってしまったから、仕方なく近くにいたあの男子生徒を選んだのだ。
その影響として、頼まれた男子生徒は麻祁を直接捕まえようとはせず、距離を取りただ見ているだけだった。
捕まえれるはずの人物を捕まえさせない。それは生徒に危険が及ばないようにする為の、先生として生徒を守る為の姿勢、そして、自ら出向き不審者を問いただすあの言動は、自分の力で全てを片付けようとしようとする責任感の現れだった。
そんな人間は必ず自らの足で追いかけ、どこまでしつこく付いてくる。逃げる側にとっては非常に面倒な相手だった。
今回は足を踏んだだけだから、少し休めば必ず自身の足で追いかけてくる。
麻祁は逃げながら次の段取り考える。もし相手の立場が自分だったらどうするか。
まず近くにいた男子生徒に警察に来るように頼み、そして不審者を追いかけて追い込んでいく。
もしその不審者が刃物を取り出し、生徒を人質に取るようならばすでに最初の会話の時にそれらしい行動を見せるはず。ただ蹴り、逃げただけなのだから、相手に必要以上の危害を加える為に侵入してきてない事は見て取れる。
そうなると侵入者の目的は、その学校での部活の練習内容を無断で視察か、ただの女子生徒を狙った盗撮目的になる。
しかし入ってきた侵入者は女だった。ならば、目的は限られて来るため、これからの行動としても狭まってくる。走って追いかけていれば目標は潰えさす事が出来る。
次に、この学校周辺の構造を考える。
侵入者は今は逃走者となった。
逃走者がここから逃げ出すにはどこなのか? そう考えるとこの学校に関して詳しい人間ならすぐに思いつく。
校舎の周りには、外から内部を見れないように高い塀が立てられていた。さらには脚立など使い塀を乗り越えて内部を撮影しようと考えても、内部で生え並ぶ木々の葉により視界は邪魔をされ、奥の景色さえまともに見ることが出来ない。
唯一出入りが出来る場所と言えば、正面の校門のみとなっていた。
校門の前には今、別の先生が見張りとして立っている。もしそこを通るものなら、必ず足止めされて、その間に捕まえる事ができる。
つまり、この囲まれた空間内で追いかけていれば、自然と追い詰めていく状況が作り出され、後からやってくる警察も加われば、必ず捕らえる事が出来る。
麻祁は今まで起きた状況、この学校を覆いつくす環境、そして追いかけて来る追跡者の性格を含め、脱出する方法を考え、そして一つの作戦を思いつく。
それは必ず成功するとは言えない、賭けのような手。だが、麻祁にとってそれが成功する失敗するなどはどうでもいい話だった。
結果は最後にならないと見えてこない。そんな心配をするよりも、目の前で突然起きる障害をどう回避して、その求めたい結果に近づける方が大事だからだ。
もし、それがダメならすぐに次の手を考えなければ間に合わない。麻祁は常にそんな環境の中で過ごし、そして生き残ってきた。
――なんでもやらなければ、やられる。
麻祁は周囲を見渡し、そして運動場の方向へと向きを変えた。
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