初節:知らない場所
ふと瞼が開く。
目の前に白い壁があった。
首を左右に動かすと、壁と同じ色の白いカーテンが俺を取り囲んでいるのが目に入る。
腕を動かすと軽く冷たい布が触れる。――ここはベッド?
「いつっつ……」
頭を動かした時、頬に一瞬強い痛みが走った。
反射的に手を当てると、じわっとした痛みがさらに広がっていく。
手を離し、上半身をゆっくり起こすと、今度はハッキリとした視界で辺りを見渡した。
だが、入ってくるものは先ほどと変わりのない、四方を取り囲む白のカーテンだけだった。
どこだここは? どうしてここにいるんだ?
頭の中ではその疑問だけが何度も浮かんでくる。しかし、その答えが全く見つけられない。
過去の記憶を辿ろうにも、あの広場で起きた出来事以外は……。
ふと突然ある映像が蘇った。それは最後に見た麻祁の姿。
「あ、あさいっつッ!!」
体を持ち上げた瞬間、思わぬ痛みで言葉が途切れた。顔中どころか全身が頬と同じ、あの痛みで包まれていた。
まるで硬い物で何度も叩きつけられたような痛みだ……。
「――っ!?」
突然横から音が聞こえた。
それはカーテンの向こう側、誰かが椅子から立ち上がる音だ。
自然と顔が左に向く。床を踏む音が徐々に迫ってくる。
俺は何もできず、ただじっとその場所で留まっていた。その先の事など当然考える間もなく――カーテンが開かれた。
視界に入る光景に俺は驚いた。そこに一人の女性が立っていた。
まるで寝癖のような不揃いの散らせた髪に、睨むような鋭い視線。
黒のスカートに黒シャツの服装。その上には白衣を着込んでいる。
女性は目を細めたまま、咥えているタバコを二本の指で挟み、顔を近づけてきた。
「えっ……」
心臓が一瞬高鳴る。目と目が間近に迫り合い、唖然とする俺の表情を瞳で返す。
「あ、あの……ケホッケホッ!!」
不意に煙が俺の顔を包んだ。
すぐまさ口を押さえるも、乾いたセキが指の間からすり抜ける。
白衣の女性は再びタバコを咥え、しばらく俺を見た後、何も言わず俺の前から姿を消した。
すぐ近くから聞こえてくる椅子のきしむ音。
大きく開かれたカーテンから顔を覗かせると、そこには片膝を机に置くさっきの女性の姿があった。
長い足を組み合わせ、タバコを咥えたまま携帯を取り出し、開く。
乱れている髪を掻きむしり、どこか面倒くさそうに電話を掛け始めた。
「……ああ、起きた起きた。元気だよ元気」
ただそれだけを伝えた後、粗雑に携帯を置き、そのまま机に顔を伏せ動かなくなった。
一人置いてけぼりにされた俺はどうする事も出来ず、ただ丸くなったその背中を見ていた。
しばらくし、ドアの開く音が耳に入った。誰かが歩いてくる。
「……あっ」
思わず言葉が出る。そこに現れたのは、あの女――麻祁だった。
相変わらずの無表情で睨むような視線を俺に向ける。
チラチラと目に入る服装は天渡三枝高の制服ではなく、真新しい別の制服姿だった。
どうしていいのかわからず、目の前にある仏頂面を見続ける。
「どうした? 刷り込みか?」
「え?」
言葉の意味が分からず、俺は聞き返した。しかし、麻祁からの答えはなく、すぐに振り返ってドアへと向かい歩き出した。
ノブを回す音の後、麻祁の声が聞こえた。
「動けるならついて来い。報告がある」
「ほ、報告?」
カーテンに向かい問いかける。――誰の声も返ってはこない。
何とか話をまとめようと頭の中で先程の言葉を整理してみる。――だが、断片的なものばかりで当然話なんて繋がるわけもない。
不安で心臓が高鳴る中、俺は痛む体を起こし、とにかく麻祁の後を追うことにした。
ベッドの下に置かれた薄汚れた靴を履き、未だ動く気配のない顔を伏せている女性に軽く頭を下げ、その部屋をあとにした。
廊下に出て俺が初めて目にしたのは、正面にずらりと横並びになる窓ガラスの群れだった。そこから見える外の景色は薄暗く、ぽつんと置かれた街灯の明りだけが、廊下の色を浮かび上がらせていた。
俺は左右に首を振った。――いた。左に麻祁の姿があった。
黙ったまま俺の顔を見つめ、その後、背を向け歩き出す。
暗い廊下、響く二つの足音。俺と麻祁の二人だけ。
それ以外に誰の姿もない。その独特な空気に、俺の心はさらに不安で満ちていった。
一体どこに行こうと……?
直接聞こうにも、どう声を掛けていいのか分からない。
俺は少しでも不安を減らす為に、目に映る情報をとにかくかき集めた。
右――そこには窓があった。窓から見える外の景色は先程と変わりなく暗闇で包まれ、どれだけ目を細めた所で奥までは見えない。
麻祁の背に注意しつつ、少しだけ体を窓側へと寄せ、外を覗いてみた。
そこは小さな広場のようになっていた。草木が生え、更にはその周囲を照らすように、街頭が点々と立てられていた。
注ぐ明かりが地面の緑と道を照らし、より不気味な雰囲気を漂わせている。
視界を廊下から左側へと向ける。そこにはいくつものドアが並んでいた。
前に進む度、浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返す。
その内の一つに目が止まり、顔をあげた。そこには札のようなものが掛けられていた。
書かれている文字を確認する前に陰で隠され消えるも、数歩進むと再び札が現れた。
文字を見て見るとそこには『職員室』と書かれていた。
次に現れた札も確認する。今度は『資料室』
その情報だけで今居る場所がどこなのかは分かった。
ただ、そのせいもあり、また新たに疑問が浮かび上がった。
それは――ここがどこの学校なのか? ということだ。
唯一分かっている事と言えば、ここが俺が知る『天渡三枝高』ではないのは確かだった。
保健室にあんな人は居なかったし……。ここは、俺の知らない場所だ。
ふと視線をもう一度外へと向けた。
再び窓から見える別角度の景色、照らされたその広場をよくよく見ると色々な花が植えられているのが分かった。
花が植えられた広場……、どこだったかな。
覚えている限りの学校を景色、そういった話題の内容などを思い浮かべる。だが、俺の頭の中にはそれに該当するようなものはなかった。
脳内がさらに複雑さを増していく。いくら考えた所で、それが答えかどうかもわからない。
増す不安に、俺は麻祁に問いかけてみることにした。応えなどは期待せずに……。
「ここはどこなんだ?」
その問いかけに、思いのほか麻祁はすぐに言葉を返してきた。
「どこだと思う?」
突然の問いに一瞬戸惑うも、俺は先ほど得た情報を素直に答えた。
「学校……?」
「そうそう、分かってるじゃん」
廊下を左に曲がり、階段を上る。
会話が終わりそれ以上の言葉はなにもなかった。
頭の中でさらに渦巻く、『なんだよそれ』の言葉が――。
まったく解決のない答えに、俺はたまらずもう一度質問をした。
「どこの学校なんだ?」
「どこだと思う?」
その返しに俺は悩んだ。
わからないから聞いているのに、それを俺に問いかけてくるとは……。しかも、さっきと同じ問いかけ……。
ここが『学校』なのかはわかった。次は知っている学校の名前を口にした。
「……天渡三枝じゃない……よな?」
「そうそう、分かってるじゃん」
三階に着く。そのまま左右分かれる道の左へ曲がり、廊下を歩く。
一階と違い、三階には外の灯りはあまり届かず、代わりに空にある月明かりが廊下を照らしてた。
奇妙な薄暗さの中、青く染まる麻祁の背中が前で揺れる。
再び途切れた会話。俺の心は自然と折られた。
ダメだ……。いくら聞いたところで、妙にかわされて何も聞き出せない。
諦めようとした時、ふとあるモノが目に入りその瞬間新たな疑問が浮かび上がった。
それは薄闇の中で揺れる、長い銀髪に隠された麻祁の背中だった。
あの瞬間の映像が頭の中で思い出される。
……そういえば、刺されたはずなのに何故平気なんだ?
その考えた時、背筋に寒気が走った。
そう確かに俺は見た。
刺された瞬間に体を突き抜けたあの刃、吹き出る鮮血。
刀を抜かれた麻祁は力無くその場に崩れ、あの表情を俺に見せてきた。
開いた目に感情の消えた頬。地面には血が溢れ、滲み出ていた。
誰がどう見ても絶望的な状況なのに……なぜ、なぜ――生きてるんだ?
考えれば考えるほど、今目の前にいる女が幽霊のようにも思えてきた。
ましてやこの場所とこの雰囲気。化けて出てもおかしくはない……。
だが、この耳に聞こえてくる廊下を踏む二つの足音、そして先程までの会話が、『その考えは違うもの』だと否定してくれた。
幽霊ではない。しかし、それだけであれに関しての説明は全て出来ていない。
納得出来ない俺は、恐る恐るその事を聞いてみることにした。
「な、なあ、少し聞きたいんだけど……」
「なにを?」
「そ、その制服さあ……確か刺されたはずじゃ……」
俺の問いに麻祁は様子など乱さず、変わらない口調で答えた。
「ああ、あんな姿で徘徊してたら頭のおかしいヤツだと思われるだろ? だから新しい服に着替えた。お前の服も汚れていたから、新しいのに取り替えてある」
その言葉に、俺は自身の制服に目を向けた。
胸元を擦る。
確かに、麻祁の言う通り、今触っている制服は新しいものだった。
触れる度にハネるような感触が伝わる。シワもなく、それはクリーニングから戻ってきたようなものだった。
「俺のもやってくれたのか……よくサイズとか分か……」
言葉の途中で頭を振り、目的を戻す。
……危なかった。また話が切り替わるところだった。
「いや、その……妙なこと聞くけど、刺されたのにどうして……その、平気なのか――」
「入るぞ」
ドアの開く音。それに気付き、立ち止まる。
少し前を歩いていた麻祁が消えていた。
代わりに左の部屋から光が漏れる。それは外から照らす明かりとは違い、廊下と壁の色を鮮明に現す、眩いものだった。
俺はゆっくりと足を進め、覗くように中を見た。
「……えっ」
全ての思考が止まった。
ソファーに座る麻祁、そしてその奥には眼帯を付けた男が座っていた。
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