穏やかな森


 風吹けば花栗襲ひかかるごと



「花栗」は、「栗の花」の傍題。夏の季語。

 栗はブナ科の落葉高木。山野に自生し、人家や畑でも栽培される。花の時期は6〜7月。黄白色の穂のような雄花がやや上向きに咲き、緑色の雌花がその基部に固まる。甘く青臭い独特の匂いがある。




 我が家のあるマンションの隣の敷地には、近所の人たちが手入れをする菜園が広がっている。

 その菜園とマンションとの間に、大きな栗の木が数本植えられている。

 そんな畑や栗林に囲まれ、大きな通りから隔絶された我が家の庭は、人工的な物音はほとんど届いてこない。



 先日、からりと晴れた日。

 庇の張り出したバルコニーに木の折り畳み椅子を持ち出し、畑と木立を抜けて吹いてくる爽やかな風を一日中楽しんだ。



 風が木々の葉をざわざわと揺らす。

 日差しが明るい分、青々と茂った木立は鬱蒼とした暗さを生む。


 今は、栗の花の真っ盛りだ。

 噎せるように重たく青臭い、栗の花の独特な匂い。

 黄緑色の房のような形をした花が一斉に風に揺れる度、その匂いの塊が上から覆いかぶさってくるようだ。


 葉擦れの音に合わせ、木漏れ日がちらちらと揺れる。

 その木漏れ日の中を、無数のモンシロチョウたちが音もなくふわふわと飛び交う。

 漏れ落ちる日差しに、小さな羽をキラキラと輝かせながら。




 そこにあるのは、ただ風の音と、木々の音と。

 日差しと、木陰。

 噎せ返る花の匂いに、静かに蝶が舞い——

 時々、栗の花が房ごと散り落ちる音が微かに響く。


 そんな時間が、ひたすら流れるだけ。



 もしかしたら、まだ人間の存在しない遥か太古の森も、こんな風だったのではないか——

 気づけば、そんな不思議な感覚の中を漂っていた。






 人間という生物が地球上に誕生して、およそ600〜700万年だという。

 他の生物達の進化に比べ、随分と短い期間に著しく文明を発達させたものだと、そのスピードに改めて驚く。



 それまでどの生物も引き起こすことがなかった、公害や自然破壊。

 人間は、その卓越した知能を、自分たちの暮らしを豊かにするために酷く身勝手に濫用してきた——そんな気もする。



 どんな生物も、自分達の種を繁栄させ、存続させるために全力を尽くす。種の存続は、本能に最も強く刷り込まれた、生物にとって最大の使命だ。

 人間もまた、それと同じことをしてきたに過ぎない。

 ただ——人間は、その行為によって自分達を取り巻く多くのものを破壊していることに、長い間気づくことができなかった。


 そして、そのことに気づいても——一度豊かになってしまった文明を、環境のために昔の不便さへと逆戻りさせることは、恐らく不可能だ。



 ゴミの山。温暖化。大気・水質汚染、放射能汚染。

 人間は、自分達の生み出したものをどうにも処理しきれず、頭を抱えている。

 人類が存続する限り、地球という星の環境は悪化を続けるのだろう。




 けれど——

 地球が滅びる時まで、人間がこの星の支配を続けているかどうかは、わからない。


 人間も、単なる生物の一つの種類に過ぎない。

 発生、繁栄、衰退——どんな生物も、このサイクルを逃れることはできない。地球に君臨するように見える人類も、いつまでも繁栄を極め続けることは、決してできないはずだ。


 拡大する貧富の差。高齢化・少子化。生殖能力の低下。

 子を殺す親、親を殺す子。自分達が開発を進めたはずの人工知能に、じわじわと自分達の首を絞められる恐怖。

 実際に、人間の中の何かが自然なバランスを失い、少しずつ崩壊を始めている——そんな気がするのは、私だけではないだろう。 

 一方で、地球上に生命が存在できる環境は、あと約17億年ほど維持されるという予測がある。

 星の命の長さの中では、人間という種が星を支配した時代もまた一時いっとき

 ——むしろ、そう考える方が自然だ。




 もしかしたら。

 何らかの理由で、人間という種の生物が滅び、その文明も滅び——その時点で生き残った生き物や植物たちによって、この星が再び静かに覆われる。

 ——そんな時代が、来るのかもしれない。




 深々と茂る木々の葉が風に揺れるざわめきと、生き物達の鳴き声。

 空を飛ぶ昆虫の美しい羽が、ただキラキラと木漏れ日に輝く——


 遥か遠い未来に広がっているかもしれないそんな穏やかな森を、ふと思う。






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