第六章 7 湖畔の〝革命軍〟
出発の準備はできた。
戦争はどちらからともなく休戦状態になり、城の包囲はずっとゆるんだ。
内外で打ち合わせてあれば、夜中なら出入りも難しくない。
ダイキチが数人の腕利きの若い大工を引き連れてきて、テンペストをカンペキに整備してくれた。
「本気でお行きになるんですか?」
サナコさんが心配そうにたずねたのは、おいらたちのことではなかった。
「ああ、本気じゃとも。ほら、本人が来よった」
キリノとシノハラに両側から支えられ、巨体の上にさらに丸々と着ぶくれたサイゴウが、ヨタヨタとおぼつかない足取りで歩いてくる。
サイゴウが着ているのはサナコさんが大急ぎで仕立てた布団のように分厚い飛行服で、実際、元の材料は布団だった。
ダイキチたちが器体の外に取りつけた座席に、すがりつくようにしてサイゴウが座ると、重みでテンペストがグラリと傾きかけたほどだった。
奇妙なお荷物をくくりつけたテンペストは、いつもの倍以上の時間をかけてようやく離陸した。
サナコさんはもちろん、ヒジカタやチョウミンやミヤザキをはじめとする
情勢が変わった――
それは疑いないとしても、いったいどんな風に変わったというのか?
政府軍の主力が総撤退しなければならないほどの変化って何なのか?
電信が断たれて新しい情報が入らず、もともと「よそんこつはどうでんよか」という態度だった薩磨には、想像を働かせるすべさえなかった。
「おいは、龍馬どんと行くことに決めた」
政府軍が撤退した日、リョウマと二人きりで話し合ったサイゴウは、キリノら三人の司令官にそう告げただけらしい。
リョウマも会談の内容はくわしく話してくれなかった。
「たぶん行けばわかるじゃろ。わしも、実際のところどんなものが見られるか、さっぱり見当がつかんのじゃき」
などというばかりだったのだ。
テンペストは、サイゴウという大きな荷物をぶら下げていたが、西風に乗って順調に飛行した。
飛行経路は、もはや軍や警察の眼も気にする必要はなく、むしろ撤退していった政府軍を追うようにして
道筋には地元の民衆と思われる人垣が、通り過ぎる隊列を見送っている。
「勝ちいくさなら、提灯や旗を振って迎えるものじゃがなあ……」
人々は距離を置き、黙って見守っているだけのようだ。
海には、兵員輸送用に調達したらしい船が多数浮かんでいる。こちらの周りにも漁船や小舟が見えるが、見送るというより、どう見ても進路を妨害しているとしか思えない船がいくつもある。
その証拠に、輸送船は左右に小刻みに舵を切って、それらの間をやっとすり抜けるように進んでいた。
その日は、
急いでいるからなのか、丘の上からは政府軍が夜通し行軍するタイマツの光が細い帯となって見えた。
サイゴウはおいらたちと離れ、無言でずっとその光景に見入っていた。
翌日には、徒歩で行軍する列の先頭が見えてきた。
驚いたことに、前方の路上に無数の人が出て、進んでくる隊列と今にも衝突が起こりそうになっている。
政府軍は長いハシゴを前や横にかかげ、近づく者を牽制しながらやっとのことで進んでいる。
銃で威嚇したりしたら、それこそ暴動に発展しかねないからだろう。
そのために、後ろにつづく長蛇の列はところどころで渋滞を起こし、文字どおりヘビのようにいびつに曲がりくねっていた。
「あれは、いったいどういうことなんじゃ?」
「どうやら政府軍は、人々に嫌われとるようじゃな。……どうじゃ、これが今の現実ってものらしいぞ、
リョウマは、ダイキチが作りつけてくれた伝声管にむかっていった。
サイゴウの座席は、水平飛行に移るとおいらの真下にブランコみたいにぶら下がる形になる。
大きな風防メガネとマスクに隠れてサイゴウの表情は見えないが、下をのぞいている格好からは、ひどくとまどっている気配が伝わってきた。
「たぶん、こんなものではないぜよ。本当に見ものなのは、やつらの先……いや、もっともっと先じゃ」
リョウマが予言するようにいう。
撤退する軍隊に対する驚くような反応ぶりだけでなく、あちこちで人々の集団や騒ぎが見られたりして、どこでも不穏な空気が感じられた。
その夜は混乱を避け、
「いっしょに来たことを後悔してるのかい?」
「いや、そげんこつはなかが……」
子どものおいらが相手だからか、サイゴウはポツリポツリと重い口を開いた。
「龍馬どんがいうように、おいは隠遁しちょって世の中が見えとらんかったようじゃ。いや、その前からずっとそうじゃったのかもしれん。高い神輿の上にかつぎ上げられ、そこから人を見下ろしてきた。そのうち、遠くの人々はひと塊りにしか見なくなり、かついでくれちょる者たちのことばかりにとらわれるようになった」
「そうじゃ。歩かなけりゃ人の顔は見えんぞ。おいらは、物心ついたときにはリョウマに手を引かれて、異国の街の中を歩いちょった。見物もしたが、その日その日の宿と食事を求めて必死に歩いたんじゃ」
「おお、そん話をぜひ聞かせてたもんせ!」
おいらが放浪の旅のことを話している間じゅう、サイゴウは大きな眼を少年のようにキラキラさせて聞き入っていた。
不思議なことに、おいらの肩をほとんど離れないボコイが、サイゴウの巨大な身体や頭の上を、ずっと楽しそうに駆けまわっていた。
「……思い起こせば、龍馬どんは
遅くもどってきたリョウマとワガハイは、おいらとサイゴウが『ラ・マロセイエーズ』を歌っているのを見てびっくりしていた。
「西豪さん。明日は
「枇杷湖へ?
「危険な状態なのはまちがいなかろう。じゃが、それを静めるのも沸騰さすのも、枇杷湖での結果しだいじゃ」
「枇杷湖には、いったい何が……?」
「
泡路島からは海をへだてただけで大坂になる。
亰も枇杷湖への道筋に当たる。
さすがに大坂は大都市で人も多く、不穏な気配がはっきりとわかる。
右往左往する人影はたいがい小走りで、荷をかついだり大八車に積んでどこかへ避難していく人波があるかと思えば、広く繁華な通りにほとんど人の姿が見当たらなかったりする。
亰も似たようなもので、あきらかに異常な雰囲気がただよい、都市の機能は完全に停止していた。
上空から見ることではっきりとわかることもある。
亰、大坂をおびやかしているのは、あらゆる道筋を通ってそこを目指す長い人の列だった。
のぼり旗をかかげて大きな集団になっているところもある。
「これは……一揆ってものじゃないのか?」
ワガハイが恐ろしげに声を震わせていった。
「もはや一揆なぞという規模を超えちょる。日ノ本じゅうの怒りが、ついに爆発しちまったんじゃ。あの連中が目指しとるのは、大坂に置かれた臨時政府じゃろう」
リョウマの声も心なしか青ざめている。
亰から山を越えると広大な風景が広がった。まるで海のように見えるのが、日ノ本一の湖だという枇杷湖だった。その広い湖畔のある一点にむかって、今まででいちばん多くの人の波が四方から押し寄せてきていた。
(これが、ぜんぶ反乱軍だっていうのか……!)
おいらは息をのんで人々の大群を見下ろした。
テンペストがその中心に降下していくと、猛烈な逆噴射に密集していた人垣が大きく割れ、どよめきが上がった。
集まっている人々は、武器を持つ者もいるが、ふつうの農民や町民としか思えない。
どの顔も一様に緊張と不審の表情を浮かべ、降り立ったおいらたちを見つめている。
「おお、龍馬! よう来てくんなした。待ちこがれてたがや」
笑顔で迎えたのは、
その横には、同輩の
「見てくれや、龍馬。おめさんのおかげで、わしは日ノ本で最強の軍をひきいることができたど!」
カワイは自慢そうに背後の一群を示した。
どう見ても恵智後の農民の集団で、長い旅をしてきてだいぶ薄汚れていた。
だけど、ギョッとしたのは、かなりの数の者がショウザン先生の連発銃や速射銃を手にしていることだった。
「いやなに、本物は二〇丁ほどしかねえ。大部分は形を似せて墨を塗って作ったニセもんだ。本物だたって、たまに空にむかってぶっ放してみせただけだて。官憲はたちまち尻尾を巻いて逃げってっちもうたよ」
コバヤシが、こっそり耳打ちするようにおいらに教えてくれた。
「なるほど。象山先生のいうとおりでしたな。最新鋭の武器の本領は威嚇じゃ、と。本当にものをいうのはそれにつづく人の数じゃ」
「ああ。そのおかげで勢いがついたて。愛津と
全体では一〇万人以上にも達しようかと思われる人々の多くは、カワイたちの呼びかけに応じたり、噂を聞いて竹ヤリやカマを手に駆けつけた他の地方からの参加者だったのだ。
彼らは湖畔を埋めつくして、まだまだその数は増えつつあった。
カワイがつけ加える。
「予定どおり、
「なんだ、じゃあ、愛津でしていた相談って、このことだったのか?」
おいらはリョウマを見上げてたずねた。
「いや、あんときはまだ計画といえるようなものなんぞなかった。じゃが、意見は一致しとった。軍や警察のド肝を抜くような強力な武器を持った者が、民衆の賛同を得て先頭に立てば、政府の転覆も可能だ、とな。民衆が一致団結して立ち上がることほど、権力者を震え上がらせることはないんじゃ。維新戦争は、結局サムライ同士の勢力争いにすぎんかった。一〇年たってようやく本物の革命が起こったのさ」
「チェッ、もったいぶりやがって。こんなことになってるなら、もっと早く教えてくれりゃよかったんだ」
ワガハイは、いかにも不満そうに口を尖らせていった。
リョウマが笑った。
「何をいうちょる。東北、北陸で民衆が蜂起したっちゅう情報は、パラシュートの設計を
「あっ! そ、そうか……」
ワガハイは、そのことをすっかり忘れていたらしく、真っ赤になった。
だけど、おいらだって、サムライや兵隊でない者たちがすこしくらい暴れたって、たいしたことになるはずがないと思っていた。
政府にしたって、そうたかをくくっていたから日ノ本じゅうの軍隊を玖州に送り込んでしまったのだろうし、薩磨にいたっては、だれもが想像すらしていなかったのだ。
木立の間に幕を張って区切っただけの場所に案内されていくと、敷かれたゴザの上に座っていたのはオオクボと、苦りきった顔をしたイトウヒロブミだった。
西豪は、布団のような飛行服をようやく脱いだ。
その風貌からすぐに正体がわかってしまうのを避けるために、ずっと飛行帽や防風メガネも着けたままでいたのだ。
「西豪さん……」
オオクボは立ち上がって礼儀正しく頭を下げ、イトウはしぶしぶそれに従った。
「大久穂どん。お久しゅうごわす」
西豪はゴザに正座し、ていねいに頭を下げた。
イトウが憤然といった。
「坂元さん、あなたは、何の権利があってわれわれをこんなところに呼びつけたのかね? 大久穂さんは、いやしくも太政官政府を総裁する内務卿、わたしは大蔵卿だぞ。国がこのような焦眉の事態にあるというのに……」
すると、カワイがピクリと眉を上げてイトウにいった。
「あんたがそんげに立派な地位にあるがだば、幕の外に出て『おれは大蔵卿の
「い、今にみろ! 玖州から、政府軍がおまえら暴徒を鎮圧しに来る。何万人がナタやカマなど振りかざしたところで、近代兵器を持った軍隊にはかいっこない」
「そうだろかや? 政府軍は、亰、大坂にたどり着くのもやっとだろうて。だいいち、薩磨のサムライとの戦いとはわけがちごうぞ。兵隊は、徴兵されたわれわれの息子や兄弟たちだ。彼らが身内を撃ち殺してまで手柄を立てようとすると思うがか?」
コバヤシが冷静な口調でだめ押しするようにいうと、イトウは怒りで握りしめた拳を震わせ、クタクタとその場にへたりこんだ。
代わりに顔を上げたのはオオクボだった。
「つまり、私たちは今や、全国民から弾劾される立場であり、権力も戦力も失った裸同然の罪人のようなものなのだな。そんな私たちをこのようなところへ呼びつけて、どうする気だ? まさか、フランセ革命での王侯貴族たちのように、公開処刑にでもしようというのか」
オオクボは、黙ったままのリョウマにむかって、泰然としてたずねた。
「大久穂さん、わしがいった言葉を憶えているかね? 『あんたがわしの言葉に耳を傾ける気になったころに説得に来る』といったんじゃ」
「よく憶えているよ。しかし、すべてを失った私を、今さら説得して何になる?」
「失ってなどおらんさ。政府はまだ大久穂さんしだいじゃ。あんたが決断すれば、維新政府はどのようにも変貌させることができる。日ノ本の希望を実現する要となれるんじゃ」
「もはや私にはそんな力はない。だれも私になどついて来やせん」
「いや、来る。政府は大久穂さんが引っぱり、民衆は西豪さんが引っぱればいい」
幕の中にいた人々は、アッといっせいに声を上げた。
「そうすりゃ、だれもがついて来る。もう一度西豪さんと手を結ぶんじゃ――」
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