第六章 4 戦場の『ラ・マロセイエーズ』
石垣の内側では、銃撃した兵士たちが周囲の者にたちまち飛びかかられ、取り押さえられた。
一人は呆然と立ちすくんでおり、つられて撃ってしまっただけのようだ。
あとの二人は、功をあせった者なのか、緊張感に耐えきれなかったのか……。
銃声はそれ以上つづかなかったが、一触即発のきな臭い雰囲気は、両軍の間に一挙に高まった。
すると、
途中で倒れた兵を助け起こし、そばの者の肩にすがらせると、さらに前へ進んでついに先頭に出た。
「
リョウマがうめくようにその名を口にした。
頭を坊主のように短く刈りこんだ、恐ろしく巨大な体躯の男だった。
はちきれそうな軍服に身を包み、武器らしいものは何も帯びていない。
その盾になろうと横に並びかけたキリノらしい男を手で制し、何ごともなかったかのように悠然と歩きだすと、一万を超える兵士たちが、その後にしたがってふたたびいっせいに動きはじめた。
初めて眼にするサイゴウの姿に、おいらは、その人物について今まで抱いていた多くの疑問が、いともあっさりと消えていくのを感じた。
サイゴウという人間には、理屈や利害や好悪の感情を超えて、その存在感であらゆる者が圧倒されてしまうのだ。
それまで、堂々とはしていても、どこか慎重でおのおのが探り探りするようだった薩磨兵の足取りが、サイゴウの歩みに合わせることでたちまち自信に満ち、力強さを感じさせる歩きっぷりになった。
すると、ザッ、ザッと響く足並みの中から、何か別のものが聞こえてきた。
いざたて、わがともらよ……
よあけは、ちかい……
一歩一歩進むたびに、飛び火するようにあちこちから新しい声が加わり、かすかな鼻歌ていどだったものが、すぐにはっきり歌声として聞き取れるようになった。
虐げし者は今、光見ておののき……
我らが鬨の声、朝焼けに満つるよ……
「『ラ・マロセイエーズ』だ!」
ワガハイが驚きと興奮の入り混じった声でいった。
キリノ、シノハラとともにサイゴウのすぐ後ろを行くムラタが、かついでいたアコーディオンをすばやく胸の前にかまえ、めいっぱいの音量でメロディを奏ではじめた。
そうさ、やつらを追いつめ――
闇の彼方へ、逃げまどわせるぞ――
ムラタの調子のいい伴奏が加わると、歌声は一気に薩磨軍全体に広がった。
歌詞を知らない者も、見よう見まねでメロディを口ずさみ、腕を振ってリズムをとりだす。
武器を取れ! 隊列組め!
進もう! 進もう!
栄光の地、踏みしめるまで!
リフレインになると、怒号のような大合唱になった。
歌の勢いを得て顔に闘志をみなぎらせる者もいれば、ほがらかな笑みを満面にたたえた者もいる。
もうそれは歌声というものを超えていた。
人間の発する力、人間の群れがひとつになって発するとてつもないエナジーが、行列から波動のように伝わってくる。
おいらはひざがガクガクするような、恐怖とも感動ともつかない異様な感情の高まりにとらえられていた。
「さすがは西豪さんじゃ。いや、さすがは薩磨というべきか……」
リョウマが呆然とその光景を見つめてつぶやく。
鋭いまなざしを前方にすえたままのタニの眼の端から、ツーッと一筋の涙が伝い落ちた。
「い、行きましょう、わしらも!」
タニが声をうわずらせていい、おいらたちもハッとした。
薩磨軍の先頭が、まもなく城門に達しようとしていたのだ。
おいらたちは、城内を駆けるような早足でそこへ向かった。
城門の外からは、もう薩磨の軍歌のように聞こえる『ラ・マロセイエーズ』が、堅牢な扉をそのまま打ち砕くほどの高まりとなって迫っていた。
だが、驚いたのはそれだけではなかった。
城門の前には、一分の隙もなくきれいに整列した政府軍の籠城部隊が、おいらたちの到着を待ちかまえていたのだ。
薩磨の豪放さに対して、端正なまでに厳しく統率された制服兵士たちの隊列の美しさは、それはそれでおいらの胸を強く打った。
その前を背筋をピッと伸ばして歩いていくタニの後ろ姿を見ると、これらの兵士を率いて一か月近く熊元城を支えて戦いつづけてきたのが、まちがいなくタニという人物の意志と人柄だったことが実感された。
「開門――」
タニのよく通る声が命じると、柱ほどもある太いかんぬきが外され、大扉がゆっくりと押し開かれた。
そこに立っているのは、まるでサイゴウ一人であるかのように見えた。
それくらい際立った存在感があった。
歌はすでに止み、水を打ったような静けさの中をサイゴウが門をくぐってくると、数歩後をキリノ、シノハラ、ムラタが横一列になってつづいた。
タニがサッと敬礼すると、籠城軍の全兵士がいっせいにそれにならった。
「
その言葉は、自分たち敵軍をよく迎え入れてくれた、とも、みごとに奮戦してこの城を守り通したな、というようにも聞こえた。
いずれにしても、だれ一人それに異を唱えることのできない、サイゴウという人物ならではのねぎらいの言葉であり、すべての者の心にしみわたった。
「立場上、城をお渡しします、とは申せません。ですが、どうぞ、存分にお使いください」
「かたじけなか。では、やはり行きもすか?」
「はい。なぜあのようなものが城内に持ち込まれていたのか、問いたださなければなりませんので」
「じゃっどん、糾弾する相手は、貴官の上官の
タニはこだわりのない笑みを浮かべていった。
「承知の上です。しかし、なにより、これ以上部下を無用な恐怖と危険にさらすわけにはまいりません。それに、本官らが全員退去してしまえば、たとえ未発見のものがあるとしても、薩磨軍に対して使われることはありえませぬ。ご安心くだされ」
再度タニはサイゴウに敬礼すると、これがしかるべき順序ですからとでもいうように、薩磨軍が入城するより先に、籠城軍の先頭に立って門を出た。
おいらとワガハイは我慢できずに、それを追って門の外に走り出た。
長い坂道にはまだ薩磨軍がえんえんと列をなしている。
その横を、きれいな二列縦隊をつくった籠城軍が整然と行進していく。
両軍の間には無用な緊張感はなく、代わりに、互いに対する粛然とした敬意のようなものがただよっていた。
タニが指示したのか、それとも自然に起こったものなのか、通過していく籠城軍が薩磨軍にむかってつぎつぎと敬礼した。
すると、それに応えるように、薩磨軍の中からまたもや『ラ・マロセイエーズ』の歌声がわき起こった。
どんどん高まっていくその大合唱は、もはや薩磨だけのものではなかった。両軍が声をそろえて歌っているのがはっきりとわかった。
それは、その場に居合わせた者たちだけが共有した、つかの間の夢のようなものにすぎなかったかもしれない。
だけど、それは本当にリアルで、鮮やかな夢だった。
なぜなら、おいらもワガハイも、同じものを見た気がしたからだ。
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