第五章 7 無人の街の『ラ・マロセイエーズ』

「リョウマ、もう行こう……」


 おいらは、口をへの字に曲げて眼を閉じたまま座っているリョウマに呼びかけた。

 薩磨サツマ軍の幹部たちは全員引き上げてしまい、ガランとした座敷にはおいらたちとミヤザキだけがとり残されていた。


「城門が開いたとしても、誘いに乗らなけりゃよかだけのこつじゃ」

 リョウマがどうしても〝画期的な方法〟というのを明かさないのに業を煮やして、キリノがそう提案し、おいらたちを無視して予定していた軍議を淡々と進めた。

 それがとうとう終わったのだ。


 門を出たところに不ぞろいな三つの人影があった。

「龍馬さんたちだけがなかなか出てこないんで、心配しちょりました」

 チョウミンがいった。

 横にいるのはサナコさんとワガハイだ。

 おいらたちのことが気になって、迎えにきたのだろう。

 ボコイを含めた六人は夜更けの街を歩きだした。


「話し合いはうまくいかなかったんですか?」

 サナコさんが仏頂ヅラのリョウマに恐るおそるたずねた。

 ヤマガタの密談から得た情報については、おいらがサナコさんとヒジカタにあらためて説明した。

 だけど、リョウマが思いついた〝画期的な方法〟があるというのは、おいらもさっき耳にしたばかりだ。

 その内容はまったくわからない。

 不意の襲撃に備えてサナコさんも剣を帯びているくらいだから、会議の内容など路上で話せるわけがないのだが、聞かずにはいられなかったのだろう。

 リョウマは黙ったままだし、自然とだれもが無言で歩いた。


「なんだ、あれは?」

 おいらは顔を上げてキョロキョロと見回した。

「妙に懐かしい音色じゃな……風琴か」

 リョウマも立ち止まって耳をすました。


「風琴――って、アコーディオンのことだよな。こんな無人の街で、そんなものだれが弾いてるんだろ?」

 ワガハイが音色につられるように次の角まで行き、奥まった屋敷を指さした。


 ロウソク一本を縁側に立て、横にあぐらをかいてアコーディオンを抱えている白いワイシャツ姿の人影があった。

 奏でているのはゆったりとしたもの悲しいメロディだが、おいらにはどこかで聞いた記憶があった。


「あっ、『ラ・マロセイエーズ』ですよ。ほら、フランセ国歌の!」

 チョウミンが気づいて思わず声を上げた。


 すると、フッと音が途絶え、弾いていた人物が垣根ごしにこちらへ手招きした。

「ようおわかりですな。あなたも洋行のご経験がおありですか?」

 その声はムラタシンパチだった。

 会議のときの威厳に満ちた薩磨弁ではなく、みちがえるようにていねいで理知的な話しぶりだ。


「ええ、二年あまりフランセに渡って、ルサウの人権思想を学んできました。土左トサ中柄ナカエ兆民チョウミンと申す者です」

「そうでしたか。そちらの龍馬さんにさきほど痛いところを突かれてしまいましたが、おいは外国ではあらゆることに圧倒されて、残念ながら学んだといえるほどのものは一つもありません。ですが、音楽には、心がすっかりどこかへ飛んでいってしまうほどに魅了されましてね。宿泊先のオテルをこっそり抜け出しては、何度もコンセールに通ったものです。おいの洋行土産はこれ一つなのです」

 ムラタは、胸のアコーディオンを愛しげになでながら小さく笑った。


「だけど、おいらが憶えてる『ラ・マロセイエーズ』はあんな風に静かな曲じゃなかったぞ。歌詞もすごい。たしか〝暴君どもに慈悲は無用だ〟とか〝やつらがわが妻と子の喉をかっ切る〟とか、聞いててびっくりした。あれがほんとに国の歌なのか?」

 おいらがいうと、リョウマが得意げに解説した。

「フランセ国歌ちゅうのは、つまりフランセ革命の歌なんじゃ。南部の港町マロセイユから出発した市民の義勇軍が、パレへの行軍中に歌ったのが始まりじゃという。血なまぐさいのも当然じゃ。戦士の闘志を鼓舞するための行進曲だったんじゃからな」


 すると、チョウミンがフランセ語でその歌詞を口ずさみ、ムラタがそれに合わせて伴奏をつけた。

 おいらもメロディを思い出してハミングした。

 くり返しになると、サナコさんもきれいな高い声でおいらの後を追っかけだしたが、節回しがまるで江渡エドの小唄みたいだ。

 ワガハイはぜんぜん調子っぱずれだしフランセ語も知らないくせに、うっとりした顔で身体まで揺らして鼻歌を歌っている。


「いやあ、わしはフランセ語だけは苦手じゃ。舌が回らんし、歌詞も意味もろくにわからんでは、歌うてても気分がいまいち乗らんからのう」

 歌の輪に加わらずにニヤニヤしてばかりいたリョウマが、言い訳がましくいった。

「それなら、ぼくが日ノ本ヒノモトに合うように翻案した歌詞がありますよ」

 チョウミンは懐から半紙と筆を取り出し、サラサラとそれを書きつけた。

「おお、こりゃいい。コトコ、おまえがまず手本に歌うてみい!」


 おいらが半紙を受け取ると、ムラタが本来の軽快なテンポの前奏を始めた。


    いざ立て 我が友らよ

    夜明けは近い

    虐げし者は今

    光見ておののき

    我らが鬨の声

    朝焼けに満つるよ そうさ

    やつらを追いつめ

    闇の彼方へ

    逃げまどわせるぞ


    武器を取れ

    隊列組め

    進もう! 進もう!

    栄光の地

    踏みしめるまで


 おいらが歌い終わると、ワッと盛大な拍手が起こった。


「ぼくには、あんなに過激な言葉はとても使えませんからね。これくらいがせいいっぱいですけど」

 チョウミンが恥ずかしそうにいうと、サナコさんが首を振った。

「いえいえ、素晴らしいですわ。蓮華亭の講義には何も知らないわたしだって聴きほれましたけど、これも兆民さんの名調子になっていますよ」

「そのとおりです。私も『民約論』を読んだときの感動を思い出しました。フランセ革命の精神こそ、私の理想です」

 一歩後ろにいたミヤザキが進み出て、涙を浮かべてチョウミンの手を握った。


「よし、こんどはみんなで歌おう。武良田ムラタさん、もういっぺんお願いします!」

 リョウマが芝居がかって頭を下げると、ムラタは苦笑していった。

「いいのですか? この夜中に大声で合唱なぞしたら、人がびっくりして眼を覚ましてしまいますよ」

「かまわん、かまわん。どうせ薩磨のサムライしかおらん。無人同然の街じゃ。遠慮なんぞすることはない」


 リョウマの乱暴な理屈にも、だれもが笑って反対しなかった。

 会議では強引なキリノと黙りこくったシノハラの間であくまでも冷静さを保ちつづけたムラタも、カラカラとくったくなく笑うと、思いきり音量を上げて弾きだした。


 おいらはもう歌詞を憶えたから、紙をサナコさんに渡し、リョウマとミヤザキがその脇からのぞき込んで歌っている。

 漢詩をスラスラ暗唱するほど記憶力のいいワガハイは、メロディは適当ながらも、いい機嫌で声を張り上げた。

 三回もくり返すともうすっかり慣れてしまい、リョウマとチョウミンとミヤザキは肩を組んで身体を揺すり、おいらやサナコさんは手拍子し、ワガハイは踊りだすしまつだ。


 気がつくと、垣根のむこうの路地にはズラリと人垣ができていた。

「ああ、やっぱり起こしてしもうたか。騒がせてすまんこつじゃ」

 ムラタがアコーディオンの手を止め、薩磨の兵士たちに頭を下げた。


「武良田どん、そげなこつはなかとです。いよいよ決戦の日取りが決まったとあって、気が張ってみなよう眠られんとでごわした。そこにこの景気よか歌が聞こえてきて、思わず誘われて出てきよったとでごわす。おいどんらも加えてもろうてよかですか?」

 士官らしい若者が、彼らを代表していった。

「おお、もちろんじゃとも。さあ、遠慮せんで入ってくるがいい。いっしょに歌おうぞ」

 リョウマは勝手に兵士たちをどんどん呼び込んだので、小さな庭はたちまちいっぱいになり、さらににぎやかで楽しく盛り上がった。


「武良田さん。話がある」

 何十人という歌声でアコーディオンの音もかき消されるほどになったとき、リョウマがムラタに耳打ちするのが聞こえた。

「何です?」

「わしは、どうしても西豪サイゴウさんに会わねばならん。わしがいった作戦には、西豪さんの存在が不可欠だし、西豪さん自身を救うことにもなるんじゃ。桐乃キリノ筿原シノハラに話しても、けっして賛成はすまい。武良田さんだから打ち明けるんじゃ。聞いてくれるか? そして、納得がいったら、わしを西豪さんの隠れ家へ案内してもらいたい」

 ムラタはリョウマの顔をじっと見つめ、それから小さくうなずいた。


 二人はにぎわいを抜け出し、こっそり部屋の中へ入っていった。

 しばらくしておいらがそちらをふり返ると、障子に映っていた人影がいつのまにか消えていた。


『ラ・マロセイエーズ』はいつ果てるともなくつづき、人垣はさらに増えていった。

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