第五章 3 おいら、逃げるぞ

 廊下を怒りにまかせて踏み鳴らす足音が遠ざかっていくと、カワジは壁際に置かれた長持をかき回して柔らかい腰ひもを見つけ、おいらを縛った荒ナワと取り替えてくれた。

 おいらは身体がずっと楽になり、さらに猿ぐつわも外された。


「礼はいわんぞ」

 おいらが上眼づかいでにらみつけると、カワジは唇に不敵な笑みを浮かべていった。

「かまわん。しかし、これで井藤イトウの毒牙にかかることも、山潟ヤマガタに命を狙われることもなかろう。おいは拷問だの、つまらぬ尋問もせん。安心するがいい」


 やっぱり油断のならない男だ。

 ヤマガタがおいらを刺そうとした瞬間にちょうど現れたのかと思ったら、その前から蔵の中のやりとりを聞いていたにちがいない。


 おいらはちょっとためらって、それから小声でいった。

「だったら、オオクボについての話も知ってるのか?」

「あ……ああ。あの二人がたくらんでいそうなことなら見当はつく。大久穂オオクボさまがわざわざここにお出ましになることはなかろう。おいの抜刀隊がその必要をなくしてくれるはずだからな。しかし、おまえは優しい娘だな。大久穂さまはさぞお喜びになろう」

「そんなことじゃない。おいらは借りをつくりたくないだけじゃ」

 それを聞くと、カワジはさも愉快そうに声をたてて笑った。


 だが、笑いを収めたその表情は、冷酷な大警視のものにもどっていた。

「戦場に火を放ったのは、いつもおまえの肩に乗っている小さなケモノか? そうか、カツ海舟カイシュウが『生きた大砲』と冗談めかしていっておったな。澄田川スミダガワの大火玉や尽地ツキジの怪炎、大晦日の外濠の花火も、さしずめそいつの仕業だろう」

 さすがにカワジは、ボコイが火を噴いた一連の出来事をちゃんと把握していた。

 火を噴かせたのがおいらだと知られたら、こんなあつかいではすまなくなるかもしれない。


「だが、たかが奇獣一匹の力くらいでは、戦争の大勢まで変えることはできん。抜刀隊が投入されれば、太原坂タバルザカはほどなく突破できよう。あとは熊元クマモト城下の決戦になろうが、もはや多勢に無勢だ。結果は見えとる。大警視としてのおいの本当の関心は、そんなところにはない。何だかわかるか?」

「何じゃ?」

 おいらは、つりこまれて思わず問い返していた。


「人心を騒がせ、都市の安全をおびやかすものの徹底的な排除さ。火を放つ奇獣などというものはもちろんだし、要人暗殺をもくろむ反政府分子、いたずらに民権思想を振りかざす政治家や思想家もおるな。それに、空を飛ぶ器械だの、人がひそむ大時計などという怪しげなものを作るような人物も捕らえねばならん。戦争が終わったあかつきには、一網打尽にしてくれるわ」

 そうか。カワジは、おいらたちに協力してくれたチョウミンやギエモンさんまで逮捕するつもりなのだ。


「それより何より、まっ先に捕まえねばならんのは、そいつらの間を暗躍して騒動の火種をまき散らしていく危険人物よ。……わかるか? それは、おまえの父親さ」


『おまえの父親さ』といったときのカワジの不気味な表情が、いつまでも頭の中にちらついてしかたなかった。

(あいつは助けてくれたわけじゃない)

 おいらをオトリにして、リョウマをおびき寄せるつもりなのだ。


 カワジが去ったすぐ後から、扉の前にはつねに見張りの気配がするようになり、土蔵の周囲を定期的に巡回する者の足音が聞こえるようになった。

 わざと警戒を厳重にし、ここにおいらが閉じ込められていることを見せつけようとしている。


 これ見よがしに警戒に当たっているやつらだけじゃない。

 トイレに行かせてもらおうと扉を開けたとたん、向かいの物置の中で急に黙りこむいくつもの気配があった。

 土蔵が襲撃されたときに備えて、かなりの数の警官がつねに待機させられているのだ。


 リョウマはまちがいなく助けに来てくれるだろう。

 だけど、それは何重にも仕掛けられたワナの中に飛び込むことなのだ。


(リョウマを来させちゃいけない。だとしたら……)

 そうだ、おいらが逃げるんだ――

 その考えは天啓のようにおいらの頭に浮かび、離れなくなった。


 おいらは必死に考えた。

 ギエモンさんに相談できたら……せめてワガハイでもいてくれればと思ったが、それは無理な相談だ。

 しかもろくに身動きできないし、道具もない。


 身体を自由に動かせるのは、ヒモを解いてもらえる食事とトイレのときだけだ。

 となれば、やっぱりトイレに行く途中で見張りの手を振り切るか、トイレの中から脱出する以外ないことになる。


 用足しに連れていってもらい、あらためて構造を調べた。

 トイレは当然汲み取り式だから、昼でも暗い穴がのぞける。

 でも、脱出するのは夜しかない。

 真っ暗な中でそこに落ちて身動きできなくなったらと想像すると、背筋がゾーッとした。

 だけど、小窓は小さすぎるし、格子もはまってる……。


 呆然としながら頭上の小窓を見上げたとき、そこにチョロッと何かが動いた。

「ボコイっ」

 おいらは思わず声を上げてしまい、あわてて自分の口を手でふさいだ。


「どうした?」

「な、なんでもない。こっちのことじゃ。女の子に恥をかかすな!」

 わけのわからない言い訳で外の見張りをごまかし、飛び降りてきたボコイを急いで着物の下に隠した。


 土蔵にもどるとすぐにまたヒモで縛られたが、ボコイがかじってあっさり解放してくれた。

 何日かぶりで抱きしめたボコイに、おいらはどれほど癒されたことだろう。

 涙ぐみそうになったが、泣くのは脱出できてからだと気持ちを引きしめた。


 ボコイが現れたってことは、リョウマは今夜にも救出しに来るのだろう。

 その前になんとしても自力で逃げ出さなければならない。


(だいじょうぶだ。おいらにはボコイがついてる!)


 ダメで元々と思いながら「おいらの飛行服を返してくれ」と見張りにいってみた。

 すると、きれいに洗濯してたたんだ飛行服を、カワジ自身が持ってきた。

「父親が恋しいだろう。おいも坂元の顔が見たくてたまらんなあ」

 余裕たっぷりのしたり顔でいい、長持の上にそれを置いて出ていった。


 リョウマが来るのは、おそらく昼の戦闘で疲れた将校や兵士が寝静まった夜更けになってからだ。

 おいらは、まだ廊下を往きかう足音や遠くの笑い声が聞こえる宵の口に行動を起こした。


 飛行服に着替え、重い長持を横に移動させる。

 外を巡回する警官の足音が、そちら側の壁のむこうを通るときにいちばん近く聞こえたからだ。

 塀か建物が接近していて、通路が狭くなっている証拠だ。

 それだけ人眼に触れにくいはずだ、と考えたのだ。


 ボコイをクルリと変身させると、板壁にむかって慎重に火を噴かせた。

 ほとんど使ったことのない危険な炎――オルシア人の胸板をあっという間に貫き、一センチの鉄板さえ貫通した殺人光線だ。

 あまりの高熱のために煙も臭いもたいして出ない。

 壁に描かれた円を足で押すと、ゴソッと鈍い音がして穴が空いた。


 ボコイがぴょんと飛び出し、左右をキョロキョロ見回してからこっちを見た。

 人影はないらしい。

 おいらは後につづいてはい出し、中の長持と壁板を元にもどした。


 司令部にされた屋敷はかなり広かった。

 瓦屋根つきの立派な土塀で囲われ、大きな母屋につながる土蔵のほかにも別棟や家畜小屋などがある。

 塀はおいらが乗り越えるには高すぎるので、塀の上に飛び移れそうな木立でも探すしかない。

 でも、庭や建物の角にはかがり火が焚かれ、まだ縁側を歩く人影も見えた。

 おいらとボコイは縁の下にもぐり込んで移動することにした。


 屋敷の奥まったところに、専用の小さな庭に面した離れがあった。

 部屋の明かりが障子戸越しに庭を明るませていて、隅の小ぶりな松の枝がちょうどうまいこと塀のほうに張り出しているのがぼんやり見えた。


(よし――)

 意を決して縁の下からはい出そうとしたとき、それが聞こえてきた。

「……カワジに気取られてはならん。あいつは後から出てきおったくせに、手柄をぜんぶ横取りする気だ」


 低められた声だが、ヤマガタのものだとすぐにわかった。

 おいらとボコイはこんもりした植え込みの陰に隠れ、聞き耳を立てた。


「悔しいが、抜刀隊の効果はてきめんだった。薩磨サツマ軍は太原坂からあと数日もせぬうちに掃討できよう。その後は市街戦だ。ちょうど援軍も大増強される。こちらの絶対的有利は動かん。だが、町中の戦闘となると、戦線はあちこちに分散して収拾がつかなくなる恐れがある。薩磨は、物陰や家屋に潜んで斬り込みをかけるようなゲリラ戦にも出てこよう。しかし、二度と抜刀隊に頼るようなまねはせんぞ」


「では、市街を焼き払うおつもりですか?」

「いや。いかに戦略上のこととはいえ、あれだけの大都市を灰にしては、軍は強引だ、無策だと悪い評判をまねこう。それに、薩磨には〝逃げる〟という奥の手がある。劣勢がさらにはっきりしてくれば、やつらは鹿仔島カゴシマに総退却してしまうかもしれん」

「それでは戦争が長引くだけでなく、地の利も民衆も薩磨軍に味方しますな。それこそ、鹿仔島全土を焼きつくさねば終わりになりませぬ」


「そこでだ……」

 ヤマガタはいっそう声を低めた。


「薩磨軍を分断する、という作戦だ。各個撃破となれば戦いはずっと容易になる」

「なるほど」

「〝旋風連センプウレンラン〟を憶えていよう。鉄砲も持たぬわずか百数十名の反乱軍に熊元城内にまで攻め込まれ、司令官も殺された。――あれを再現するのだ」


「どういうことでしょう……?」

「これは政府内でも秘中の秘だが、あれは薩磨に熊元城のもろさと政府軍の弱兵ぶりを印象づけ、将来薩磨が決起した際には、やつらを熊元城を落とすことに執着させ、本土への進軍を遅らせるためにこちらから仕掛けた作戦だった」

「なるほど。薩磨はまさにその策にはまったわけですな」

 ヤマガタが得意そうにうなずく気配があった。


「あの作戦はわしが立案し、大久穂卿の了解を得て実行した。城門を警護する兵を内部に潜伏した部下に斬り殺させ、反乱軍を引き入れたのだ。作戦が後になって外部に露見せぬように、司令官もどさくさにまぎれて殺害させた」

「本当ですか!」


「〝美しい戦争〟というものが存在せんように、戦争に正しいやり方などというものはない。勝った者が正義だ」

「しかし、それでは味方を裏切り、犠牲にすることに――」

「だからどうだというのだ。太原坂ですでにどれだけの兵、武器弾薬を失ったことか。残る兵の多数の命を救い、早期に戦いを決着させるためだ。多少の犠牲がともなうのはいたしかたなかろう。戦いの規模は旋風連の乱どころではない。腹をくくってかからんと成功せんぞ」


 ヤマガタの考え方はどう見ても卑怯だし、理屈はおかしな風にねじ曲げられていたが、恫喝するようにたたみかけるその言葉に、部下はついに沈黙してしまった。


「必要な仕掛けはすでに旋風連の乱のときから施してある。段取りはこうだ……」

 ヤマガタの口調が事務的なものになった。

 ためらっていた部下も、作戦の細部を聞かされていくにつれて逆らえなくなっていくのが雰囲気でわかった。


 とんでもないことを聞いてしまった!

 薩磨軍がだんだん劣勢になってるってことは、カワジの言葉や司令部にただよう雰囲気からも察せられたが、こんな作戦が実行されたら、戦争は一気に政府軍の一方的な勝利に傾いていってしまう。

 リョウマやおいらたちが駆けつけた意味はなくなるのだ。


(このことを知らせるためにも、どうしても脱出しなけりゃ――)

 もう自分が助かりたいってだけではなかった。

 使命感がおいらの心を奮い立たせた。


 と、そのとき――

 ドカンと大きな破裂音が響いた。


 母屋のむこう、たぶん正面の門のほうだ。

 すぐに屋敷のあちこちから戸を乱暴に引き開ける音や廊下を駆けだす足音が起こり、たちまちハチの巣をつついたような大騒ぎになった。

 離れにいたヤマガタと部下も、剣を手にして廊下に飛び出していく。


(しまった。ぐずぐずしてるうちに、リョウマが……)

 おいらは庭の隅で呆然と立ちつくした。

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