第三章 5 ワガハイ、『漱石』を名乗る

 飛翔器は、キラキラと光を反射する水面をもっとよく見せてくれようとするように急降下した。

 岩の間を泡立って流れる急流がぐんぐん迫ってくる。

 すごい迫力だ。


 だが、ワガハイのようすが変だ。

 なんだかあわてて機器を操作している。

「おい、どうした?」

「か、舵がきかない……しまった、こんどは下降気流だ!」


 ワガハイは器体を必死になって立て直そうとしているが、あきらかに前進する勢いが落ち、枯れ葉が風に舞うようにフラフラと力なく押し流されていた。

 すると、おいらの腕につかまっていたボコイが、パニックに襲われたみたいにおいらの下にもぐりこもうとする。

 おいらがハッとして身体を浮かすと、ボコイはクルリと丸まりながら木枠の中に転がりこんだ。


「そうか……ボコイ、頼むよ!」

 おいらは、必死の願いをこめてボコイの黒い表面に手のひらを当てた。


 バウッ――!


 猛獣の咆哮のような低い爆音が腹に響き、飛翔器が一気に前に押し出された。

「うわわわわわっ」

 降下の速度が上がり、ワガハイはいっそうあわてふためいた。


 だが、勢いがついた分、空気の抵抗が強まって器体は安定した。

「はやく器首を上げろ! 川に突っこむぞ!」

 おいらは怒鳴った。


 器体の下側にいるおいらの眼下に、川底まで見通せる澄んだ流れがどんどん拡大していく。

 ワガハイは眼をつぶり、操縦桿を祈るように両手で力いっぱい引きしぼった。

 ガラスのように光る水面に接触したら、たちまち器体はその重い液体にからみつかれてしまうだろう。

 その後に起きることは、恐ろしくてとても想像する気になれない。


 視界がじれったいくらいゆっくりと持ち上がっていく。

 水面が接近するのとの競争だ。

 川の上をすれすれにかすめ、飛翔器はかろうじて体勢を持ち直した。


 しかし、一難去ってまた一難。

 川に突っこむのはまぬがれたものの、眼前には右にも左にも大きな岩がせり出していて、それが猛スピードで迫ってくる。


 ワガハイは歯をくいしばり、とっさに主翼を半分にすぼめると、器体を左右に振って斜めに傾け、つぎつぎ現れる岩の間をぬうようにしてすり抜けていく。

 運動音痴のワガハイのやることとはとても思えない。

 火事場の馬鹿力ってやつだろう。


 だが、この飛び方では浮力がつかない。

 おいらは、眼の前が一瞬開けた瞬間を見すまし、もう一度ボコイに噴射させた。


 ビュウ、ビュウウウウウッ――


「やった!」

 コケむした大岩にぶつかる寸前で飛翔器が跳び上がるように空中に浮揚すると、ワガハイが思わず歓喜の声を上げた。

 器体は噴射にあおられて激しく揺れたが、なんとか上昇して岩場を越えた。


 行く手に広々と枝を張った杉の大木が立ちはだかっているのを知ったのは、まさにそのときだった。


「ぐあああああっ!」

「キャアアアアアーッ!」


 バキッ、バキバキバキッ――


 二人の悲鳴は、太い枝がつぎつぎ折れる音の中に吸いこまれていった。


 ボコイにほっぺたをなめられて気がつくと、飛翔器は翼がもぎ取られた無残な姿で杉の大木の枝に引っかかっていた。

 ピョンと外に飛び出したボコイにつづき、おいらも横に張り出した枝にしがみついて抜け出した。


 その直後、器体が保っていた微妙なバランスが崩れた。

 葉っぱの間をズルズル滑り落ちていき、地面にグシャッと衝突して大破した。


 危ないところだった。

 めちゃめちゃになった飛翔器の中にワガハイの姿がない。

 木にぶつかったときの衝撃で外に投げ出されたにちがいなかった。


「おーい、キンノスケぇー! どこにいるんだー?」

 おいらが叫ぶ声が谷間に反響した。

「……キーン! ……ナツメーっ!」

 まともに名前で呼んだことがなかったから、適当に思いついた呼び方で叫んだ。


 ボコイがピクッと鼻をうごめかし、太い幹をスルスルと駆け下りたと思うと、河原につづく斜面のほうへ走った。

 あわててその後を追うと、ワガハイは石ころだらけの水辺で大きな岩の上に横たわっていた。


 おいらはドキッとした。

 こんなところに落ちたら無事でいられるわけがない。


「おい、生きてるか? しっかりしろ!」

「……ああ。なんだ、コトコか」

 呼びかけるとすぐ、いつもの仏頂ヅラで眼だけ動かしておいらを見上げた。


「なんだじゃない。怪我してないか? どこか打ったのか?」

「いや……。ワガハイは、木のすぐ横の斜面に投げ出されたんだ。そこを転がり落ちて深い草むらに受け止められた。ここへは水を飲もうと思って降りてきたんだ。おまえの声は聞こえてたよ」


「そうだったのか。だったら返事くらいしろよ。えらく心配したんだぞ」

 おいらは安心して力が抜け、横たわったままのワガハイのそばにへたりこんだ。


 だけど、ワガハイは何もいわず、背中を丸めてむこうを向いたままだ。

「どうした? あんまり怖い思いをしたんで、ショックで声も出ないのか?」

「……そうじゃない。『ありがとう』と礼をいおうか、それとも『すまなかった』と謝ろうか、迷ってる。どっちがいい?」

「どっちだっていいよ。いちいち面倒くさいやつだな」

「そうなんだ。……わが輩は素直な人間じゃない」

 ワガハイの声が奇妙な調子にゆがんだ。


「泣いてるのか?」

「泣いてなんかいるもんか。そんなこと、だれにもいうんじゃないぞ」

「ああ、いわん。でも、飛翔器をまた壊したことを気にしてるのか? それとも、むちゃをしてギエモンさんに叱られるのが怖いのか?」

「どっちかな……。ワガハイはいつもそうだ。何かやらかしちゃ後悔ばかりしている。そのくせ、好きなこと、面白そうなことがあると、ついつい我を忘れて夢中になってしまう。他人にほめられるとうれしいくせに、喜ばれるようなことはしたくない。意地っぱりだし、面倒くさがりでもある」


「むちゃくちゃ根性がねじくれとるな」

「ああ。おまえ、『漱石枕流』って知ってるか?」

「知らん。そりゃ何じゃ?」

宙国チュウゴクの故事さ。こうやって石の上に寝ていて思い出した。ある人が〝石を枕にして流れで口を漱ぐ〟といおうとして、〝石で口を漱いで流れに枕する〟といってしまったんだ。間違いを指摘されても、『石で汚れた歯を磨き、流れで耳の中までよく洗うのだ』と意地を張って認めようとしなかった。それで、『漱石枕流』は負け惜しみや言い訳ばかりするという意味になった」


「なるほど。今のおまえにまさにピッタリな表現じゃな」

「だろう? だからわが輩は〝漱石〟というのを雅号にしようと思いついたんだ。『夏芽なつめ漱石そうせき』――どうだ、なかなかカッコいいだろ」


 ワガハイの声にはもう涙は混じっていなかった。

 結局、その負け惜しみだけで、礼も謝罪もなし。

 リョウマで慣れていなかったら、ぶん殴ってやるところだった。


 自力で山を越えるのはとても無理だったから、おいらたちは河原で焚き火をしながら救助を待つことにした。

 そこにいる目印になるようにと、時間をおいてボコイに高々と炎の柱を上げさせた。

 三度めの炎を噴かせてまもなく、川をさかのぼってくるダイキチたちの姿が見えてきた。


 真夜中近くなってようやく工房に帰りついた。

 ギエモンさんにはさぞ大目玉を食らうことになるだろうとおいらも覚悟していたが、「無事でよかった」といって満面の笑顔で抱きしめてもらい、心底ホッとした。


 おいらとボコイは二階に上がってたちまち眠りこんでしまった。

 居残りを命じられたワガハイは、さぞきつくしぼられるにちがいない。

 まったくいい気味だ。


 ところが、翌朝ずいぶん寝過ごしてしまい、あわてて起き出すと、横に寝ていたワガハイが薄眼を開け、あばたヅラをほころばせてニタアッと不気味に笑った。


「下に行ってみろ。きっとすごいものが見られるぞ」

 なにを寝ぼけてやがると思いながら階段の踊り場に出たおいらは、工房に鎮座しているものに大きく眼を見はった。

 今までの実験器とはまるで見違えるような飛翔器がそこにそびえ立っていた。

 そう、ワガハイがぶっ壊してきたいくつもの器体とはちがって、それは横倒しの形ではなく、垂直に、まさに〝そびえる〟ように立ち上がっていたのだ!


「おお、言子ちゃん。どうやね、この新型器は――」

 ギエモンさんが飛翔器の横に立って、愛しい動物にでもするように自分の身長の三倍もありそうな真新しい器体をピタピタと優しくなでた。

「あんたはさぞ怖い思いをしたことやろうが、おかげでボコイば使った飛行での問題点や利点がたんと見つかりましてな。キンちゃんの報告と意見ば参考にして、さっそく予備器に画期的な改良ばほどこしてみたとです」


 作業台の上には、ギエモンさんが即席で描きつけたものらしい何枚もの図面が散らばっていた。

 ギエモンさんの部下たちはみんな、積み重ねられた材木や工作機械の間に毛布をかぶって眠りこけている。

 夜通し大変な作業をしていたのだろう。

 そうとううるさかったはずなのに、よくおいらは眼が覚めなかったものだと思う。


「おいは、思いついたらいても立ってもいられん性分でしてな。部下も徹夜なぞ慣れたもんです。それに、玖州キュウシュウの情勢はいよいよ切迫しとるようだ。警視庁が放った工作部隊が、つぎつぎ捕らえられとるらしい。薩磨サツマはいつ暴発するかわからん。おいたちものんびりしとるわけにはいかんとです」


 そうなのだ――

 せっかく立派で画期的な飛翔器ができ上がっても、間に合わなかったら何の意味もなくなる。

 リョウマがなかなか北海堂ホッカイドウからもどって来ないのもじれったいが、あいつが現れればすぐに必要になるはずだ。

 それは今日、明日のことかもしれない。


 さっそく新しい飛翔器に駆け上がったボコイを見ながら、おいらは思わずブルッと身震いしていた。

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