第二章 5 最初の刺客

大久穂オオクボさん、わたしには愛国心のカケラもないことはご存じですよね?」

 巨大な悩みをかかえこんだオオクボをあざ笑うかのように、オグリは悪魔的な笑みを口の端に浮かべていった。


 いったいオグリは何をいい出すのかと思ったが、オオクボにはちょっとした冗談のようなものになったらしく、深刻な表情が一瞬フッとゆるんだ。


「ああ。内務卿の私の前でそれを公言できるのは、日ノ本ヒノモトじゅうを探してもきみくらいのものだろう」

「ほめ言葉だと受け取っておきますよ。わたしにとっては、北海堂ホッカイドウがオルシアやイグランドのものになったところですこしも心は痛みません。ですが、三樫ミツガシの利権や商業活動はかなりの打撃をこうむることになる。三樫財閥は、政府と手に手を取って栄えていくつもりですからね。当然そうならぬようにとは考えています」


「この際、愛国心など関係ない。利害の一致こそがいちばん確実な信頼関係だ。何か、窮状を打開する妙案はあるのか?」

「ええ。ラメリカを引っぱり出すことです」

「ラメリカを? しかし、ラメリカは、国際紛争には伝統的に不干渉の立場をとっているのだぞ。それをどうやって説得するのだ」


「紛争になってから調停役を頼むのではありません。ラメリカに最初から権益をあたえておくのです。そうすれば、他国が北海堂に侵攻した場合、ラメリカには自国の権益を守るという介入の口実が生まれます」

「なるほど……そういう手があったか」

「西洋には古くからある〝保険〟という考え方ですよ。こうしておけば、三か国どころか、オルシアはもう手も足も出せなくなります」


「しかし、何をラメリカにあたえるのだ?」

「やはり石炭の採掘権でしょう。北海堂にある炭鉱の権利を譲渡するのです」

「それは大変なことだぞ。わが国がけんめいに進めつつある殖産興業の存立基盤が、外国に握られてしまうことになる。のどから手が出るほど欲しい石炭を、ラメリカの言い値で買わねばならなくなり、鉱山の収入もそっくり持って行かれることになるのだ」


「それくらいの代価を支払わなければ、保険になりませんよ。しかし、不平等条約とはちがいます。高い石炭なら買わなければいいだけのことだ。三樫が別の土地に炭鉱を開発しますよ。海外からもどんどん安く輸入しましょう。いかがです?」

 オオクボは、凍りついたように動かなくなった。


 北海堂で見学した炭鉱がラメリカのものになるというのがとんでもないことだってことくらい、子どものおいらにも理解できる。

 日ノ本の政府が経営していてさえ、ヒジカタが抗議運動をするくらいひどい労働を強いられていたのだ。

 ラメリカ人が乗りこんできたら、労働者はいったいどんなあつかいを受けるだろう。


 やがて、オオクボはニヤリと笑って腕組みを解いた。

「よく考えてみると、ラメリカが採掘権を握ったとしても、輸送はどうせ三樫が引き受けることになるのだろう。どっちへ転ぼうが、結局は三樫の儲けにつながっていく。きみという男は、抜け目ないだけでなく、途方もないことを考えつくな。外務卿を務めてくれたら、三樫に大きな借りをつくらずにすむのに」

 どうやら、オオクボはそういうセリフでオグリの案に賛意を示したらしい。


「外務卿? ああ、日ノ本にもそんな役職がありましたね。でも遠慮しておきましょう。不平等条約の改正なんて、他人の尻ぬぐいのような仕事はまっぴらです」

 オグリは、得意そうな表情を押し隠して小さく笑った。

「そうか、残念。わかった、〝保険〟の件は早急に検討しよう。……で、池之畑イケノハタの会談の結果はどうなったのだ?」


 オオクボが話題を変えると、しかし、オグリの表情は急にさえなくなった。

「それが……わからないのです」


「わからない? どういうことだ」

「人権論をめぐって活発な議論がはじまったところで、いきなり坂元サカモト龍馬リョウマが天井裏を蹴り破って乱入したのです」

「いかにも龍馬のやりそうなことだ。会合の呼びかけ人はカツ海舟カイシュウということだから、最初から龍馬も同席するものだとばかり思っていたが、そうか、龍馬は隠れて議論の成り行きを見守っていたということだな」

「ええ。ところが、わたしが巌崎イワサキさんから受けていた命令は、坂元の娘を誘拐して巌崎邸に拉致するなんていうとんでもないことだったんです」


「龍馬の娘……というと、乳飲み子のままいっしょにラメリカに渡ったという娘か?」

「そのとおりです。坂元父娘が会合の場にいたなら、なかなかその機会を見つけられなかったことでしょう。そうこうしているうちに会談は進み、わたしも議論の内容を知ることができたかもしれません。しかし、その前に坂元が乱入騒ぎを起こしたために、娘は離れの裏手にかけられていたハシゴをつたい、わたしがひそんでいた場所のすぐ近くに降りてくることになったのです。そんな好機を見逃すわけにはいきませんからね。わたしは娘を捕らえ、任務を果たすために巌崎邸にもどってしまったのです」


「では、会談の内容は、ほとんどわからずじまいだったわけか……。しかし、龍馬の娘なぞさらって、人質にでもする気だったのか?」

「さあ、どうなんですかね。わたし自身が理解できないことなのだから、説明のつけようもないのですが、巌崎さんにはもともと坂元に対するひどく屈折した感情があるらしいのです。さらってきた娘をあの人がけんめいに説得しようとしたり、なんとか自分の手元に置こうとするところなどを目撃すると、まったく不思議な気持ちになりましたよ」


「フーム。あいつには妙な趣味でもあったか……」

「いや。たぶんそういうことではないし、娘の母親に媚びるためでもないらしい。かといって、坂元に対する単純な対抗心や復讐心でもないようです。アリョーシャン列島への出迎えも、当初はわたしが代理で行くことになっていたのですが、出発まぎわになって急に自分も行くといい出して、お抱えの料理人まで連れて船に乗りこんできたのです。坂元にはスーツや紋付ハカマを用意し、女の子用の真っ赤なスカートや靴もわざわざ持ちこんできました」


「日頃の辣腕経営者ぶりからは、想像もつかぬ姿だな」

「そうでしょう? で、まさにそのせいで、あのときあなたから頼まれていた仕事は果たせずに終わったわけです。途中のコムチャッカでひそかに雇い入れたオルシア人たちに襲撃させる作戦は、坂元父娘から住居や食料を奪えただけでした。しかし、その後、もし巌崎さんが出しゃばらず、わたしが一人だけでボートで孤島に漕ぎつけたのなら、二人は無残にも餓死していたとでも事後報告すればすんでいたはずなのですがね」


 オグリの言葉を聞いて、おいらは頭をぶん殴られるような衝撃を受けた。

 オルシア人が小屋を襲ってきたのは、オグリが仕組んだことだったのだ! 


 しかも、ほんとに餓死寸前だったおいらたちを、ヤタロウ本人が迎えにきてくれたのでなかったら、代わりに一人で現れたオグリが、抵抗する気力も体力も失った二人をやすやすと殺してしまっていたかもしれない!


 おいらは、リョウマの身体がキュッと緊張するのを感じた。

 殺害を命じたのがオオクボだったとわかったことも、リョウマの怒りをいっそうかきたてたにちがいない。

 おいらは、激しく身もだえするリョウマの足を両腕で必死に押さえつけた。


「ですが、わたしには、大久穂さんの意図も理解できないのですよ」

 オグリが不思議そうに首をかしげながらいうと、オオクボは上眼づかいで見返した。


「どうして坂元が帰ってきてはこまるのです? 樹戸キドにしてもそうです。おそらく、坂元が現れることを事前に克から知らされていなければ、病気の身をおしてまであんな会合にわざわざ出てこなかったでしょう。あなた方維新の重鎮たち、それに巌崎さんまでが、なぜそろいもそろって坂元のことをそんなに気になさるのですか?」


「それは……龍馬が、昔も今も危険人物だからだよ」

「そうなんですか? やつには、西豪サイゴウのように、だれからも厚い信頼を寄せられるような人望があるわけではない。また、樹戸のように、一人で大藩を背負って立つ責任感があるとも思えない。あなたのように、一国の命運を宰領するような鉄の意志があるなどとは、想像すらできません。むしろ、そういうものが決定的に欠けている人物こそ、坂元龍馬だといってもいいくらいだと思うんですがね」


「そう。彼は私たちのだれにも似ていない。だからこそ不気味で、危険なのだ。それは、龍馬という男を本当に知る人間にしかわからないことなのさ」


 オオクボは、初めてオグリを若僧と見下すような、軽い侮蔑をこめたまなざしで見つめながらいった。

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