序 章 3 イルカの舟
二人は人影のない波止場も避け、海に突き出した岩場に立った。
夜明け前のいちばん暗い時刻で、傾いた月以外に何の明かりもない。
「君が背負っている袋の中身を海にまいてくれないか」
麻袋に入っていたのは小麦粉のような細かい粉末だった。
少年はいわれたとおり海面にむかって何回かにわけて勢いよく粉を振りまいた。
とたんに海面が細かく震え、泡だちはじめたように見えた。
恐ろしいほどの数の小魚の群れだった。
するとこんどは、その小魚をねらって、より大きな魚たちがたちまち周囲から集まってきた。
こんなエサがあれば、漁師たちはわざわざ危険な外洋に漁に出る必要もなくなることだろう。
魚たちが身体をぶつけ合う音とヒレがたてる無数の小波で、さながら海が沸騰したかのような壮観な光景が現出した。
最後に現れたのは何十頭というイルカだった。
海を見るのも初めてなら、魚といえば釣りくらいしか知らない
イルカたちはたがいに争ったりはせず、優雅に舞うように泳ぎ回りながらたっぷりした食事を思う存分楽しんだ。
「わかるかな? 小さな、弱いものから順に、大きな、より強いものに食べられていく。これが自然の摂理というものだ。その頂点に立つのは何だと思うね」
「クジラでしょうか? 陸なら獅子がいちばん強いと聞いてますが」
「人間だよ。人はあらゆる生き物を食らう。動物であれ、植物であれ、ありとあらゆる生命を奪って自分が生きていこうとする」
「人間は傲慢な生き物だとおっしゃるのですか?」
「ある意味ではね。しかし、人間にはほかの生き物にない理性と想像力というものがある。弱い者をエサのように食いつくしてよいと考える者がはびこっているが、それは正しくないと考え、自分のあるべき理想の姿を思い描くことができるのも、また人間なのだ」
「そのとおりですよ!」
紋は思わず叫んだ。
「今の世界は、弱肉強食の人間の動物的本性が完全にむき出しになった、終末の時代のように思われるかもしれない。しかし、このような時代だからこそ、本物の理性と想像力でもって現実と対決する者の出現が待望されているのだよ」
「あなたは、おれにそのような者になれと――」
「なれ、とはいわない。なれる、ともいわない。意志はすべての生き物にさずけた。他の生き物はみな、自分が生きのびることだけに意志の力を使い果たす。だが、人はただ安楽に生き、子孫を残すことだけでは満足できない。より困難な高い理想を追い求めなければ、けっして心が満たされはしない生き物なのだ。私がいいたいのは、そういうことだよ」
少年は、あえぐようにして、やっとのことでうなずいた。
すると、すべてをいい終えたとでもいうように、〝彼〟は岩場を蹴ってイルカの群れの上に飛び移った。
イルカたちはピッタリ身を寄せ合ってたちまちきれいな隊列を作り、〝彼〟を乗せるイカダか舟のようなものとなった。
「おれを置き去りにするんですか?」
「君もまもなく海を渡ることになるだろう。悲惨な足元だけにとらわれていてはいけない。広い世界を自分自身の眼で見て、理性と想像力を働かせる方法を学ぶのだ」
イルカたちの揺れる背の上で足を踏んばりもせずにまっすぐ立ち、〝彼〟は宣告するように紋にいい渡した。
「じゃ、あなたは……」
「私はこの海のむこうの
「おれと同じ歳の女の子がですって? だったらぜひ連れてってください。おれも日ノ本の民のためにいっしょに戦います!」
「いや、君の運命はまだその段階には至っていない。あの子はすでにめくるめくような広大な世界を見てきた。君の戦いはもっと大きな規模で、長く長くつづくことになる。日ノ本で戦争が起こったといううわさを聞いたら、その子のことを想像してみたまえ。きっと君の励みになるからね――」
〝彼〟が少年にむかって手を振ると、イルカの隊列が待っていたとばかりに海面をすべるようにクルリといっせいに旋回した。
やがて空が白みはじめ、少年が生まれて初めて眼にする大海が視界いっぱいに広がった。
〝彼〟の後ろ姿が朝陽の放つ黄金の光につつまれながら水平線に溶けこんでしまうまで、紋はその夢幻のような光景を呆然として見送っていた。
少年は念願がかなって一年後に
そこでクレスト教への傾倒をいっそう強め、しだいに西洋思想に目覚めていくことになる。
彼の姓は『
後に革命家となり、民衆を率いて
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