第四章 5 もう一組の父娘
「おまえたち、来る、わかっていた」
先頭に立って歩きながら、たくましい体格の男がいった。
男が片手を上げると、朝焼けの空を背景に、対岸の崖の頂上でそれに応えて手を振る者がいた。
そこは、たくみに隠すように造られた見張り塔らしかった。
「危険なオオカミの群れ、追っていた。二つ、出会った」
そうか。つまり、おいらたちが近づいてくるのを知って様子をうかがいに来た者たちと、オオカミの群れを追跡していた者たちが、あの岩場でばったり出会ったのだ。
オオカミがおいらたちを襲うのは十分予想できたから、群れを一網打尽にするためにそのチャンスがおとずれる瞬間を待っていたというわけだ。
彼らの周到さと機動力が並みでないことは、案内してきた
最新鋭の武器を自在にあやつっていることを抜きにしても、あんな戦いぶりはアインの常識ではとても考えられないことなのだろう。
たどっていく道も、まったく意外なものだった。
入口は密集したやぶや大岩の陰に巧妙に隠されており、道筋はそんなところを通れるとはとても思えないような急な崖や深い森の中をぬい、谷川にせり出した大木の枝をつないだ細い吊り橋の上を渡っていく。
足元には平らな石が敷きつめられ、急坂ではちゃんと石段までついていた。
その秘密の通路は、あるていど行くと突然途切れる。
出口も同じくわかりにくくする工夫がしてあり、一度出はずれてしまうともう後もどりできそうになかった。
そして、まったく意外な方向にあるつぎの通路へとまたつながっているのだった。
それまでの遅々として進まない困難な道のりと比べたら、それこそ空翔ける鳥の背にでも乗ったように楽々として、そして、とうてい人が立てるとは思われない位置からの雄大な眺望を満喫しながらの道行きになった。
明け方に出発すると、昼過ぎにはもう目指す谷間のコタンに到着していた。
「驚いたな。こりゃ、とてもアインのコタンとは思えん」
リョウマはおかしなことをいい、案内の青年も驚きの眼でキョロキョロとあたりを見回している。
「へえ……?」
おいらは聞き返そうとして、途中で口をつぐんだ。
おいらにも、朝陽川のコタンには見られなかった光景が眼に入ったのだ。
それは、建物と建物の間に見えた。
おいらと同じくらいの子どもたちが、地面に座って円陣をつくり、じっと黙ってどこかの一点を見つめている。
おいらは興味をひかれ、足音をしのばせてそちらへ近づいていった。
建物の角から顔をのぞかせると、子どもたちが見つめているのは、二本のシラカバの木の間に吊るされた大きな黒板だった。
そこにむかって、長い髪をした女の人がチョークで何かを書いている。
その後ろ姿だけで、アインの人でないことがわかった。
清楚な振り袖の和服にタスキ掛けをして、細くて白い腕をいそがしそうに動かしている。
女の人がこちらに向き直ったとき、ちょうどおいらとバッタリ眼が合った。
ちょっと驚いたようだったが、すぐに笑顔になり、こちらにむかって手まねきした。
子どもたちはさすがに正直なもので、おずおずと前に進み出たおいらを、全員が強い好奇の眼で見つめてきた。
おいらは顔が真っ赤になるのがわかった。
「
黒板の前まで行くと、女の人はおいらの背丈に合わせるようにしゃがみ、日ノ本語で問いかけてきた。
「……こ、
おいらは、その流れる音楽のような美しい声と口調につられて答えていた。
「〝コトコ〟さんね。そう。字はどう書くのかしら?」
「〝言葉〟の言に、〝子ども〟の子。……でも、人に名をたずねるときは、まず自分が先に名乗るものだと思う」
おいらの名前は、ほんのつい最近女の子のものだとわかったばかりだから、人に呼ばれたり自分で口にしたりするたびにまだドギマギしてしまうのだ。
リョウマがヒジカタに問い返したのをまねて、やっとそういった。
女の人は、二〇代の半ばくらいだろうか、澄んだ知的な眼を丸くして驚き、それからにっこり笑っていった。
「まさにそのとおりね、失礼しました。教えてくださってありがとう。わたくしの名前は、
「おお、美里どの!」
後ろから大声で呼びかけてきたのはリョウマだった。
「あなたは……?」
ミサトさんは当惑した表情で立ち上がった。
「わしじゃ、
リョウマがまくしたてると、アインの子どもたちはドッといっせいに笑いだし、ミサトさんはたちまち真っ赤になった。
どうやら、ショウザン先生というのはリョウマの恩師で、ミサトさんはショウザン先生の娘ということらしい。
おいらもなんだか気恥ずかしく感じたのは、リョウマに背負われたというと、まるで自分の小さい頃のことをいわれているような気がしたからだ。
長身のリョウマの背中は大きくて広い。
いくら駄々をこねて暴れても、びくともしなかった。
その同じ背中を知っていると思うと、おいらはミサトさんに深い親近感を感じた。
ミサトさんは授業を途中で切り上げ、リョウマとおいらにコタンの中を案内して回ってくれた。
「ええ、お名前はもちろん、ご活躍もよく存じていますよ。あなたは、
「そうか、ちょうどそのころだったんじゃな……」
リョウマは神妙な顔をして相づちをうった。
ミサトさんの父親である佐九間象山は、当時幕府の相談役のような立場にあったが、
リョウマと同じように奇跡的に生き延びたのだが、ほんの数年のへだたりで大きな運命の違いが出た。
象山は日ノ本のどこにも身の置き場がなく、当時は異国同然だったエゾ地へと人知れず逃れ、ようやく命を永らえることができた――それが、リョウマがその場でおいらに語った記憶だった。
ショウザンは、その逃避行に娘のミサトさん一人を連れていった。
だから、彼女の記憶にあるリョウマの情報とは、自分の運命が急変する直前のものなのだった。
「ええ、わたしが龍馬さんについて知っていることは、そこまでですね。でも、わたしたちのことはちがうんですよ」
ミサトさんは笑った。
「まっすぐエゾ地に来たわけじゃありません。佐九間象山といえば、名の通った学者でしたから、かくまってくださろうという親幕府派の藩は、
おいらはますますミサトさんに同情――いや、同感した。
身勝手な父親に振りまわされる旅に出たのも、ちょうど今のおいらと同じくらいの年齢だったはずだ。
「しかし、あの変人……失礼、強烈な個性の先生が、よくもまあアインの人たちにだけはすんなりと受け入れられたものじゃなあ」
「もちろん、すんなりとはいきませんでしたよ。最初は、あわれに思ってくれた人たちに粗末な小屋と毎日の食べ物をもらって、二人で細々とただ生き延びていたというだけでした。吠えたてようにも、本人がまるでアイン語を憶えようとしないのですからね。でも、あの人は、眼の前に矛盾したものや非効率的なものがぶら下がっていると、どうしても放っておけない性分なのです。ある日、いきなり猛然と何かの図面を描きはじめたと思ったら、それを持って村長のところへ掛け合いに行ったのです。そのころにはわたくしもアイン語をだいぶ話せるようになっていましたから、通訳としてついて行きました。そこで父がした提案というのは、これのことだったんです――」
そういうと、ミサトさんは近くを流れている清流を手ですくってみせた。
石できれいに縁どりされた水量のたっぷりした小川が、広場を囲むすべての家の前を通っている。
「なるほど、これは水道ですな。このコタンは
リョウマは初めて知ったように感心してみせたが、どうやら村に着いた最初からそれに気づいていたらしかった。
コタンというアインの集落がふつうどんな衛生状態かを知っている朝陽川の若者も、まずその大きなちがいに驚いたのだろう。
「村長をはじめコタンの人々には、最初はまったく相手にされませんでした。そこで、父とわたくしの二人だけで、林の中に水路を掘りはじめたんです」
「なんとまあ、六〇近いじいさん……いや、ご老体と、一〇歳の娘さんがですか?」
「ええ。でも、子どもたちはすぐ遊び半分に手伝ってくれたし、だんだんひまのある人たちが手を貸してくれるようになって、ついに村人総出の大工事になりました。水路が開通したときには感動したものです。でも、父の計算ちがいがあって、村じゅうが水びたしになってしまいましたけれどね」
ミサトさんはホホホホと愉快そうに笑い、おいらたちもつられて笑ってしまった。
「ところが、村人たちはだれ一人文句もいわず、通じない日ノ本語で怒鳴りちらす父といっしょに、泥まみれになって三日三晩も改良工事に取り組んでくれましたよ。わたくしたちが受け入れられたのは、そのことがあってからなのです」
おいらは感動して、もうすこしで涙が出そうになった。
涙を見せずにすんだのは、ふとわが身をふり返ってみて、リョウマではとてもそんな大事業などやれそうな気がしなかったからだった。
「では、このコタンに通じるあの迷路のような舗装道路や最新式の銃器なども、象山先生が指導して作られたのですな」
「そのことは、父自身の口からお聞きください。自慢話とそれを傾聴されるのは、父のなによりの喜びですから。しかも、通訳いらずの日ノ本語でとなればね」
他人事とはとても思えない皮肉なのに、リョウマは平然として大笑いした。
「あなたはどうしちょるのです?」
リョウマは、めずらしく遠慮がちにたずねた。
「さきほどご覧になったでしょう。わたくしは、主に子どもたちの世話をして、言葉や文字、基礎的な学問などを教えています。これからは、アインも発展する日ノ本と無縁で生きるわけにはいきませんからね。日ノ本語なら、もうかなりの数の人たちが会話には不自由しないくらいになりました」
「ミサトさんは、文字や日ノ本語だけでなく、イグランド語も教えてた」
おいらは、さっきの授業のようすをリョウマに伝えた。
「ほう、イグランド語まで。そりゃすごい」
「あら、言子さんは、イグランド語がおわかりになるの?」
ミサトさんに驚かれて、おいらはまた赤くなるのを感じた。
「ええと……フランセ語と、イタレア語と、ドーチェス語も……あと、ヒスペニア語とかホランダ語も少しくらいなら……」
おいらが消え入るような声で答えると、ミサトさんはほんとうに眼をまん丸くした。
「龍馬さん。あなた方父娘は、今までいったいどういう生活を送ってここまでいらっしゃったのです? こんどは、わたくしのほうがあなた方のお話をうかがう番ですわ。父は日暮れまではもどってきません。それまでわたくしの家で、そのお話をゆっくりと、何から何までお聞きしなくては。さあ、どうぞ!」
ミサトさんは小娘のようにはしゃいで、おいらの手を引っぱるようにしてぐんぐん歩きだした。
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