第四章 4 闇に浮かぶ凶光

 翌日の暮れ方、野営場所に決めた巨木の下でおいらが火をたきつけようとしていると、ちょうど若者が集めた枯れ枝をかかえてもどってきた。

 おいらの手の中で黒い楕円球になったボコイが、一〇センチほどの青白い炎を吹いたところだった。

 山盛りにした枯れ葉が、たちまち勢いよく燃え上がった。


「ピリカ……カムイ……」

 ボコイが魔法のように元の姿にもどると、そのようすをずっと見つめていた若者はようやくたきぎを足元におろしてつぶやいた。

 〝きれいな火を吐く神〟というような意味のことをいったのだろう。


 巨大なヒグマは、キムン・カムイ――山の神と呼ばれて畏敬の対象となっていた。

 ヒグマを怒らせることは、たぶん愚かで不敬な行為だったにちがいない。

 だが、ボコイはそのヒグマを驚くべきやり方であっさり退散させてしまったのだ。

 あらゆる自然や生き物を尊敬して、その中に〝神〟を見出すアインの人間とすれば、キムン・カムイさえも超える神秘をボコイに感じたとしても不思議はなかった。


 あの出来事があってからというもの、若者の態度はガラリと変わってしまった。

 ボコイがかたときもそばを離れようとしない飼い主のおいらや、若者をかばってヒグマと戦おうとしたリョウマにも、まるで主人に対するように接するようになり、敬意と親しさのこもったまなざしをむけはじめた。


 翌朝にはかなり冷えこみ、アインの青年がかぶって寝た大きなフキの葉の上には白い霜がビッシリ降りていた。


「おお、初雪じゃな」

 リョウマが、きれいに晴れ上がった秋空を指さした。

 高い山の頂は、前日までの無骨な姿とはうって変わって、うっすらと真っ白な雪をまとって優美に変貌していた。

 日ノ本ヒノモトでもいちばん北にある北海堂ホッカイドウには、冬は確実にやって来つつあった。


 ヒグマと鉢合わせするのは二度とごめんだったから、つねに警戒をおこたらないようにした。

 だが、おいらたちが恐れていたもうひとつの脅威は、そうやって用心していてもどうしようもない形で忍び寄ってきた。


 その日の野宿は、川に張り出した大きな岩棚の上になった。

 流れの片側は切り立った崖で、もう一方もクマザサにビッシリおおわれた急な斜面だったのだ。

 平らな場所がなくなるということは、それだけ山深く入ってきたということで、なにより目的地のコタンが近づいたという証拠だった。

 おいらはむしろ、いつもより安心してぐっすりと眠りこんだ。


 うん……?

 川風で冷えたほっぺたに湿った温かさを感じた。


 あのときと同じだ。ヤタロウが穴ぐらに迎えにきたときと――。


 ボコイはおいらの上に乗り、キョロキョロ視線を動かしてあたりをうかがっていた。

 冴えざえとした月が、高い崖の端にかかっている。

 崖にさえぎられて、川床はほとんど真っ暗だ。

 わずかに対岸のササやぶだけが照らし出されていた。

 川風になぶられてときどきサワサワと音をたてるが、そこにかすかにガサッ……ゴソッ……と異音がまじる。

 月光を受けて、クマザサの間にキラリと光るものがある。


「ボコ、プク、ポコ……」

 おいらがその光を見つけたことがわかったのか、ボコイが耳元でさかんにささやいた。

 そして、おいらはギョッとした。

 同じ光が、川床のあちこちの岩の上にも見えるのだ。

 しかも、それぞれ二つずつの光点が組になって横に並んでいる。


「リョウマ――」

 小声でリョウマを揺り起こした。

 おいらの声が緊張しているのに気づいて、リョウマは黙ったままムックリと背を丸めて起き上がった。

 アインの若者もすでに眼覚めているようだ。


「ありゃ、鬼火かのう」

 近眼のリョウマにはよく見えないらしい。

「ホロケウカムイ……!」

 若者が息をのんでつぶやいた。


〝カムイ〟と聞いて、何かの動物だなとピンときた。

 あれが眼の放つ凶々しい光であることもすぐにわかった。

 そこから、おいらたちがいちばん恐れていたもののことに連想がいくのは、まったく自然な成り行きだった。


「リョウマ、とうとう出た。……オオカミだよ」

 リョウマは黙ってうなずき、そっと剣を引き寄せた。

 刃が月光を反射して武器のありかをさとられないよう、岩の上を滑らすようにして引き抜く。

 若者は片手にカマ、もう一方にナタを手にした。

 二人はまったく別々の方向にむかって身がまえている。

 オオカミは、もう完全においらたちを包囲してしまっていたのだ。


「ボコイ……」

 こんどこそボコイの助けが必要なことが、おいらにもわかった。


 だけど、ボコイは注意深く視線をあちらこちらに走らすだけで、いっこうに変身してくれない。

 これだけすっかり取り囲まれてしまうと、さすがのボコイも、当惑というか、怯えのようなものにとりつかれてしまったのだろうか。

 おいらはたき火に手を伸ばし、燃え切っていない枝を小さなタイマツのようにかかげるのがやっとだった。


 ガウッ――


 攻撃は思わぬところから始まった。

 死角になった岩棚のすぐ下にひそんでいた一匹が、突然飛び出してきたのだ。

 オオカミは岩棚の端を蹴って跳び上がると、おいらたちの頭上を襲った。


「てえいっ」


 さすがにリョウマは北晨一刀流ほくしんいっとうりゅうの免許皆伝だ。

 その奇襲にもまったくあわてず、跳躍の頂点に達したオオカミの腹をみごとに両断した。


 しかし、それは一斉攻撃の合図にすぎなかった。

 岩やササやぶに待機していたオオカミたちが、おいらたちのいる岩棚めがけて走りだした。

 闇の中に浮かんだ眼光は今やランランと輝きを増し、岩を跳びつたって波のようにうねりながら押し寄せてくる。


 おいらはとっさに身を伏せ、リョウマと若者はおいらとボコイを守るように背中合わせに身がまえた。


 バババババッ、バババババッ――


 ドキューン、ドキューン、ドキューン、ドキューン――


 無数の轟音が、突然谷間に響きわたった。


「な、何が起こっちょるんだっ?」

 リョウマが怒鳴ったが、その声も轟音に圧せられてよく聴き取れないくらいだった。


 オオカミたちがつぎつぎもんどりうって川に転落していく。

 姿は見えなくても、眼光が消えるのと水面を激しく打つ音で、はっきりそれがわかった。


 どれくらいの時間つづいたのだろう。

 たぶん、ほんの数秒か十数秒にすぎなかったはずだ。

 だがその間は、まるで世界がどこかにふっ飛ばされていくような感じがした。

 終わったことに気づいたのは、ツンと鼻を刺す強烈な硝煙の匂いと、月光を曇らせるほどの青白い煙が、川面を漂ってくるのを感じたときだった。


 あかあかと大きな火をともしたタイマツが、上流と下流の両方から何本も近づいてきた。

 彼らの肩には、いずれも重そうな鉄の棒が革ひもで吊るされている。

 それがオオカミの群れを全滅させた武器であることがわかった。

 そして、もっと驚いたのは、彼らが一人残らずアインの男たちだったことだ。


 おいらとリョウマは、岩棚の上に呆然と立ちつくしたまま彼らを迎えた。

 青年は、銃撃が始まってからずっと頭をかかえてうずくまり、恐怖で全身を震わせていた。


「ケガ、ないか?」

 先頭のひときわ体格のいい男が、日ノ本語で問いかけてきた。

「あ……ああ、おかげで。助かった……」

 いつものリョウマらしい愛想と多弁は、すっかり影をひそめていた。

「おどかすつもり、なかった。だが、オオカミの群れ、ぜんぶ仕留める、襲いかかるとき、待つしかない」


 男の仲間たちはタイマツをかかげ、岩や水中に横たわったオオカミの生死を一匹ずつ確認し、岩の上にていねいに並べている。

 オオカミもカムイであるからには、それにふさわしいあつかい方があるのだろう。


「この銃……もしかして、象山ショウザン先生が作ったものなのか?」

 リョウマは、まだ先端からほのかな煙がもれている大きな鉄砲を、おそるおそる触りながらたずねた。

 アインの男は重々しくうなずいた。

「では、美里どのもおるんじゃな?」

 男は当惑したようにちょっと間をおき、やはりうなずいた。

「いる。おまえ、先生たち、会いにきたか?」


 こんどは、リョウマが大きくうなずき返す番だった。

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