第三章 2 真夜中の脱出

 カラホトの港に立ち寄って商用をすませた後、船は南下してエゾ地に到達した。


 エゾ地は本州に次ぐ日ノ本ヒノモト第二の大きな陸地で、今は北海堂ホッカイドウと呼ばれている。

 徳河トクガワ幕府の時代には、わずかに南端に小さな藩が置かれていただけだったが、日米和親条約によって匣館ハコダテが海外にむけて開港され、盟治メイジ維新後は、本州以南から入植者がぞくぞくとやって来て北海堂の各地で開拓を始めているという。


 ヤタロウは、西海岸の尾樽オタルという港に船を着けた。

 尾樽は、すこし内陸に入った札保呂サッポロが北海堂開拓の拠点とされたために、その玄関口として多数の船でにぎわい、三樫ミツガシ商会も商館や倉庫をかまえていた。

 ヤタロウの自慢げな言い方が嘘でなかったことは、活気にみちた大量の荷の積み下ろし作業を見ただけでもわかった。


「あれは、鉄道かのう」

 リョウマは、港の近くで行なわれている大規模な工事現場を指さしていった。


 接待役のオグリ青年の説明によると、北海堂では良質な石炭の鉱山も発見され、そこから札保呂へ、さらに積み出し港の尾樽へと石炭を輸送するための鉄道の建設が急ピッチで進められているという。


「やっぱり、エゾ地の中心は今や札保呂か」

「ええ。ものすごい勢いで新しい街ができつつあります。農学校が東亰トウキョウから移ってきて、全国から志の高い若者もどんどん集まってきていますしね。巌崎イワサキさんは商用で札保呂に行きます。ごいっしょに行かれてはいかがですか?」

 といって誘ったが、リョウマは風邪ぎみだという理由で同行を断った。


 翌日ヤタロウが遅くなってから馬車を飛ばしてもどってくると、船は次の寄港地の匣館にむけて夕暮れがせまる海に出航した。


「おい、起きちょるか?」

 真夜中過ぎ、となりのベッドから、リョウマのささやくような声が呼びかけた。


 おいらの眼が反射的に開いた。緊張していて、眠りが浅かった証拠だ。


 海面に反射した月光が丸い窓から射しこんで船室の天井に映り、フワフワした波の模様を描いている。

 そこからぼんやりと広がる薄明かりを頼りにして、おいらはむっくりと起き上がった。

 枕元で寝ていたボコイもすぐに首をもたげ、ピョンと床に飛び降りた。


 ワードローブの底にしまいこんであった自分の服を取り出し、急いで着替えた。

 きれいに洗ってあってすこしゴワゴワしたが、ユーロピア以来ずっと着慣れている服装になると、すっかり眼が覚めて気持ちもしゃんとした。


 リョウマはスーツは窮屈でたまらんといって、いつもヤタロウが用意した紋付ハカマを着ていたが、その上からミラナ製の長マントをはおっただけだった。


 リョウマがベッドの下に隠しておいた荷物を引っぱり出した。

 しばらく前から、怪しまれないように船内のあちこちで少しずつもらったり、こっそりくすねたりして集めてきたものだ。

 リョウマがそれを点検している間に、おいらは脱いだ夜着やスカートやスーツをベッドの上掛けの下に押しこみ、二人が眠ったままに見えるように形を整えた。


 リョウマは、船長からもらった革の肩掛けかばんを背負い、おいらの背中には風呂敷に包んだ残りの荷物をくくりつけた。

 最後に愛刀を腰に差していった。

「よし、行くぞ。物音をたてるなよ」


 船室を出ると、穏やかな波音に全身が包まれた。

 月が明るく海を照らしている。

 船は、左手に陸の連なりを見ながらゆっくりと航行していた。


 天候は、冬の予兆におびやかされつづけた北の無人島にくらべると、まるで嘘のように穏やかだった。

 ラメリカやユーロピアの初秋と、ちょうど感覚的にも同じ季節感が感じられた。

 もう日中の暑さはないが、夜中でもまだ寒さが身にしみるほどではない。


 おいらはリョウマの後について、足音をしのばせながら甲板を移動していった。

 ところどころで立ち止まり、周囲に注意深く眼を配ってからまた前進する。

 陸地との距離を測ったり、他の船舶との衝突にそなえるために、船には夜間でもかならず見張りがいる。

 おいらたちの行動が見とがめられてはならなかった。


「ここじゃ」


 リョウマは船尾に近い暗がりに入りこみ、木材を束ねたものを重そうに引きずり出した。

 荷物を固定するときに下や間にはさむ角材が甲板や船倉のあちこちに積んである。

 リョウマはそれを前もって数本ずつ束にし、ロープでくくって隠しておいたのだ。


「ちょっと待っとれ」


 リョウマはどこからかオールを二本手にしてもどってきた。

 それもいっしょにロープの先に結びつけてしまうと、船べりからそろそろと下ろしていく。

 静かな波音とそれに混じる蒸気機関の低いうなりが聞こえるだけだ。

 水音をたてないように目測で水面のすぐ上で止め、リョウマが先になっておいらもロープにすがって降りた。


 泳げないおいらを角材につかまらせておき、リョウマがロープを切り離した。


 ザブン――


 ずいぶん大きな音がしたような気がしたが、すぐに騒ぎが起こるような気配はない。

 船べりを走る人影も見えなかったし、探照灯を向けられたりもしなかった。


「コトコ、しばらく頭を下げちょれよ」

 めずらしく名前を呼んだくらい、リョウマは緊張して用心深かった。

 おいらは黙って角材につかまってその後ろに隠れた。

 海の中は思っていたより温かかった。


   ※      ※      ※


 船を脱出する――


 リョウマがそう切り出したのは、カラホトを過ぎたあたりのことだった。


「弥太郎が怪しいというわけじゃない」

 とリョウマは最初にいった。


 カラホトでの商売のようすを見ても、船員たちの立ち居振る舞いを見ても、彼らは実際きちんとした商船で、まともな取引を、しかもかなり大規模に行なっていることが見て取れた。

 密入国をたくらむ者を人眼をしのんで迎えにいったようなけぶりは、それこそまったく見せなかった。

 遭難していた知人をたまたま立ち寄った島で発見し、救助しただけというくらいの感じだった。


 おいらがそれをいうと、

「だからこそじゃ。弥太郎にはたぶん、お尋ね者をかくまうようなやましい行為をしているという意識はないにちがいない。だから、わしらを人知れずこっそり日ノ本ヒノモトに上陸させるようなつもりもなかろう。国内便ということになっちょるから、人や物資を厳しく取り調べる税関を通す必要もないしな。だが、船が港に着けば、何が待ち受けとるかわからん」

「心配しすぎじゃないのか?」


 気まぐれな航路をとって荒っぽい漁をつづけていた捕鯨船などに乗っているのとくらべたら、よっぽど怪しまれる恐れはないだろう。


「たしかに、今の弥太郎には富も権力もありそうだし、政府にも顔がきくじゃろう。わしらが密入国者として捕まるどころか、身分や姓名をいつわる必要もなく、堂々と日ノ本で生活していけるように取りはからうのもたやすいかもしれん。じゃが……」


 いつものリョウマに似ず、あくまでも用心深かった。


「善意の共犯者ということもありうるぞ。わしが帰国することに問題がないと思えば、弥太郎は、わしが生きちょって日ノ本に帰ってくることを、あちこちで吹聴しないまでも、信用できそうな親しい者たちにはたぶん打ち明けとるだろう。そこから都合の悪い相手に伝わったという恐れは十分にある」


 おいらは、リョウマが国外脱出することになったそもそもの理由が思い浮かんだ。

 リョウマは暗殺されるところだったのだ。

 ヤタロウも下手人はまだ不明だといっていた。

 命令を下した黒幕がだれで、動機は何かということは当然わからない。

 リョウマが不用心に身をさらすことに慎重になる気持ちは、おいらにもわからなくはなかった。


「でも、時代は変わってしまったんだろ?」


 当時の殺人は、敵か味方かという戦いの中で起こったことだ。

 リョウマをつけねらっていた者が、今も同じ敵意や動機を持っているとは思えない。

 戦いが終わってしまえば、すくなくとも殺すほどの理由はなくなってしまうのではないか。

 暗殺が失敗したからといって、もう一度抹殺する必要などあるのだろうか?


「ベルリエンに手紙をくれたお人は、そうは考えちょらん。わしの暗殺は、思ったより根が深そうだと。新時代になっても……いや、なったからこそ、ますますわしに出てこられてはこまる者がいるのかもしれん」


 リョウマに迷いはないようだった。


「まあ、それと……」

 といって、リョウマはニヤリと笑った。

「わしはいつも自由でいたいのじゃ。いつでも好きなときに、好きなところへ行って、好きなものを見て、好きなことをし、好きな人間に会う。他人に囲まれたり、指図されるのはたまらん。日ノ本にいたって同じことじゃ」


 おいらが反対したところで、リョウマは聞き入れようとはしないだろう。


「けど……おいらはどうなるんだ?」


 それがいちばんの気がかりだった。

 まだ日ノ本に帰りついたというだけで、リョウマに置き去りにされたら、迷い子になるどころか行き場さえなくなってしまう。


「もともと、わしは故郷も家族も捨てて世に出た人間じゃ。嫁はいたが、子どもが生まれたのも知らないくらい放りっぱなしにして日ノ本じゅうを駆けまわっとった。身軽でいたいとかいう問題じゃない。志士はだれもが明日をも知れぬ修羅場に生きていたんじゃから、それは当然のことじゃろう」


「じゃあ……置いていくんだな、おいらを」

 おいらは、自分が涙声になっているのがわかった。


「何をいうちょる。わしは昔の話をしとるんじゃ」

 リョウマは笑っておいらのほうへ向き直った。

「わしが土左トサを出奔したのは、いっしょに戦ってくれる仲間と出会うためだったんじゃ。もちろん、こんども日ノ本に着いたらすぐ仲間を探すさ。じゃが、こんどは、外国人を打ち払おうとか、幕府を倒そうとかいうわかりやすい話じゃない。だれが信用できるか、理解してくれるか、一人ひとり慎重に見極めていかにゃならん。なのに、へたな相手におまえを預けて人質にとられたりしたら、とたんに身動きがとれなくなるじゃろうが」


 おいらを置いていくつもりはないとわかって、心底ホッとした。

「おまえさえいなけりゃ」と、こんどこそ本気でいわれるのではないかと気が気ではなかったのだ。


 その日から、おいらとリョウマは脱出に備えて準備を始めたのだった。


 黒い船影は、おいらたちがつたい降りたロープを船側にブラブラさせたまま、みるみる遠ざかっていった。


 角材の束を解くと、それは小さないかだになった。

 おいらたちはその上にはい上がり、ようやく一息ついた。

 リョウマは両側にあらかじめ作っておいた輪にオールを通し、ゆっくりと漕ぎはじめた。


 向かう先には、黒々とした山並みが左右にえんえんと連なっていた。

 ふり返ると、水平線にたなびく雲のすきまに夜明けのきざしがかすかに見える。

 自分の二本の足で日ノ本の大地を踏みしめる瞬間が、もうすぐそこに迫っていた。

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