騎士競技会2
店のことなどかなぐり捨てて一も二もなく飛び乗った馬車の中で、命に別状はないんです、と遣いの人は何度も言った。
でも頭の中が真っ白で、その言葉はうまく頭に入ってこなかった。いや、真っ黒と言ったほうがいいのだろうか。ぐちゃぐちゃな言葉にならない感情が溢れて、渦を巻いて。心臓は痛いほどに波打ち、凍えそうな寒気がした。食いしばった奥歯がガチガチと鳴り、手も足も全身が震えていた。
裏口に馬車がつけられると、弾かれたように駆け出した。
座っていた時は震えていてうまく走れる気がしなかった足は意外にも疾駆に耐えた。けれど能力以上の速度を要求するせいで時々よろめいてしまう。
息は苦しく、滲んだ視界はまっすぐに進んでいるかもわからないほどだったけれど、ともかく走った。
ただひたすら走ることに集中して、なにも考えないようにした。
* * *
「ごめん、随分心配させてしまったみたいだね」
シオンは自室のベッドに横になっていたけれど、いつもの柔和な笑みを浮かべて駆けつけた私を迎えた。
その顔色は拍子抜けするほどに良くて、どっと押し寄せた疲れのせいか呼吸をないがしろにして走ってきたせいか、くらりと目眩がした。
「命に別状はないって、聞いてない?」
「聞…いた……けど……」
大きく肩を上下させて呼吸を整えながら、いつの間にか溢れていた涙を掌で拭う。
「大会規定で対戦相手を殺したら失格になるし、互いにそのつもりで加減してるから大丈夫だよ」
少しだけ晴れた視界に包帯を巻かれた上半身が映って、また涙が滲む。
命に別状はなくとも、左肩から右脇腹にかけて大きな傷を負っているのが、包帯に滲む血から見て取れる。その包帯に滲む血が痛々しくて、怖かった。
「………でも………」
「大丈夫だから。こっちにきて、座って」
いつもならば頼もしいと思えるだろう言葉を、包帯とちぐはぐな笑みを、信用してもいいものなのか、わからない。
だって彼は父親に避けられているだなんてことまで、頓着なく笑って言える人だから。
それでも手招きに応じないわけにはいかず、ベッドの近くに用意されていた椅子に腰を下ろす。
近くで見るといっそう傷の程度が痛々しく思えて喉が声が出ず、言葉も、何も浮かばなかった。
ただ、シオンの手を握りしめて、必死に涙がこぼれないように堪える。
「でも、」
シオンが窓の外を見つめて表情を引き締める気配がして、顔を上げる。
「さすがに騎士団長の《グラドの盾》の異名は伊達じゃなかったな。軽くあしらわれてこのざまだよ。かなりの鍛錬を積まないと来年も優勝を望めそうにない」
――
ぞっとして、
「……どうして? なんのためにこんなになってまで戦うの? あなたは騎士じゃないんだから、こんな怪我をしてまで戦う必要なんかないでしょう!?」
怖い。
怖い。
剣を振えば、誰かが必ず傷つく。
優しい人なのに、なぜ剣を握るのかがわからない。
規定はあっても、事故が起こらないとは限らない。
もし、シオンが命を失うようなことになったら――。
「そんなに名誉が大事なの? 命をかけるほど、褒美が必要なの? あなたは自分の命がどれほど重いか、理解しているんでしょう?」
「………うん、理解しているつもりではいる」
シオンは、苦笑いで頷いた。
「名誉は、あったら万一傭兵に転職しても売り込めるかなくらいだけど。褒美は欲しかった」
何を、と目で聞いたら、シオンは気恥ずかしそうに目をそらした。
「……君に、爵位を、と」
「………………は?」
一瞬、意味がわからなくてぽかんとしてしまった。
静寂が流れて、じわじわとその意味が染みてくると、今度はいろんな感情が混ざって言葉に詰まった。
「……あなたは……――」
震えそうになる声を必死に押さえたが、どうしても震えた。
「どこまで、愚かなんですか!!」
いろんな感情の奔流から一番最初に浮かんできたのは、怒りだった。
溢れる非難を押しとどめることのできないほどの怒り。
「そんなことをして、なんの意味があるんですか。身分なんかもらっても、私は花を育てるくらいしかできないのに!」
ドレスを着たらまとも歩けもしないような私に、これ以上不相応なものがあるだろうか。
そんなものを与えて、いったいなんになるというのか。
ましてや華やかな装いも、生活も、その爵位だけで成り立つわけではない。領地からあがってくる税収、騎士の働きに応じた恩賞、そういう収入があってこそのはずだ。
所詮花屋が飾りだけの爵位なんか賜って、いったいなんになるのか。
「あれだけの知識と教養を持っていて、どうしてそのことに考えが及ばないんですか? そんなくだらないことのために、こんな大怪我をする意味がどこに――!」
目を丸めて聞いていたシオンが急に目を伏せてふっと笑ったから、急に頭が冷え、激情に任せた暴言を呑んだ。
「うん……そうしたら、君と対等になれると思ったんだけど」
「……………っ」
「でも、確かに浅墓だったな。私はやっぱり、いちいち君に叱ってもらわないとダメだ」
シオンは申し訳なさそうな笑みを向け、喉が、痙攣して痛んだ。心臓が握りつぶされるんじゃないかというほど激しい痛みを感じて、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「あなたは……なんでそんなに私に
わからない。
どうして私なんかのために、本当になにもかも手放す覚悟をしてしまうのか。
私にそれほどの価値なんかない。
「……君は、私の誕生日の時にもそう言った」
シオンは、哀れむような笑みを浮かべていた。
「でも君は自分で思っているよりずっといろんなものを持っているし、私にそれを分け与えてくれる」
いつから私はこんなに泣き虫になったのかと自分を叱咤して留めようと思うのに、涙は勝手にぽろぽろとこぼれ続けた。
「今も、こうして叱りつけて愚かさに気づかせてくれる。街の人たちの生活の現状とか知識、見識、信頼……」
「そんなもの、私じゃなくても、あなたの努力次第でいくらでも手に入るものだわ」
「君でなければ、駄目なんだよ」
優しい声がよけいに胸に刺さった。
涙を留めたくて両手で顔を覆い、わからないとただ首を振った。
そっと伸ばされた手が毛先に触れた。
優しく、優しく、毛先を梳いていく。
「君が必要なんだ」
拒否しなくてはいけないのに、あまりにも甘美な言葉に駄々をこねる子供みたいに首を振ることしかできなかった。
「……サラ、手を繋いでくれないかな……」
病気の子供みたいに呟いたシオンは、手を伸ばしていたけれど毛先にしか届かないらしかった。
さっきまで握っていたはずの手にもう一度触れることがなぜだかどうしようもなく怖くて、躊躇った。
「今だけでもいいから」
はにかむシオンが手を伸ばす。
迷子の幼子みたいに。
躊躇いつつも、ゆるゆると磁石のようにその手の引き寄せられ、指先が触れたとたん、衝動的に両手で包んで胸に抱いた。
シオンは嬉しそうに目を細めて、ありがとうと小さな声で呟いた。
「ここにいる。私は、ここに、君の手の届く場所に、いる」
その言葉は、頭の上の方を掠めただけで、うまく入っては来なかった。
受け入れてはいけない言葉だと、一拍遅れて思う。
だけど繋いだ手から伝わるぬくもりが、残酷なほどにそれを事実として伝えていた。
「サラ……ずっとそばに、いてほしいんだ」
シオンの声を聞くと、言葉を聞くと、切ない。
切なさを振り切るように、必死になって首を振った。
彼の言葉は、冬の朝に毛布にくるまれているようにいつまでもぬくぬくとまどろんでいたくなる。
だけど、いつまでも甘えていてはいけない。
目を覚まさなければならない。
私も、シオンも。
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