“歌姫”詩音
一二月二四日
神奈川県 横浜 八景島シーホール前
「で、
「あぁ、聞いてる聞いてる。もうバッチシ聞いてる」
「じゃあ、詩音の最初のシングルCDのタイトル、言えますよね?」
「“
ほ、本当に聞いてる……
面倒そうに舌を打つ
「神ってのは相当隠れるのが好きみたいだな。確かにこの人ごみの中で顔が分からない奴を見つけるのは、随分苦労するぜ」
「うん。でも、外に出るのは好きみたいだね。建物とかどっかで、ずっと引きこもってるわけでもなさそうだし」
「まぁ、それは救いだわなぁ」
「二人でなぁにコソコソしてるのさ」
話に入ってきた
「結衣ちゃん、僕らの場所確保しておいてくれ。光輝くんと、飲み物買ってくるから」
「え、彩さ――」
「じゃあ、よろしくぅ」
半ば強引に光輝を連れて行き、残された清十郎は一人結衣のうんちくに付き合わされる。そのとき、清十郎の上着を掴んで飴を舐めていた
「大人の人が何かやってるよ?」
「あぁ? んだ、あれ」
客が並ぶ列にそって歩く、関係者らしきトランシーバーを付けた男。その男が度々列の中の人を何人か選んで、紙を配っていく。
結衣はそれを見て、また突然はしゃぎだした。
「あれ、きっと握手の人選ですよ!」
「はぁ? 人気アイドルってのは、歌う前に握手するのかよ」
「リハーサルならご心配なく。詩音は三日前から入念なリハーサルをこなしてますので」
マネージャーか、おまえは。
「お兄さん」
「あ? 今度はなんだ」
「もらった、三枚」
「うそぉ!」
千尋がもらった紙を確認して、結衣は思わずテンションが上がり、清十郎にタッチした。“孤高の帝王”が引いて固まる。
千尋とタッチして喜ぶ結衣を見て、清十郎はふと思った。
紙が三枚?光輝と彩が抜け、現在三人。つまり、調度3枚……自分を含めて。
めんどくせぇぇ……!
「はい、握手チケットを受け取った方! 私に続いて下さい!」
逃げ場無しかよ!
紙を配っていた男が大声を張って言うと、同じ紙を持った人達が次々に列から出てきた。結衣から紙を受け取った清十郎は、紙を睨みつけてただ固まる。
そんな清十郎の上着の袖を掴み、千尋が列から引っ張り出す。小さな男の子相手に抵抗出来るはずもなく、何とか面倒を回避する方法を頭の中で練りこむが、珍しく頭が回らない。
結局、興奮状態の結衣にも引かれ、握手の列へと並んでしまった。
「握手のあと、一人三分、会話出来る時間を設けます。ただし、過度の接触はこちらで対応させていただきますので、ご了承下さい」
三分もいらねぇ! 三〇秒だ、三〇秒!
握手の列はそのまま、会場へ入れる扉の近くへと移動する。
その列のなかで、光輝にメールをしながらイライラし始めた。ボタンを押す指は強くなり、貧乏ゆすりまでし始める。
興奮してテンションが上がっていた結衣も、さすがに清十郎のイラつきには気付いて焦りだした。
何せここは、清十郎が“孤高の帝王”と名を轟かす横浜。今はフードを被っていてバレてはいないが、バレれば多少の騒ぎは起きそうだ。そうなれば、清十郎とその関係者は退場になって、神を見つけるどころじゃなくなる。
どうしよう、と心配が込み上げてきたそのとき、列が動き始めた。こうなればもう、清十郎を出す術はない。清十郎のイライラがMAXにならないことを祈った。
そうして、清十郎のことと詩音のこと、二つの方面で緊張しながら三〇分、ついに握手の順番が回ってきた。
まずは、千尋。
「時間は三分だけだからね」
「カップラーメンが出来る時間?」
「あぁ、そうだよ」
係りの人に椅子に座らせてもらった千尋が、握手する。
その千尋をかわいいという高い声が聞こえた瞬間、後ろの清十郎の殺気を一瞬感じた。結衣はもう、この状況に合う感情が分からない。
「次の方、どうぞ」
千尋と交代で詩音のまえに座る。そうなれば清十郎のことを忘れ、思い切りはしゃいで握手したまま三分話し込んでしまった。
これが揺らめいていた清十郎の怒りの火に、油を注いでしまったことに気付いたのは、結衣が握手を終えて出てきたときだった。
「次の方、時間は――」
「三〇秒でいい」
さっさと済ませる気満々の清十郎が席に座る。するとその瞬間、前から伸びてきた手が清十郎の手を掴み取った。
「まえに助けてくれた人ですよね?!」
「は、まえ……」
「私です! チケット渡したの!」
「……は?! あれ、おまえ?」
「はい! あのときは本当にありがとう!」
赤と黄色のコンサート衣装に身を包み、背中まで伸びた赤い髪。黒の小さなハットを頭にちょこんと乗せ、肘まである手袋をした詩音は、清十郎に微笑んだ。
「でもよかった、来てくれて。一ヶ月近く経ってたから、心配してたの」
「まぁ、さっきの弟が興味あって……」
清十郎の視界に入った、右手首にはめた黒の髪留め。どこか見覚えがある気がして、つい見入ってしまった。
すぐに意識を戻して、頭を掻く。
「まぁ、頑張ってくれ」
「え? あ、あの……」
「俺以上に、言葉用意してるファンが後ろにたくさんいた。ここであぁとかえぇとか言って三分使うより、全然いいだろ。じゃあ……見てんぜ、歌姫」
「……うん、ありがとう」
結衣の心配は、歌姫のお陰で杞憂に終わった。
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