割れた

『お湯を入れて、気をつけるのよ』


 Hメールによって送られる母親からの指示を受け、千尋ちひろはカップラーメンの容器にお湯を注いだ。ゆっくりそぉっとテーブルまで持っていき、テーブルに置くと共にホッと息を漏らす。


 ここ一週間、千尋はこうしたインスタント食品ばかり食べている。清十郎せいじゅうろうが帰ってこないからだ。もう一週間、清十郎とは会っていない。


「お兄さん、どこ行ってるのかなぁ……」


『大丈夫、すぐに帰ってくるわ』


 母親の言いつけを守り、帰りを待つ千尋。その待たれている側の清十郎は、スーパーの袋をブラブラさせながら大欠伸していた。


 相変わらずフードを深く被って面倒を回避し、イヤホンを耳にして自分の世界に入っている。周囲の状況を把握するのは、狭い視野のみ。


 ダリィ……マジで、ダルい。風邪引いたわけじゃあねぇが、とにかくダルい。あぁ、早く帰りてぇ、帰って寝てぇ。


 曲もサビに入り、意識もそっちに向けられる。前方にいかにも危ない雰囲気の集団がいることに気付かず、ボォーっとして歩いていた。


「おいてめぇ! どうしてくれんだこりゃあ!」


「ご、ごめんなさい……転んじゃって」


 男が指差したのは、画面が割れてしまったケータイ電話。誤って落としたケータイを彼女に踏まれて、画面が割れたと騒いでいた。その二人を六人もの男達が取り囲み、彼女を睨んでいる。


「弁償してもらうぞ……金がねぇってんなら、体売ってもらおうじゃねぇの!」


「そ、そんな……」


「ほぉ。ってことは……ねぇんだな?」


 男が彼女の肩を掴み、連れて行こうとしたそのときだった。囲んでいた男の背中に、清十郎の頭がぶつかった。


「って、どこ見てんだてめぇっ!」


「悪ぃ。ってか店の前で固まってんじゃねぇよ……何だってんだ」


「っ! この女が、俺らのリーダーのケータイを踏んで壊したんだよ!」


「ケータイ?」


 地面に転がってるケータイを拾い上げ、画面が割れた箇所を見つめる。すると立ち上がった清十郎は、ケータイをリーダーに手渡した。唐突のことに動揺して、思わず受け取ってしまう。


「ハァ……それ、人が踏んだんじゃねぇだろ?」


「なっ! 何を――」


「自分でハンマーか何かで壊したんだろ? 人が踏んでおまえ、こんな一箇所だけが凹むこたぁねぇ。ったく、道の真ん中で堂々詐欺してんじゃねぇよ……」


「んだとてめぇっ!」


 彼女を掴んでいた手を離し、清十郎の胸座を掴む。スーパーの袋が落ちて、グシャっという音がした。


「カッコつけて助けようとしてんじゃねぇぞ! 俺はここいら周辺を仕切ってる黒蠍団くろさそりだんのリーダーだ! てめぇも金を置いて――」


「卵」


「あ?」


「卵……割れたじゃねぇかよっ!」


 胸座を掴んでいた手を掴み、リーダーの鼻に思い切りヘッドバッドを叩き込む。リーダーが手を離すとフードが脱げて、その顔があらわになった。


「あっ?! こ、こいつ……“孤高の帝王”だっ!」


「な!」


「にぃ!」


 イヤホンを取り、清十郎は落ちている袋を見て舌を打つ。鼻を押えるリーダーの顔をその拳が捉えると、男の体はまるでアニメのように吹っ飛んで、ガードレールを超えた車道に倒れた。


「カッコつけて黒蠍団とか名前付けてんじゃねぇよ。また卵買わなきゃいけねぇじゃねぇか。おい、おまえら一二〇円……持ってるよな」


「え、えぇっと……」


「持ってるよな?」


「「ど、どうぞぉっ!」」


 一人一二〇円ずつ――総額七二〇円を回収すると、清十郎は港の方を指差した。


「黒蠍団、解散!」


「「は、はい! 失礼しましたぁ!」」


 リーダーを担ぎ、走り去って行く黒蠍団を見つめて、清十郎はイヤホンを耳にした。


「マンガみてぇ。あんな風に逃げる奴ら本当にいるんだな……あぁあ、卵ほぼ全滅してんじゃんかよぉ」


 袋のそこで、割れた卵から漏れた黄身が溜まっている。十個中八個も潰れ、清十郎は面倒そうに頭を掻いた。その後ろでモジモジ指を動かしている彼女に、やっと気付く。


「あ、あの――」


「助けたつもりはねぇ。礼を言われる積りもねぇ」


「で、でも……結果的に助けてもらったんだし、あのぉこれ、よかったら受け取って下さい。興味なかったら、その……売っていいから」


 彼女から渡された、名前も知らないアイドルのコンサートチケット。確かに売るしかないと思った清十郎だったが、ふと千尋の存在が頭をよぎった。


「……じゃあ、もらっとく。弟が興味あったら、多分行く」


「は、はい! ありがとうございました」


「あぁ、ハイハイ。じゃあ今度は気をつけるこったな」


 フードをまた被り、軽く手を振って彼女と別れる。さっきのリーダーの処罰が書かれたJメールを見ながら、清十郎はふと彼女の格好を思い出した。


 赤と白の野球帽に、顔の大きさに合わない大きすぎるサングラス。白のマフラーまで巻いて、徹底的に顔を隠している。


「まさか、これの本人じゃねぇだろうなぁ」


 もらったチケットを見るが、アイドルの名前は書いてあっても顔写真が載ってない。後ろを振り向けば彼女はもういなくなっており、確認する術がなかった。顔をよく見とくんだったと、少し後悔する。


詩音しおん、ねぇ……同類に訊いてみるか」


 アドレス帳から光輝こうきを探し、詩音という名のアイドルについて知ってるかメールする。その頃光輝は水の溜まった洗面器の側で、濡れたタオルを握り締めて眠っていた。




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