神経質
「着いたね」
バスから降りて
「大丈夫?
「はい……すみません、用事に付き合って頂いてるのに」
この日は春を通り越して初夏並に暑い。長袖を着ている
「とりあえず、少し休もうか?」
「いえ、大丈夫です。行きましょう、光輝さん。連絡が遅れると、お父様も心配されますから」
そう言って歩き出す結衣の後ろから、光輝が付いて行く。何故二人でいるかと言うと、話は二日前に遡る。
「千葉の国際博物館?」
「えぇ、そこに結衣と一緒に行って頂ければと思いまして」
偶然道で遭った結衣父に話があると言われ、結衣の家である
「そこの館長は私の古い知り合いなんですが、彼が
「それを白川さ――結衣さんに?」
えぇと返事し、結衣父は頬を指先で掻いた。
「私も同行したいのですが、他の用事があって彼の指定日にどうしても行けない。元々は姉にも同行させる積りだったのですが……」
光輝は出されて全く口をつけていなかったお茶にようやく口をつけた。三〇分近く置いてあったので、すっかり冷めている。
「他に当てもない。かといって、結衣一人には任せられません。高校一年とはいえ、まだ子供だ」
俺らより年下だったんだ……知らなかった。
結衣父も茶を飲み、湯飲みをゆっくりと机に置いた。コツンと高い音が響く。
「突然のお願いで無理かもしれませんが、結衣の付き人をしては頂けませんか? 男性の君なら私も安心できるし、なんせ君は、結衣と同じ立場の人間。私が頼んだ大人と行かせるより、君との方が結衣も安心できる」
光輝は少し戸惑ったが、暫く考えてみた。確かに病院の時以来、結衣には会っていない。一度会って、元気な彼女を見ておきたいと言うのもあった。
「……分かりました。でもいいんですか? 本当に俺なんかで」
光輝が訊くと、結衣父はゆっくりとしっかり頷いた。
「姉の事があって、結衣も暫く落ち込んでいましたが……ある日、君を見つけたとかで少しばかり元気になってね。まるで君が――」
「お、お父様!」
突然声が響いて結衣父の言葉が止まった。光輝と父が振り向くと、制服姿の結衣が顔を赤くして立っていた。
「こ、光輝さんに何を!」
「いやいや、明後日の付き人の事を頼んでいたんだ。快く引き受けて下さったよ」
結衣が焦って更に顔を赤くする。光輝は元気そうな結衣を見て思わず笑みを浮べた。結衣がその笑みに気付き、頭を下げてから部屋を出て行った。
「やれやれ。今の話の続きをすると、結衣に怒られそうだ」
「では、止めておいた方が」
「あぁ、そうしよう。付き添いは明後日。交通費は私の方でお出ししますので、どうかよろしく」
という経緯から、結衣の付き添いをする事となったのである。
故に今、光輝は旅行用のキャリーバッグを引っ張っている。アタッシュケースだと大事な物だと周囲に分かってしまうが、キャリーバッグなら旅行としか思われないと言う結衣父の策だ。
「白川さん、水飲む?」
「え? じゃあ……頂きます」
光輝が自販機でペットボトルを買い、手渡す。結衣は少し口に含み、蓋が開いたまま光輝に手渡した。
「飲んで下さい、光輝さん」
手渡されたペットボトルに口を付けようとして、光輝が止まった。結衣がそれを見てクスクス笑う。
「ちゃんとタオルで拭いたので安心して下さい。それに私、間接とか気にしませんから」
「そう……なら」
光輝が一口飲み、結衣にペットボトルを手渡す。結衣に自分が持つと言ったが、結衣が持つと言って聞かなかった。
その後も、結衣は光輝の前を歩いた。嘘ついて光輝に飲ませた事を悟られないよう、自分の顔を見せないように。
ようやく博物館に到着した二人は、入り口の隣にある窓口で館長に合わせてもらえる様にお願いし、確認できるまで待機していた。
「ごめんなさい、光輝さん。アポイントメントとか取っておけばよかったですね」
「大丈夫だよ。にしても……遅いね」
窓口の方を見て光輝が呟く。入り口の前で待っているのだが、既に二〇分も待たされていた。
「そうですね……いつもはこんな事ないんですけど……あの人もいないのかな?」
「あの人って?」
結衣が頷く。結衣は入り口の方を見つめながら話した。
「前に一度、ここには来た事があるんです。その時、すっごい几帳面な助手さんがいたんですけど……その人、二分待たせた事にすら頭を下げる真面目な方で、おもしろいんで――」
結衣が話し終わる寸前に誰かが入り口の自動ドアを作動させて出てきた。
黒のカーティガンの下に来ている長袖のシャツが、結衣以上に暑そうに見える。そして黒い前髪を退かすと同時に腕時計を目にして、光輝達の方を向いた。
「……二一分も待たせて申し訳ないっ!」
突然の大声での謝罪に、光輝と結衣は驚いた。男は下げていた頭を上げ、二人の顔をジッと見たまま話す。
「言い訳はしない。だが、水槽の位置が前より後ろにずれているのが気になってしまって……本当、申し訳ない。副館長をさせてもらっている、
余りにも真面目、そして真っ直ぐな霧黒に二人は少し困惑した。だが用事は済まさねばならない。光輝が前に出て、霧黒に名乗る。
「
書物と聞いて、霧黒は急に落ち着きを取り戻した。左目のレンズをそっと指でなぞる。
「話は聞いております。どうぞこちらへ。お飲み物でもお出ししましょう」
霧黒の案内で、博物館内の事務室に二人は入った。ソファーに座り、霧黒が出す冷えたお茶を飲む。
「しかし、貴方があの白川家のお嬢さんとは……」
「はい、覚えてませんか? 昔一度、お会いしてるんです」
霧黒が結衣を見つめる。すると口角を上げ、二人に向かい合うソファーに座った。
「あの時のお子さんでしたか。なるほど、あれから随分経ったと分かる。あの時の子が、こんな大人になっているのですから」
結衣が照れて頬を赤くする。霧黒は自分で入れたお茶を飲み、腕時計を見つめた。
「館長は少し出ていましてね。後五分で戻りますので、申し訳ないがもう少しお待ち頂きたい」
「分かりました――あ、ごめんなさい。メールです」
結衣がケータイを開く。メールを見終わった結衣に、光輝が耳打ちで訊いた。
メール、お父さんから?
結衣が耳打ちで返す。
いえ、いつものあれです。
いつもの、つまりDメールだ。光輝も気付き、そっかとだけ言って耳を離した。それと同時に、霧黒が光輝達の後ろをジッと見つめているのに気付く。
「あの……どうしたんですか? 霧黒さん」
「いや、ただちょっと気になる事がありまして……」
「何ですか?」
結衣も気になって訊くと、霧黒は突然立ち上がった。
「壁の絵……壁の絵が左に傾いている!」
霧黒が二人の後ろを指差すので振り向くと、確かにそこには油絵で描かれた絵が飾られていた。だが見る限り、特に傾いているように見えない。
「あの、霧黒さん。どこが傾いて――」
いつの間にか霧黒が席を離れ、絵の方にいた。思わず結衣と絵の方とソファーの方を二度見してしまい、光輝は結衣と一緒に笑った。
「ムゥ、角度が気にいらん。あぁ、分度器と定規が欲しい……」
その時、霧黒のポケットに入れてあったアイフォンが震えた。メールの受信だ。霧黒がアイフォンを取り出し、メールを開く。
「何!?」
「ど、どうしたんですか?」
また突然大声を上げた霧黒に驚いて結衣が訊くと、霧黒はハッとなって二人に振り返った。
「も、申し訳ない……どうやら、先程私が脚を拭いた玄関マットが少しずれ、玄関からはみ出したらしく……あぁ、駄目だ。帰るまで俺の気が
「だ、大丈夫ですか?」
「あぁ……まぁ、このメールのお陰で細かい所に気付くようにはなっているのだが……私はどうやら、このメールよりはまだマシだと気付かされる。さすが、
霧黒の言葉に、思わず二人同時に立ち上がる。メールの名前を言う時霧黒は声を小さくしたのだが、それでも聞こえた。霧黒はそんな二人に気付き、二人の方を向く。
「どうされたので?」
二人は顔を見合わせると、光輝が霧黒に話した。
「霧黒さん、そのメールってもしかして……神からですか?」
“神”
その単語に霧黒が目を見開く。先程のような動揺を見せないが、額から汗が流れ、頬を伝って顎から床に落ちた。
「館長との用事が済んだ後、少し話せますか。この出会いが、偶然とも思えない」
その後、館長である老人が来て話は進んだのだが、館長の後ろで立つ霧黒は、ずっと上の空だった。
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