第20話
カドラヒの姿を見たシェリウは、驚き固まってしまった。そんなシェリウを見やって、ラアシュが微笑む。
「久しぶりだな
「……太守様。こりゃあ、一体どういうことです?」
ラアシュに鋭い視線を向けたカドラヒは、低い声で聞いた。
「おお、怖いな。カドラヒ、それが本当のお前か」
大袈裟な身振りで仰け反ったラアシュは、笑みを深める。そして、再びシェリウに顔を向けた。
「
「あたしには父と母からもらったシェリウという名があります。そのような名で呼ばれるいわれはありません」
頭を振ったシェリウは、突き放すように言った。
「冗談がきつい御方だ。俺がシェリウと知り合いだってことはご存知なんでしょう?」
硬い表情のカドラヒの問いに、ラアシュは溜息をつく。
「ああ、二人ともつまらんな。もう少し付き合ってくれてもいいだろう?」
「あたしは笑えない冗談に付き合うほど暇じゃないんです」
微かに目を細めたシェリウは、ラアシュを見つめた。立場が上にある人間の傲慢な揶揄ほど不快なものはない。本心では怒鳴りつけたかったが、それでは益々相手を喜ばせるだけになる。その思いがシェリウを自制させた。それよりも、ただ真実をぶつけ、相手を退けるしかない。シェリウは努めて冷静であろうとして、静かに言う。
「あなたはユハを手にすることを望んでいる。あなたはユハのもつ特別な力を知った。だけど、その力は破滅の道でもあるんです。ユハは、教会に追われています。もしユハを望むのならば、あなたは教会を敵に回すことになりますよ」
「ああ、分かっているとも。事実、教会から異端審問官がお前たちを追ってリドゥワにやって来ている。彼らに先を越されないために、私は少々強引な手を使ったのだよ」
シェリウの言葉に、ラアシュは動揺した様子はない。やはり、教会の追手がこの街にいたのか。ラアシュの答えに、ラハトの推測が正しかったことを知る。
「……あなたは権勢を誇る一族の長で、財産を持ち、リドゥワの長でもある。富貴をほしいままにしているあなたが、どうして教会を敵に回す危険を犯してまでユハを捕らえようとしているんですか?」
「偉大なる聖女をお迎えしたい。この湧き起る信仰心を抑えきれないのだ」
胸に手を当てたラアシュは、芝居がかった口調で言った。シェリウは小さく頭を振る。そして、己の推測を口にする。
「あなたは聖王教徒じゃありませんね」
「何を言うのだ? 私は敬虔な信徒だよ」
微笑むラアシュに構うことなく、ルミヤを一瞥して言葉を続けた。
「あたしは、あなた達が諸教派の信徒だと思っていました。だけど、この人はあたしに異教徒だと言った。そして、聞いたことのない術法と、あんな強力な巨人王の眷属を使役した。巨人王の教えが残る諸教派でも、そんな力は伝わっていない。あなた達は、真の巨人王の信徒。すでに滅びたと信じられている、古の教えを奉じているんですね」
シェリウの視線を受けたラアシュは、苦笑と共に頷く。
「やれやれ、賢い娘だ。……あれだけ手の内をみせたからな。今さら誤魔化しても意味がないか。その通り、私は、偉大なる巨人王の教えを信じる者だ」
その答えに、カドラヒが小さく驚きの声をもらした。
「旧き教えを信じるあなたが、どうしてユハの力を欲するんですか?」
「呪われし災厄の主の教えから人々を解き放ち、自由にするためだ」
ラアシュは、まるで明日の予定でも話すように、気負った口調もなく答える。そのために、シェリウはその言葉を一瞬理解できなかった。
「自由にする……?」
「ああ。聖王の教えは、
シェリウはその言葉に息を呑む。それは、シェリウ自身が常に頭の片隅で考えていたことだったからだ。聖王教会の教えは、どこか強迫観念のように人の心を縛り付けている。そして、その教えを周りに広めようとする。周囲の人々が異なる教えを信じていることが恐ろしくてたまらない。恐れるあまり、力尽くでその教えを押し付けているように思えていた。
ラアシュは、シェリウが押し殺した動揺を見抜いたように、射抜くような視線で彼女を見つめた。
「はるか昔、世界は『恐ろしい冬』に襲われたという。世界は冷え切り、北の大地は巨大な『這い寄る氷』に覆われたそうだ。しかし、巨人族の治政は、その氷の時代を耐え抜き、人々に光明をもたらした」
「氷の時代……。そんなことがあったのですか?」
シェリウは、己の知識にないはるか古の伝承を聞いて、思わず問い返した。
「這い寄る氷は、この地にまではやってこなかったそうだがね。ただ、世界全体が氷の時代の訪れによって冷えてしまったことは確かだ。おそらく、聖導教団や西方教会はその伝承を知っているだろう。この恐ろしい時代に、人々は生き残ることに必死だった。そして、巨人族は、貧しく死にかけていた小さき人族を救い、導いた」
ラアシュは楽しげにシェリウを見ながら、言葉を続ける。
「巨人王の教えは、寛容と和解だ。巨人王の元ではあらゆる種族、あらゆる教えが認められた。混沌や虚無を奉ずる者さえも認められたのだ。ああ、もちろん、その治世の中で争いはあった。巨人族同士で、あるいは異種族の間で血が流れたことがあった。決して理想郷ではなかったことは確かだな。しかし、それでも、巨人王のもとで人々は団結し、冬の時代を生き延びた。やがて這い寄る氷は退き、極北に白い壁となって留まった。世界に春が訪れた。しかし、春の訪れとともに、災厄の主がやって来たのだ。自らを『高貴なる人々』などと呼ぶ、恐ろしく、愚かな者たちだ。奴らは自分たちの
ラアシュの言葉に、シェリウはこれまで感じていた疑問を問わずにはいられなかった。
「あなた達は古の聖王を災厄の主と呼ぶ。アタミラで私たちを襲った精霊もそう呼んでいた。どうして偉大なる聖王をそんな恐ろしい名で呼ぶのですか?」
「聖典にも伝わっているではないか。人々を襲う病。魔物の群れ。恐ろしい光があらゆるものを焼き、人々はただ影を地に焼き付けた。やつらは、力を追い求めるあまり、破滅の釜の蓋をあけ、ようやく蘇った世界を再び荒廃へ追いやったのだ」
それは聖典では世界を襲った『大災厄』として記されている。その恐ろしい災厄によって聖王国は衰え、崩壊し、今の世が訪れた。しかし、その原因が聖王自身にあるということは記されていない。ただ、その苦難の時代を生き抜き、信徒に救いをもたらした聖王教の偉大さを謳うのみだ。
「大災厄が聖王の責任だという証拠はあるのですか?」
「証拠などあるものか。はるか昔のことなど、どうやって証明する? 私は我々の間に伝わる伝承を信じている。それだけだ。お前たちが聖王の教えを信じているようにな」
シェリウの問いを鼻で笑うと、ラアシュはカドラヒに顔を向けた。
「巨人王の教えは寛容の教えと言っただろう? 私はお前の信じる教えを、異端などとは呼ばない。もちろん、正教派もだ。災厄の主の強いた呪われた教えとはいえ、信じる者がいる限り、それを認める。巨人王の教えの元では、呪われた聖王教の教えも、世界に数多ある教えの一つにすぎない」
カドラヒは強張った表情のまま答えない。
「私はこの地に自由を取り戻す。しかし、この国には聖王教徒は多く、すぐに全ての民を巨人王の教えに改宗させることは難しいだろう。だからといって、剣をもって教えを強いることはない。ただ教えを望むもの受け入れるだけのことだ。やがて、皆は自然と寛容なる巨人王の教えを奉じることになる。それまでの間、新しき
ラアシュはカドラヒを指差した。
「カドラヒ。ユハを新たなる聖王教徒の旗頭として、お前が聖王教徒を束ねるのだ」
その言葉に、カドラヒとシェリウは驚きの声を上げた。ラアシュは、シェリウに顔を向ける。
「シェリウ。ユハは聖王教徒を導く光となる。新たな聖女王となるのだ」
ラアシュはユハの中に聖女王の欠片があることを知らないはずだ。それなのに、ユハを聖女王に祭り上げようとしている。ユハのもつその力はどこまで人を惹きつける。それが異教徒であろうとも。欠片のもつ力の怖ろしさと運命の皮肉に、シェリウは思わず震えた。
「……ユハはそんなことを望みません。ユハはただの修道女です。ただ、静かに信仰に生きているんです」
「ふむ……。誰もが望むものを、私は用意できる。何よりユハに与えられるのは偉大なる聖女王の称号だ。聖王教徒ならば皆、憧れるものだろう? 名誉も、地位も、財も興味がないのか?」
「ふざけるな!!」
その言葉がユハを汚したような気がして、思わずシェリウは叫んだ。
「世のすべての人がそんな物を望んでいると思うな! ユハはそんな人間じゃない!!」
ラアシュは小さな溜息と共に肩をすくめた。
「そうか、とても残念だ。しかし、それはそれで都合が良い。
「ユハは決してあなたに従いません」
「精一杯抗えばいい。私もそれを阻もう。巨人王の教えは寛容だが、信徒であるラアシュという男は、決して善良な人間ではない。あらゆる手を使って、碧眼の君を屈服させる」
くつくつと笑うと、ラアシュはカドラヒを見やる。
「カドラヒ、私がリドゥワ市民に責任を負っているように、お前は多くの信徒に対して責任を負っている。今、諸教派は微妙な立場にある。太守である私の言葉一つで、その運命は大きく変わるだろう。そのことは理解できるな?」
カドラヒは微かに顔を歪めると頷いた。
「ユハたちは今、お前の商会に身を寄せている。ユハを説得し、ここに連れてくるのだ。勿論、断っても構わない。それがお前の決断というならば仕方がない。だが、迫害に晒されている信徒たちのことを考えれば、お前の選ぶ道はどれなのか、自ずと答えが出るはずだ」
「……考えさせてください」
重苦しいカドラヒの答えを聞いても、シェリウは彼を責める気にはなれなかった。人は、生きるためには屈辱に膝をつき、泥水をすする。自分も、貧困の中で生きるために人を騙し、盗みを働いた。増してや、カドラヒは多くの人々の生活を背負っている。母親も、娘である自分の為に誇りを捨てて体を売ったのだ。カドラヒが自分を頼る人々のために太守に従ったとしても、それは仕方のないことだろう。
しかし、今ここにいる自分は聖王教を信じる修道女だ。教えと誇りのために、膝を屈することはない。信じる教えのために、そして何より友のために、自分はここで最後の罪を犯す。
シェリウの瞳孔が大きく開いた。
かつてない程の深い集中。
精神が研ぎ澄まされる。
一瞬。
誰にも止めることのできない僅かな時間に、ありったけの力を目の前の男にぶつける。
この男を殺すのだ。
全てが終わった後、自分は殺されるだろう。だが、ただ自ら命を絶つこともできずに、友の枷となって罪に苛まれるよりもはるかにましだ。
聖鎚の術を行使するために聖句を唱えようと口を開く。
突然、ラアシュが右手を伸ばした。同時に、異様な音をおびた言葉を一言を発する。
次の瞬間、不可視の力がシェリウに襲いかかった。まるで巨大な手に鷲掴みされたような感覚に、思わず苦悶の呻きを発した。
うずくまることもかなわずに、その場に棒立ちになる。
「今の術法はとても良かったな。だが、少し遅かった」
ラアシュは差し出した右手で空を掴んでいる。呪文を唱えると共にその指を少しづつ狭めていくと、シェリウの体を襲う苦痛も増した。
「私を魔術で出し抜くならば、もう少し賢くいくか、はるかに上回る力で圧倒するしかない。今のお前の力で正面から抗うのは無駄な努力だ」
このままでは骨が折れる。そう覚悟するほどの痛みに息をもらすと、突然己の体を掴む力が消えた。自らの体を支えることもできず、シェリウはその場に崩れ落ちる。
ラアシュが席から立つと、シェリウの前に立った。苦痛に耐えながら、シェリウは顔を上げて睨み付けた。
「マムドゥマ村の呪いは祓われ、聖遺物は奪われた。聖墓の守り手は退けられ、部下たちは痛手を負って敗北した。先手はお前たちがとった。それは認めよう。だが、我々も負けてはいない。碧眼の君が愛する
ラアシュは笑みと共に言うと、膝をついた。シェリウの頬に手を当てて、顔を寄せる。そして、耳元で囁いた。
「最後に王手を指すのは我々だ」
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