第5話
「子供の頃、世界はとても輝いて見えた。市場はとても賑やかで、美味しい物や珍しい物がたくさんある。父さんと母さんはとても優しくて、賢くて、家にはいつも笑いが溢れていた」
シェリウは何の感情を浮かんでいない平坦な表情で、淡々と言う。
「父さんは大きな商会で働いていて、重要な立場にいる人だった。とても本が好きで、学者でもないのに家には本棚があって、本がいっぱい詰まっていたんだ。ほとんどの本は難しくてあたしにはまだ内容が理解できなかったけど、それでもあたしは本を引っ張り出して読んでた。難しい単語を音読してると父さんが喜んでとても褒めてくれて、それが嬉しくていつも本ばかり読んでたな……」
夜の宴は、正教派司祭たちの乱入によってうやむやのままに終わった。皆に称えられ、感謝されたシェリウだったが、家に戻ってからもその表情は曇ったままだ。茶を入れて一息入れている皆の前で、シェリウは独り言のように語り始めた。
「友達は少なかったけど、あまり寂しくはなかったな。父さんと母さん、沢山の本、それに他の人には見えない秘密の友人がいたから」
「見えない友人?」
その奇妙な表現に、ユハは首を傾げた。
「そう、あたしだけに見える女の子。イェリムっていうその子は、あたしと同い年で、いつもあたしを助けてくれた。意地悪な子が先で待ち構えている時は教えてくれたし、石を投げつけてきた時も守ってくれた。無くした物を見付けてくれたり、色々なことにも相談にのってくれた」
「……それはもしかして、あなたの分霊だったんじゃないの?」
月瞳の君が静かにたずねた。シェリウは月瞳の君に顔を向け、頷いた。
「今考えると、そうですね」
「あの、分霊ってなんですか?」
ユハは月瞳の君にたずねる。その問いに、シェリウが答えた。
「あたしの魂の一部を、魔術の力で肉体の外で形にするの。そして、仮初めの意思を持たせて使役する。そういう術法ね」
「すごい……。シェリウって子供の頃からそんな術法が使えたの?」
「意識して使ったわけじゃないんだ。父さんの持っていた本の中に、まじないや魔術について書かれた本があって、それを読んでいるうちに顕現したんだと思う。今思い出してみると、イェリムの言うことはほとんどがあたしの願望か、推測を言葉にしたものだったし、本当の分霊のような高度なものではなかったんだ」
「だとしても大したものねぇ……。まず、分霊を造ることができるのは素質が必要だし、それを現世で力を振るうことができるように整えるのは、よほど修行が必要なのよ」
「魔術の素質があったのは確かだと思います。お蔭で、今のあたしがありますから」
「商人がどうして魔術の本など持っていたんだ?」
ラハトの問いに、シェリウは一瞬顔を歪め、そして答える。
「それは、あたしの父が諸教派のうちの一つの教派の信徒だったからです。その教派の教えが記された書物。そこに、様々な哲学的なことや、魔術的なことが書かれていたんです。あたしがどんどん難しい本を読んでいくので、父さんはこの本も読ませてくれた。これは皆に見せてはいけない大切な、秘密の書物なんだよ、って言ってね。あたしはそれがとても嬉しくて、絶対に誰にも言わないと誓ったし、夢中でその本を読んだんです」
「つまり、シェリウの父は、諸教派の信徒であることを隠していたんだな?」
シェリウは、ラハトの指摘に微かに口元を歪めた。
「……その通りです。当時のあたしの故郷タハトカは、とても正教派の力が強い街でした。そして、父が働いていた商会の会頭も、熱心な正教派信徒。子供の頃はよく分かっていませんでしたが、今考えてみると、父さんは仕事のために信仰を隠していたんだと思います」
ユハには信仰を隠して生きるということがどんなことなのか理解できない。教えは己の芯であり、身にまとう衣であり、歩むべき道だったからだ。シェリウは、そんなユハを見つめて言う。
「ある日、父さんが異端であると密告する者がいたの。正教派の僧侶でもない父さんがそれで審問にかけられるわけではなかったけど、商会での立場は悪くなったみたい。そして、父さんは横領の罪で捕まったんだ。母さんは父さんは正直者でそんなことをする人じゃないって、私に毎日言って聞かせた。あたしもそうだと信じていたから、すぐに帰って来ると思っていたんだ。だけど、父さんはなかなか帰ってこなかった。イェリムにも、父さんは帰ってくるよね? って聞いていたけど、悲しそうな顔をして何も答えなかったな……。どれだけ待ったかもう忘れてしまったけど、とても長い間待っていたような気がする。ある日、役人が家にやって来て母さんと話をした。戻って来た母さんは泣きながら、父さんが牢屋で亡くなったって言ったんだ」
そう言ったシェリウの声と表情は平坦で、それゆえにユハの心を揺らす。伸ばそうとした手を止め、開きかけた口を閉じた。
「住んでいた家を追い出されて、財産も全て失った。それでも母さんは体を売って私を養ってくれた。私も必死で働いた。盗みもやったし、人を騙したりもした。……母さんが客を取っている間、あたしは外で待っているんだ。ほとんどの客はあたしを無視するんだけど、たまに話しかけてきたり、菓子をくれる客もいた。その日の客もあたしの所に来て、話しかけてきた。その顔をあたしは覚えていた。時々家に遊びに来ていた、父さんの友達だったから」
シェリウの顔が歪む。
「そいつはあたしを見て、とても嬉しそうに笑うんだ。そして、自慢げに話し始めた。父さんが嫌いだったこと。異端であることを知ったこと。そしてそれを会頭に密告したこと。横領の罪をでっち上げたこと。邪魔者が消えておかげで出世できた、だが、まさか死ぬなんて思わなかった、とても残念だ、なんて笑顔で言うのよ。あの時の怒りは、今でも覚えてる。色々嫌なことがあったけど、人を殺したいと思ったのは初めてだった。そして、そこでその記憶は終わり。その後のことは何も覚えていないの」
シェリウは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。うつむき、沈黙する。他の誰も言葉を発することはない。やがて、シェリウは顔を上げた。ユハを見つめて、おもむろに口を開く。
「……気付いたら知らない男の人がいた。そこは知らない部屋の中で、周りにはその人以外にはいなかった。その人は、あの嫌な奴が死んだと言った。家の周りの何人かの人も、そして、……母さんも死んだって。恐ろしい魔物が暴れ回り、何人もの人を殺したんだってその男の人は言った。その人は教会に属する祓魔師で、魔物を退治したというんだ。あたしは直感的に理解した。イェリムがやったんだって。思った通り、イェリムは呼んでも出てこなかった。その人も、あの魔物を呼び出したのがあたしだって分かっていたと思う。でも、あたしを憐れんでくれたのか、何も追及はしてこなかった。結局、あたしはその人に連れられてイラマール修道院に預けられることになったの。そして、あんたに出会った……」
初めて会った頃のシェリウを思い出す。ユハは微笑み、口を開いた。
「あの頃のシェリウはいつも泣いていたよね」
「え? 一度も泣いてないわ。泣かないって決めてたもの」
シェリウは驚き目を見開く。
「うん。涙は流していない。だけど、私には泣いているように見えた。だから、シェリウを一人にしてはいけないって、そう思ったんだよ」
ユハを見つめていたシェリウは、強張った表情で目をそらした。
「出会った時、ユハがとても眩しかった。眩しくて、怖くて、憎かった。でも、どんなに邪険にしても、あんたはあたしを見捨てなかった。あたしみたいな人間でも愛してくれるんだって、嬉しかったんだ。……だから怖かった。あんたがあたしの罪を知った時、何もかもが終わる気がして、言い出せなかったの。あたしは咎人なんだ。色々な悪事をして、最後には、怒りに駆られて何人もの人を殺した。自分の母親も……。いつも偉そうなことを言ってるけど、本当はユハの隣に立っていられるような人間じゃないのよ……」
「敬虔で、賢くて、物知りで、何でもできて、時々怖い。でも、本当はとても優しい。私の知っているシェリウは、そんな人。今も、悲しみ後悔し、償おうとしている。自分に責め苦を与えている人をさらに鞭打つことなんて、私にはできないよ」
微笑むユハはシェリウの手をそっと握った。シェリウはその手を引き、ユハの体をかき抱く。ユハもシェリウの背に手を回しながら、耳元で言った。
「良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、すべてがあって、今のシェリウがいる。私の大好きなシェリウがね。曲がりくねった道で歩みが遅くなったのかもしれない。岩だらけの荒野で躓いたのかもしれない。……だけど、その中で感じたこと、考えたこと、全てが今のシェリウを作ったんだ。私が信じているのは、この腕の中にいるシェリウ。今、ここにいるシェリウに一緒にいてほしいんだ」
「ユハ……」
シェリウの頬を涙が伝う。ユハの右手が、シェリウの髪を優しく撫でた。
月瞳の君が、瞳孔を細めながら両手を伸ばし、ユハとシェリウの頬をつまむ。そして、上へと小さく吊り上げた。
「痛い、痛い。痛いです、月瞳の君。何をするんですか」
ユハは痛みを訴え抗議する。
「……嫉妬の病」
月瞳の君はぼそりと答えた。
ユハは目を瞬かせて月瞳の君を見て、微笑む。
「それじゃあ、月瞳の君もシェリウをぎゅっとしてあげてください。ぎゅっと!」
その言葉に月瞳の君が満面の笑みを浮かべ、シェリウは慌てた。
「え、ええ? いいよ、大丈夫」
「何言ってるのよ。使徒の愛を受け入れなさぁい」
月瞳の君が大きく両手を広げ、ユハとシェリウを抱きしめた。その強い力に、思わず息が漏れる。
満足そうな月瞳の君は、シェリウに視線を向けてニヤリと笑うと、振り返った。
「ほら、ラハト、あんたも来なさい。ぎゅ~っとするのよ。ぎゅ~っと」
背後に座るラハトを手招きする。
「ちょっと、何言ってるんですか! ラハトさん、困ってるじゃないですか!」
みるみる頬を紅潮させたシェリウは、無表情なラハトを見て狼狽する。
「そうは見えないわねぇ」
わざとらしく首を傾げた月瞳の君は、逃れようとするシェリウの体を離さない。
そして、傍らにラハトが立っていた。
月瞳の君が、片手を放して場所を開ける。ラハトは、力強くシェリウの肩を抱いた。
「……シェリウ、よく頑張ったな」
ラハトは言った。
ラアシュは筆を止めると、顔を上げた。
「失敗した? 何も起きなかったというのか?」
「はい」
机を挟み、対面に立つカフラが小さく頷いた。
「祝宴を妨害はしたのですが、あの碧眼の君と共にいる娘が、司祭と説法問答を始めたのです」
「何だそれは……。どうしてそうなるというのだ」
ラアシュは眉をひそめてカフラを見やる。
「あの司祭は己の才に自信があるようでしたからな。自分に噛みついてきた愚かな子犬を叩きのめすつもりだったのでしょう」
「場所と立場を弁えない男だな……」
ラアシュは思わず溜息をついた。カフラは肩をすくめると報告を続ける。
「説法問答は娘が勝利しました。吠え声だけは威勢の良い負け犬は、勝てぬと悟ったのか、尻尾を巻いて帰りました。その為に、収まった場に踏み込むわけにもいかず、兵たちは帰らせました。とんだ無駄足です」
「司祭が小娘に言い負かされたというのか? しかし、説法問答で負けたとはいえ、さすがに手を出すことはなかったか。どうやら、それくらいの自制心は身に着けているようだな。それを喜ぶべきなのか、残念に思うべきなのか。……まったく、我が教区の僧侶たちは頼りない者ばかりだ。大丈夫なのか?」
カフラは苦笑すると言う。
「それはラアシュ様が気にされる必要は無いのではありませんか?」
「いずれ放逐するとはいえ、今の行政には欠かせない者たちだ。あまりに愚かでは統治に支障をきたすだろう?」
「確かにそうですな」
筆を置いたラアシュは、額に手を当てると舌打ちする。
「小娘とのくだらない論争で宝玉を逃すとは。こんなことは考えもしなかったぞ」
「あるいはただの娘ではないのかもしれません」
カフラの答えに、ラアシュは小さく頷いた。
「……そうだな。あの宝玉と共にいる者なのだ。あるいは美しく輝く宝石なのかもしれない。あの時、共にいた男も気になると言っていたな?」
食堂で碧眼の君をカフラから庇った青年。カフラはあの後、ずっと青年を警戒していた。カフラは、その問いに頷く。
「はい。あの男はかなり“使い”ますよ」
「腕が立つのか。お前よりもか?」
「それは……、分かりません。あの時見せた一瞬の動きに完全に不意を突かれました。あの男には、底が知れない恐ろしさがあります」
ラアシュは驚き、カフラを見つめる。真剣な表情で、そこに諧謔の色はない。
「お前がそのように答えるとは珍しいな」
「敵の実力を量り損ねると死にます。私はまだ死ぬつもりはありません」
カフラはゆっくりと頭を振った。
「そういう相手ということか。さすが、宝玉の守り手だな」
ラアシュは小さく頷くと、窓の外を見やった。リドゥワの街は闇に沈み、その暗黒の中に点々と、灯る光が見える。
「どうやら我らの道は、ことごとく碧眼の君とその一行に妨げられる運命にあるようだ。この運命の繋がりに深く感謝するとしよう。道で躓いたお蔭で、そこに宝玉を見出したのだからな」
笑みを浮かべると、再びカフラに顔を向ける。
「障害が大きければ大きいほど、得られた宝には価値が生まれる。我らの遠謀のために、宝は手に入れなければならないな。手を尽くし、宝玉を我らの物とするのだ」
「承知いたしました。計画を進めます」
カフラは一礼した。ラアシュは立ち上がると窓の前に立つ。
「誇り高い司祭殿も、このまま引き下がることはできないだろう。励ましてやる必要があるな。……埋火は未だ燻っている。あとは風を送り、薪をくべてやるだけだ。そして、我らは大火を望むだろう」
闇夜の街を見下ろしながら、静かに言った。
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