第1話
月光の下、一人の鱗の民が踊っていた。
それは、技巧も躍動もない、型をなぞるだけのような動きだ。しかも、手や頭を振ることなく、足や尾だけを動かしているのが奇妙に見える。
白砂の大地の上で、その巨躯は軽やかに足踏みし、しなやかな尾が優美な動きで何度も砂を打つ。それは独特の拍を刻み、狭い範囲の中で動くその体は、まるで痙攣しているかのように細かく上下している。
数万の巨大な蟻、数千の人々がそれを見守っていた。
鱗の民は何度か同じ踊りを繰り返した後、唐突に動きを止めた。しばらくの間身じろぎせずに立っていたが、おもむろに歩き出す。
「終わったのか?」
見守っていたシアタカは、自分たちの前に立ったカナムーンに聞く。
「ああ、終わった」
尾で空を切った後、カナムーンは答えた。
「あんな踊りで、カナムーンだって分かるのか?」
からかうような表情でハサラトが言う。
「踊りではない。合図だ」
カナムーンは喉を膨らませた。
沙海に到着すると、カナムーンは自分たちの存在をカラデア軍に知らせると言った。どうするのかと首を傾げた皆に、元々合図を決めていたのだとカナムーンは答える。
「今、黒石の守り手はかつてないほど沙海の音に耳を澄ましている。沙海には無数の音がある。ウル・ヤークス、カラデア両軍の音は当然のことだが、風や砂嵐、沙海に暮らす小さな生き物たち、魔物、その他、我々には想像もできないような様々な音が聞こえるはずだ。その中から私の存在を主張するためには、意志が介在する規則的な一塊の音を作る必要があった」
「成程。確かにあれだけ手順を踏んだ音なら、行軍の音としても不自然だな」
シアタカは頷く。
「そうだ。私が鳴らすはずの音は、守り手全員に知らせている。これで、必ず誰かが私が帰ってきたことに気付くだろう」
「守り手はこんな沙海の端の音まで聞こえるっていうの?」
エンティノが自分たちが降りてきたばかりの、背後の山脈を振り返った後聞いた。
「沙海を覆う白砂は全て守り手の耳であり、肌だ。何人もの守り手が耳を澄ませていれば、その音は彼らに届く」
「想像もできないわね……」
呆然とした表情のエンティノは、小さく頭を振った。
「彼らからはすぐには答えは返ってこないだろう。まずはここで休もう」
「答えって何?」
アシャンの問いに、カナムーンは微かに喉を鳴らす。
「砂文という術法だ。黒石の守り手が、砂に文字を描いてくれる。我々が次にどうするべきなのか、それを伝えてくれるはずだ」
「すげえな、カラデアはそんな魔術が使えるのか。伝令いらずじゃねえか」
ハサラトが驚きの声を上げた。
「守り手の数はそう多くはない。軍の全てを担うことは難しいだろう」
「そうか……。それでも、大きな武器であることは間違いない」
シアタカの言葉に、ハサラトは頷いた。
「遠い場所とも意思の疎通ができて、情報をすぐに受け取れる。これで戦いの速さは全く変わるぜ。心強い話だな」
「ああ、そうだな」
「とはいえ、話し合いの速さまでは変わらん。そういうことだな?」
エイセンの問いに、カナムーンは喉を鳴らした。
「耳の良い砂聞きが私の合図に気付いて、カラデア軍に伝える。我々の到着によって、戦いは流れが大きく変わるはずだ。我々の到着を知ったカラデア軍は、キシュガナンをどう扱うのか悩むことになるだろう。カラデア軍が我々に伝えるための言葉を考える。その為に少々時間が必要だ。そして、我々にも休息の時間が必要だろう」
カナムーンの言葉に、皆が頷いた。
凄まじい速さで山々を踏破したキシュガナンたちは、さすがに疲労の色が濃い。しかし、同時に、自分たちが後々まで語り継がれるような遠征に参加しているという興奮と誇りに目が輝いている。
全ての群れが一つになったキシュは、互いの知識を共有することによって、外つ国へ抜ける最短の道を割り出した。しかし、その道はあくまでキシュにとって最短であり、人にとっては違う。キシュは、そんなのろまなキシュガナンのために、道を作った。
さすがに山を崩すようなことはできなかったが、それでも鬱蒼とした山道とは全く違うそのキシュの道を、キシュガナンたちは軽々と進軍した。さすがに彼らの鉄脚についていけないシアタカたちは、呪毯にのっていたのだが。
キシュガナンたちにとって、一つになったキシュが道を切り拓く光景は伝説の一幕のようだっただろう。これまでこんな体験をしたキシュガナンなどいない。まさしく、自分たちは新しい伝説の中にいる。彼らはそう信じている。それが、彼らを熱狂させていた。
「
「分かった。皆、休んで食事をしてくれ」
キシュガナンの戦士にシアタカは答える。キシュガナンの伝説上の聖者たちの呼び名で呼ばれ、敬われることに未だ慣れない。
ウル・ヤークス王国建国の時、聖女王に従う
周囲の態度の激変は、シアタカと仲間たちを大いに戸惑わせた。しかし、ウァンデは肩をすくめて諦めろと言う。エイセンは、戦士たちをまとめる手間が省けたと大笑いした。親しい者たちの態度が変わらないことには安堵するが、聖人扱いされて居心地の悪さを感じていることに変わりない。そして、ニヤニヤと笑みを浮かべるハサラトに釘を刺しておくことは忘れなかった。
白い砂漠には、戦士たちとキシュが満ちている。月明かりと白く輝く大地の間で、彼らは暗く重い影を落としている。間に合わせの粗末な長衣に身を包み、大槍や槍を携えた戦士たち。
初めて沙海に足を踏み入れた時には想像もできなかったこの光景に、シアタカは小さく息を吐く。
自分はこれから、彼らと共にウル・ヤークス軍と戦う。
かつて、自分の同胞だった者たちと。
はるか遠い異郷で過ごした目まぐるしい日々。これまでの常識を打ち砕くその驚異の経験は、まるで夢のようであり、ただ目の前のことに必死で立ち向かってきた。そして、やがて来る現実を忘れることができた。しかし、自分は今、ここに立っている。それによって、俄かに現実が目の前に立ちふさがった。決意しているとはいえ、その事実はシアタカの心を揺らす。
「……シアタカ」
自分を呼ぶ声に、我に返る。傍らで、不安気なアシャンがこちらを見ていた。
「あの……、大丈夫?」
「ああ、ずっと呪毯の上で楽させてもらったんだ。疲れて何ていないさ」
「ううん、そうじゃなくて……。シアタカがとても辛そうだから……」
こちらを窺うような様子のアシャン。シアタカは思わず顔に手を当てて溜息をついた。彼女に隠し事をすることはできない。そして、己の不甲斐なさを痛感する。
「すまない、アシャン。ただの気の迷いなんだ」
「……私って、確かに頼りないかもしれない。だけど、シアタカは言ってくれたよね? 一緒に考えようって。シアタカが昔の仲間と戦いたくないことは知ってる。それでも、ここまで来てくれた。だから、私もシアタカの役に立ちたいんだ。お願い、シアタカ。一人で悩まないで。みんなが、……私がいるから」
シアタカは目を見開いた。
「そうか……。これは俺の問題なんだ……」
「またそんなこと言ってる! 皆が怒るよ!」
その呟きを聞いて、アシャンの視線が鋭くなった。シアタカは右手を上げて言う。
「いや、違うんだ。アシャン、聞いてくれ」
静かなシアタカの声に、アシャンは口を噤む。頷くと、シアタカは言葉を続けた。
「これまでの俺は、自分の問題だと言ってそこで考えることを止めていた。ただ、自分が置かれていた運命を受け入れて、流されていただけだったんだ。目の前にある道をただ歩く。それは確かに楽な道だ。だけど、それはただ歩かされているだけなんだ。運命に抗うために、道は、自分で切り拓いていくしかない。俺は、アシャンに出会ってそれを学んだ。ただ、それに気付いていなかっただけだ。アシャンはとっくに覚悟をしていたっていうのに、俺は怯んで、目を背けて気付かないふりをしていた。本当に、俺は駄目だな……」
シアタカは自嘲の笑みを浮かべた。頭を振った後、笑みを消してアシャンを見つめる。
「覚悟はできてる。……その時が来れば、俺は敵を殺す。そのことに迷いも後悔もない。だけど、俺はウル・ヤークスを憎んでいるわけじゃない。功名を望んでいるわけでも、血に飢えているわけでもない。俺は、自分がするべきことのためにここにいる。俺がするべきことは、ウル・ヤークス軍を沙海から駆逐する。それだけだ」
「シアタカ……」
「招かれざる客に出て行ってもらう。それも、出来るだけ血を流さずに。アシャンの言ったとおりだ。兵たちを、早く家族に会わせてやろう。そのために、皆の、アシャンの知恵を借りるよ。俺のできることは限られている。皆の力がなければ、俺は何もできないんだ」
アシャンの肩に手を置く。アシャンはその手に己の手を重ねると、真剣な表情で頷いた。
「私も、もっと強くなる。そして、シアタカの役に立てるように頑張るよ」
「俺も負けないように気を付けないとな」
そう言った後、二人は笑い合った。
食事を終え、くつろいでいたキシュガナンたちが、驚きの叫びをあげ、騒ぎ始めた。
シアタカやカナムーンの前にある砂原が蠢き始めたのだ。何事かと槍を構える戦士たちを手で制したカナムーンは地表を見つめる。
うねる砂は隆起し、連なる形を描き始めた。
「これは……、文字ですか?」
サリカは、胸元の守り石を握りながら微かに上擦った声で問う。
「そうだ。これが、砂文だ」
答えるカナムーンの前で、砂は文章を完成させた。
「カラデア文字ですね。カナムーンは読めるのですか?」
「読める。サリカは読めないのかね?」
カナムーンはサリカを見た。サリカは頭を振る。
「残念ながら、カラデア文字は読めません」
「それは意外だ。サリカなら読めると思っていたが」
「買いかぶりすぎですよ」
サリカは苦笑する。カナムーンは喉を鳴らすと、砂文に視線を戻した。
「今、ウル・ヤークス軍の一部がデソエから北上している。北のルェキア族を襲うつもりだ。そして、それを救うために南から、ルェキア騎兵が向かっている。彼らを助けるために、東へ向かってほしいということだ」
「早速、我らの力を示す時だな!」
「叔父貴、一人で決めないでくれ」
叫ぶエイセンに、ウァンデが顔をしかめる。
「どうやって返事をするのですか?」
砂文を見つめていたサリカが、カナムーンに顔を向けた。
「ここで砂に文字を書く。その軌跡を聞き取って文字を読み取るそうだ。ただ、文字を読み取ることは難しいらしい。そのため、何度か同じ文章を書く必要がある」
「ああ、子供の時に背中に文字を書いて、何を書いたのか当て合いをしました。そんな感じなんでしょうね」
「それは面白い遊びだな。残念ながら経験したことはない」
微笑むサリカに、カナムーンが答えた。
腕組みし、難しい顔をしていたエンティノが口を開く。
「ここから遠いの?」
「遠い。しかし、我々が援軍に向かえば、彼らは戦場を西へ導くつもりのようだ。デソエから逃れた時ほど歩くことはないだろう」
「おびき寄せて挟撃しようってわけか……」
「守り手が戦場まで導いてくれる。決して道を失うことはない」
「心強いな」
カナムーンの答えに、ハサラトは笑みを浮かべる。
「東へ向かうべきか。皆の意見を聞きたいんだ」
シアタカは振り返った。そこには、主だった一族の戦士長たちが集まっている。砂文の騒ぎを聞きつけたのだろう。
「
「待ってくれ! 俺たちは全知全能じゃない。キシュガナンの全てを知っているわけじゃないんだ。俺たちだけで全てを決めてしまえば、誤った道を歩くことになる。俺たちには、キシュガナンの助けがいる。皆の知恵が必要なんだ」
彼らが自分たちを聖者扱いすることはまだ我慢できる。しかし、それによって考えることを放棄されてしまえば、限られた知見しか持たない自分たちが、異なる考えや風習を持った者たちを無知のままに指揮することになってしまうだろう。それはあまりに無謀な賭けだった。
「こ、光栄だ。ワ、我らも、槍と、チ、智によって、ア、
「そうだ。我らはキシュと同じく、一つの槍となることを決めた。我らの言葉が助けになるならば、幾らでも知恵を出そう」
ジヤが頷き、他の戦士長たちも次々に同意の声を発した。
「戦士たちは、功に飢えている。このまま、当てもないまま沙海を進むよりも、間近に戦が待っていると知って進む方が良い」
エイセンの言葉に、戦士長たちは頷いた。
「強行軍になる。戦士たちは耐えられるかな」
「耐えるさ。その為に準備してきたんだからな」
ウァンデが真剣な表情で言う。食料、塩、水。疲労を忘れ気付けとなるトハの葉。栄養に富んだキシュの蜜。
「……分かった。援軍へ向かおう」
皆を見回したシアタカの言葉に、戦士たちは一斉に雄叫びを上げる。
「東へ」
シアタカは、暗闇に沈む白い砂丘の向こうを見た。
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