第28話

 赤き砂漠は、ウル・ヤークス王国南西部にある広大な砂漠だ。


 砂礫に覆われ、巨岩奇岩が点在するこの乾いた大地は、赤い。砂も、岩も、石竹色ピンクから黒ずんだ紅色まで、濃淡の違いはあれど赤い色を帯びているのだった。それは雲一つない青い空と対照的で、地平線で鮮やかに色分けされたこの土地は、初めて訪れた者の目をひどく刺激する。


 この赤い大地の中で、赤褐色の線が引かれているように見える。それは、長い間人々や隊商が行き来した道だ。


 その道を、駱駝に乗った一行が進んでいる。


 武装した兵士たち。駱駝を操るカッラハ族やカザラ人が身に着けているのはウル・ヤークス軍の戎衣だ。彼らは二騎の駱駝に乗る者たちを守っている。一騎の駱駝には大柄な軍人と小柄な人物が相乗りしていた。砂漠を行くための長衣の下からのぞく顔や未成熟な体躯は少年のものだ。その右隣で駱駝を操るのは、その装束から見て女だろうと察せられた。長衣をまとい、被衣ベールによって頭と顔を覆い隠しているからだ。それは、カッラハ族やカザド人の中でも保守的な一族の女性の装束だった。


 ザファキルは、自分の前に座る少年を見る。彼は、出発からここまで、飽きることなく周囲を見回している。その横顔には隠し切れない好奇心の色があった。


「何か珍しい物はありましたか、アーシュニ様」


 ザファキルの問いかけに、少年、アーシュニは振り返り笑みを浮かべる。


「赤き砂漠に来るのは初めてだからね。古い記憶の中には刻まれている風景だけど、直に見るとやっぱり新鮮な気分だ」

「そうですか。何しろ殺風景な土地です。我々にはもう見飽きた風景ですから、喜んでいただけるとは思いませんでした」


 ザファキルは、その厳めしい表情を緩める。


「そんなことはないよ。見渡す限りの赤い大地。珍しい形をした岩々。アタミラでは見ることのできない美しい風景だね」


 アーシュニの弾んだ答えに偽りは見えない。己の主の年相応な反応は、ザファキルにとって心和むと共に悩みの種でもある。アーシュニを偉大なる聖女王の後継者として扱うべきなのか、聡明で闊達な少年として扱うべきなのか、葛藤してしまうのだ。

 

 父親でもあるザファキルは、息子と同年代であるアーシュニが血塗られた道を歩むことに躊躇いを覚える。本来ならば成人を迎えてもいない少年は、父親や師について学び、善き友を得るべきなのだ。アーシュニがただの少年ではないことは理解しているが、ザファキルにはそんな思いが消えない。しかし、アーシュニがその才を以て難事に臨んでいるのだから、ザファキルは主を助け、共に歩むしかない。


 やがて一行は、道の半ばで駱駝を止めた。


「あれが『星を見る巫女』です」


 カッラハ族の兵士が、道の先にある巨大な赤褐色の岩を指差した。それは、都市の城壁よりも高く長い、一つの山のようだった。


「ここからだとよく見えないね」


 アーシュニは目を眇めた。


「はい。『星を見る巫女』は岩の頂に刻まれています。残念ながら地上からは見ることはできません」


 ザファキルは頷いた。この岩の真の姿を見ることができるのは、翼をもつ者だけだ。古来より翼人族や大鳥乗りに知られてきた巨岩だが、ザファキル自身もこの岩を上から見たことはない。


「そうかぁ……」


 アーシュニは巨岩を眺めた後、ザファキルを顧みた。


「ちょっと上から見てみよう」

「上から? どうやって見るのですか?」


 ザファキルは微かに眉根を寄せた。この周囲にはこの巨岩よりも高い岩はない。空から見るのだとしても、そこまで飛び上がるための大鳥はここにはいない。


「浮かぶんだ」

「浮かぶ?」


 その答えに目を見開く。


「魔術……ですか?」

「その通り。ちょっと空へね」


 アーシュニは微笑むと天を指差した。


 己の主はそこまで力を持っているのか。ザファキルは驚きを覚える。一方で、初めて出会った時にみせた力を思い出し、主ならば不思議ではないと思い直した。


 アーシュニは悪戯っぽい表情でザファキルを見る。


「一緒に上がってみる? ザファキル一人なら大丈夫だよ。それとも怖いかな?」


 ザファキルは、隣で駱駝を操る者に顔を向けた。


「イーラナ、いいのか?」


 被衣ベールからのぞく目が細められる。イーラナと呼ばれた女は小さく頷いた。


「アーシュニ様をお守りください」


 ザファキルは、アーシュニと共にいるこの女の顔を見たことがない。被衣ベールの隙間から見える肌の色は日に焼けていないのか薄く、少なくともカッラハ族ではないだろう。茶色の瞳は力強く光り、言葉少なだが知性を感じさせる。その声は落ち着いているが張りもあり、年齢を推測することはできなかった。アタミラで紹介された時にはほとんど会話を交わしていなかったが、ここまでの旅路である程度話をするようになった。最初はアーシュニの使用人かと思ったが、彼の世話だけではなく、相談役もこなしているらしい。アーシュニから名を紹介された以外には彼女について特に説明はなく、当然のように彼に侍るイーラナの存在は、ザファキルを戸惑わせていた。


 イーラナは短く答えただけでそれ以上何も言わない。自分が空中で何程にも役に立つとは思わなかったが、そんな弱気なことを言う必要はない。


「お供しましょう」


 ザファキルの答えに、アーシュニは笑顔で頷いた。 


 ザファキルは駱駝から降りると、アーシュニを手助けをした。


 地上に降り立ったアーシュニは、目を閉じると小声で何かを呟き始めた。空気が変わった。それは、戦場で魔術を使う魔術師たちの周りにある気配とよく似ている。やがて、アーシュニは口を閉じると、笑みと共にザファキルを見上げた。左手を差し出す。ザファキルは屈むように腰を低くしてその手を取った。


「舞い上がれ」


 アーシュニの言葉と共に、二人は浮き上がる。


 突然襲い掛かる浮遊感に、思わず声が漏れそうになるが、ぐっと堪えた。足下から兵士たちの驚きの声が聞こえるが、すぐに遠ざかっていく。


 あっという間に地上の人々や駱駝は点のように小さくなった。


 ザファキルも、空を飛ぶことは体験したことがある。それは、大鳥に相乗りしたことだったが、固い鞍に座り、激しく羽ばたく翼を見ることで空を飛ぶ心構えができた。しかし、この魔術は違う。


 音も肉体の躍動なく、不意に誰かに持ち上げられたようにあっという間に空にいる。しかも、足元に何もないのだ。恐怖が肉体を支配しようとするが、ザファキルはそれに抗い、平静を装った。


 やがて上昇が終わった。


 右手を繋いだまま、二人は空中に浮かんでいる。激しい風が吹くが、木の葉や羽毛のように飛ばされることはない。


 眼下を見下ろしたザファキルは、驚き、目を見張った。


 巨岩の上に、まるで仮面のように人の顔だけが彫り込まれている。その巨大さを忘れてしまうほどに整った美しい造作で、まるで生きているようだ。その顔は穏やかで柔らかな印象を与える。巫女の名で呼ばれることが納得できた。しかし、その顔立ちは、ウルスやカッラハといったウル・ヤークスの民、黒い人々ザダワーヒ、北の蛮族たち、西方諸国の人々、東方の人々といった、ザファキルが見たことのある様々な民とも異なっている。その為、本当に女なのか確信は持てなかった。


 どこかで見たことがある。じっと彫像を見つめていたザファキルは、類似した印象の顔立ちを思い出した。それは偉大な獣、『智慧の使徒』の顔だ。


「ザファキル」


 アーシュニの呼びかけで、ザファキルは我に返った。己の主に顔を向ける。


 ザファキルを見上げた少年は、微笑むと言った。


「こんな所まで付き合せてごめんね。だけど、ザファキルにはここですることを見ていてほしいと思ったんだ」

「光栄です」


 ザファキルは小さく一礼する。アーシュニは頷くと眼下の巨大な彫像を見やった。


「美しい彫像だね」

「はい。話に聞く以上の物で、驚きました」

「これは、何のために作られたんだと思う?」

「……碑、でしょうか」


 この巨大な彫刻は、作り手の存在を誇示するためとしか思えない。しかし、それならばなぜ空からしか見えないのかという疑問も起きる。


「半分は正解だね。これは、功績を知らしめるための碑であり、道標でもあるんだ」

「道標……。空を飛ぶ者のための道標ですか?」


 ザファキルの問いに、アーシュニは頭を振る。


「導く相手は、人ではないんだよ」

「人ではない?」

「……ここだと落ち着かないよね。降りようか」


 アーシュニが言った。すぐに二人の体は降下を始め、巨大な彫像の上に降り立った。 


 ここに立って視線を巡らせてみても、滑らか表面といくつもの起伏が見て取れるだけだ。上空から見たから形を理解しているが、何の知識もなければここが巨大な顔の彫像の上だとは分からないだろう。


 ザファキルは、歩き出したアーシュニの後を続く。そして、眉間のある辺りで立ち止まった。


 アーシュニはザファキルを見上げておもむろに口を開いた。


「無明のの頃、群雄は割拠し、エルアエル帝国やイールム王国の影響は大きかった。そんな中で、新興勢力にすぎなかったウル・ヤークスが建国できたのはなぜだと思う?」

「大いなる徳と慈悲に満ちた聖女王の導きのおかげです」


 ザファキルは見上げる碧い瞳をみつめ、静かに答える。その答えに、アーシュニは笑みを浮かべた。


「君の信仰心は疑わないよ。だけど、軍人である君は、もっと違う答えを持っているんじゃないかな?」

「……武の力です。ウル・ヤークス軍は時に苦戦もしましたが、その圧倒的な武力で諸勢力を平らげることができました」


 アーシュニは笑顔で頷くと言う。


「小さな勢力だったウル・ヤークスだけど、彼女たちには他にはない力があった。『伝道の守護者』ムーアドをはじめとするシアート商人たちの財力、死をも厭わない聖戦士アータカたちと軍団。そして、何より大いなる使徒たちの力だ」      

 ザファキルは小さく頷いて同意を示した。


「当時、無知な市民兵や農民兵を無理やり駆り出していたウルス諸王国の軍は、確かにウル・ヤークスよりも多くの兵を動員できた。数は力だ。だけど、一部の精鋭や大国を除けば、寄せ集めの兵たちの士気は低かった。そんな軍隊は、大軍だからこそ、何かの切っ掛けで簡単に統率を失い、崩壊してしまう。ウル・ヤークス軍は、使徒の力でそれを実現した。超常の存在であり、一柱で何十、何百の兵に匹敵する力を持った使徒が現れれば、士気を挫き、数の不利を覆せたんだよ」


 ウルスの人々は精霊や妖魔に対して過剰な恐れを抱いている。それがザファキルの個人的な印象だ。そんな人々の前で恐ろしい精霊が牙をむけば、立ち向かう勇気を持つことは難しかっただろう。


「この地はかつて巨人たちの帝国の中心だったんだ。赤き砂漠には雨水が流れ込んで大きな河になる、『運河』と呼ばれている広い涸れ川があるだろう? あれは、本当に運河だったんだよ。巨人たちがこの地に張り巡らせた運河。残念なことに、アタミラの近郊と違って砂に埋まってしまった運河が多いんだけどね」


 アーシュニは広がる赤い大地に視線を向けた。


「空に輝く星々は、この大地と繋がり、その上に在る全てのものに影響を与えている。そして、大地の下には大きな力が流れ、様々な命や精霊に力を与えている。だから、巨人族は天の星々から理の動きを読み取り、大地の力を導き、汲み出すすべ編み出した。天と地より力を導き、蓄える。それが、この岩なんだ」

「これは、巨人王の遺産なのですか?」

「そうだよ。巨人族が造り、聖王国が受け継いだ。そして、聖女王の力の源にもなったんだ」

「聖女王陛下の!?」


 ザファキルは目を見開き、岩肌を見た。


「聖女王は、大いなる力を得て、使徒たちを従わせた。その大いなる力を得るために訪れたのが、各地にある古代の遺産だったんだ」

「ここに聖女王陛下が訪れた……」


 聖典や教典の中に聖女王が赤き砂漠を訪れる説話は幾つもある。しかし、古代の遺跡を訪れたという記述はない。当然ではあるが、時に埋もれてしまった重要な事実は幾つもあるのだと実感させられた。


「この彫像は、天を見上げ星々の力を招き、臥した体の下から大地の力を導いている。それは、とてつもない力なんだ」

「なるほど、まさしく『星を見る巫女』ですね」

「そうだね。上手く名付けたものだよね。あるいは、この遺跡の真実を知っている人間が名付けたのかもしれないな」


 アーシュニは笑顔を消すと、真剣な表情でザファキルを見た。ザファキルも姿勢を正してその視線を受け止める。


「僕が次代の聖王として名乗り出たとして、教会も元老院も認めないだろう。だけど、大勢の民衆が認めれば彼らも僕を無視できなくなる。然るべき場所で僕の力を見せることで、後継者としての資格を証明できるだろう。その為に僕は、全ての使徒を支配下に置くつもりだ。それによって僕が聖女王の後継者として人々を納得させることができる」

「今のアーシュニ様の御力でも、十分に資格はあると思いますが……」

「こんなものでは足りないよ。親切な『背教者』のおかげで、僕はすべての力を取り戻せていない。他の遺産も訪れて、聖王に相応しい力を得ないといけないんだ」

「他にも巡る遺跡があるのですか?」

「ウル・ヤークスのあちこちにね」


 アーシュニは頷くと溜息をついた。


「これは巡礼だよ。過去の亡霊を慰めるための巡礼なんだ。彼女はずっと、怨嗟の呟きを僕の耳元で囁いている。本当にうんざりするよ」

「アーシュニ様……」

「こんな話はどうでもいいや。しなければならないことは出来るだけ早く終わらせる。父さんに教わったことだ。早く仕事を終わらせてのんびりしよう」


 大きく伸びをした後、アーシュニは膝をついて屈みこんだ。そして、岩肌に手を触れる。


「まずは巫女に目を覚ましてもらわないとね」


 そう言った後、目を閉じて何かを唱え始めた。長い詠唱の後、顔を上げる。次の瞬間、足下が、そして空気が震えた。


 警戒して辺りを見回すザファキルに、立ち上がったアーシュニは微笑んでみせた。


「大丈夫。さあ、次は目覚めの口づけをして、天と地の息吹を奪うとしようか」


 ザファキルは、その言葉に眉をひそめた。


「アーシュニ様。スハイラの物言いを真似してはいけません。品格を問われますぞ」

「とても貴族らしくて憧れるけどなぁ」

「あれを貴族と呼ぶべきではありません」


 頭を振るザファキルを見て、アーシュニは苦笑した。


 歩き出した二人は、目や鼻の隆起を避けながら、唇の部分に立った。


「ここで力を得るのですか……」

「うん。ここで、岩の中に蓄えられた力を引き出す。……ザファキル、これから凄まじい力の奔流が僕に流れ込む。もしかすると、僕は耐えられないかもしれない。その時にはもう謝ることは出来ないから、先に言っておくよ。もしもの時には、亡骸を父さんの所まで運んでほしい」


 見つめる少年の碧い瞳に見える揺らぎ。ザファキルは息を呑み込み、そしてアーシュニの肩に手を置いた。


「カデム殿は御子息を信じておいでだ。そしてあなたは決して信頼を裏切らないでしょう。私が保証します」


 アーシュニは目を瞬かせ、そして口元を緩めた。


「ああ、勇猛なる将軍閣下に保証してもらえるなんて心強いな」


 ザファキルは深く頷く。アーシュニも頷くと、視線を鋭くした。 


「よし……、始めよう」


 そして大きな声で聖句を唱え始めた。 




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