第15話

 それは、大きな木だった。   

         

 見上げるばかりのその大木は、豊かに葉を茂らせて、地上に影を作り出している。時折吹く風が枝葉を揺らし、爽やかな音を奏でていた。


 ユハの“目”と、シェリウの掌で回る枝は、村はずれにあるこの大木まで一行を導いた。


「この木は、祝福の木と呼ばれている」


 微かに眉根を寄せたダリュワが言った。背後からの言葉に、シェリウが木を見上げた後、振り返る。


「祝福……。何か由来があるんですか?」

「昔、この地に移り住んだ時、アシュギ様が植えた木だ。名前の由来は……、詳しくは知らないな。皆がそう呼んでいたから、何の疑問もなく俺もその名で呼んできた」


 ユハは、辺りを見回し、そして再び大木に目をやった。漂う呪詛の力は、ゆっくりと、しかし、確実にこの木に集まっている。それにも関わらずこの周辺に強烈な呪いの力を感じないのは、集った呪いが留まる間もなく吸収されているからだ。


「シェリウ。確かにここに呪詛の力が集まってきてるよ。この木の中に吸い込まれてる……」


 木を見上げる。そこからは、決して際立った呪いの力は感じない。しかし、ユハは、この木に溜め込まれた禍々しい力を想像して身震いした。木の持つ生命の力が悲鳴をあげている。一見すると、なんら病んでいない美しく豊かな木だったが、現世うつしよの身としてはありえないほどの呪いが注ぎ込まれて、それが内側から木を蝕んでいることが感じられた。


「そうか……。ここが呪詛の中心……」

「どうする?」


 ユハの問いにシェリウは答えない。指を宙で踊らせながら、何かを考えているようだったが、やがてユハに顔を向けると口を開いた。


「流れを絶とう。この木を、法陣から切り離すんだ」

「切り離す? どうやって?」

「法陣には法陣よ。私がこの木の周りに法陣を描いて、囲い込むの。それで、外から来る呪詛を全て跳ね返すんだ」

「高度な術式が施されているんだよね? 大丈夫?」

「確かに高度な術式だけど、隠匿と吸収に力を特化させているから、切り離すことはできると……思う」


 シェリウの顔に浮かんだ微かな弱気を見て、ユハはその手に触れた。


「シェリウ。私が呪いの力を観れば、役に立つかな?」


 シェリウはその言葉に顔を輝かせた。


「もちろん! 私は、呪詛の流れが見えないもの。だから、流れを一々調べないといけない。教えてくれたらすごく助かるわ」

「よし。やろう!」 


 ユハは笑顔で頷くと、大木とその周囲に目を向けた。


 やっとシェリウを助けることができる。これまで、彼女に助けられてばかりで、ユハは負い目を感じていた。だから、今彼女を助けることができて喜びを感じる。ユハは強く拳を握ると、世界を感じる力を、少し強めた。


 呪いの力は、まるで血管のように幾つにも枝分かれして地を這っていた。不気味に脈動しながら、村のあちこちからこの大木を目指して集まっている。


 意識を凝らして呪いの力が導かれている痕を追っていると、シェリウが高度な術だと評したことがよく理解できた。無秩序に漂っている呪詛の力を集め、勘や感覚に優れた者にも不自然に感じさせないように隠しながらも、実に効率的に一つの方向へと流し込んでいる。それは、水漏れに注意して丈夫な管をつくり、流れを良くするように傾斜を計算して設置された、優れた水道を連想させるものだ。術者は、念入りに、繊細に呪詛と法陣の術式を編んだに違いない。


 歩き回り、指差しながら流れを教えるユハ。それに頷きながら、シェリウは地面を少し傷つけて目印をつけて回る。そして、それを終えた後、ユハを振り返る。


「ありがとうユハ。これで、術式の構成が分かった。これから、私も法陣を敷くわね」


 シェリウはそう言うと、屈みこんで小石を拾い始めた。そして、十個ほど集めると、それを両手に乗せて目を閉じる。ゆっくりと、歌うように聖句を唱え始めた。ユハの目には、その手に力が集まっていく様が見て取れる。


 顔を上げたシェリウは、大木の周りを歩き始めた。


「此処と、此処……。あと、こっちにも……」


 呟きながら、目印をつけた地面に小石を落としていく。そして、大木を取り囲むようにして石を配置し終えた。


「さあ……、ここからが本番……」


 シェリウは大きく息を吸い込むと、大木を前にして両手を合わせた。目を閉じると、朗々と聖句を唱え始める。その見事な声は、礼拝の時を告げる呼びかけのように、村に響いた。


 地面に置かれた石が淡い光を発し、そして、石と石との間に光の線が生まれる。それは、大木をまるで美しく編まれた籠のように取り囲んだ。


 魔術を感じる力のない常人でも見て取れるその光に、カドラヒとダリュワ、そして通りがかった村人たちが驚きの声を上げる。


 シェリウの敷いた法陣は、強い力を持って大木とその周辺の土地を取り囲んだ。集まってくる呪詛の力は、その法陣に阻まれて細かく熱い粒子となって宙に舞い散る。そのひりつくような力は、肌を焼くように熱い。 


 まるで空間が軋んでいるように感じる。シェリウの術法が呪詛を圧倒しているのだ。ユハは、息を呑み、無意識に両手を胸元で強く握った。


 次の瞬間、大きな力がユハの魂を叩いた。木の方向から凄まじい圧迫感が押し寄せてくる。


「気をつけてシェリウ! 何かが来る!」


 ユハを叫びを聞いて、シェリウは目を開いた。


 気づけば、大木の前に長衣を着た人影が佇んでいる。


 それが現れた瞬間を、ユハは認識できなかった。


 小柄で、男なのか女なのか、大人なのか子供なのかも分からない。頭巾フードのついた褐色の長衣は、修道士の僧衣にも似ている。うつむき、長い黒髪のせいで顔は見えない。午後の日差しに照らされているはずが、なぜかその周辺は薄暗く、冷えているように感じた。


 シェリウの額から、汗が伝う。その表情が、緊張に固くなった。


 あれは、恐ろしい存在ものだ。


 その体から放たれる力は、肉体を、魂を圧倒し、息苦しさを感じさせる。この呪詛を守護するために置かれていたのか。それとも呪詛そのものが形となったのか。ユハには判断できなかったが、恐ろしい力をもった妖魔であることは分かる。


 そしてそれは、顔を上げた。


 長い黒髪がひるがえる。


 その髪の下に、顔は無かった。


 顔があるべき場所にぽっかりと開いた虚空は、まるで闇夜のように暗い。そして、そこに、無数の目があった。虚空を埋め尽くした目は血走り、忙しなく動く。いくつもの目と視線が交わる。その瞬間、ユハの体は竦んだ。恐怖が、まるで形を持っているかのように襲ってくる。それは、まさに暴力だ。うめくように何とか息を吸い込んだ。倒れてしまいそうな恐怖と戦いながら、目を逸らす。


 背後では、カドラヒや村人たちの恐慌の叫びが聞こえた。


 ゆらり、と、まるで今にも倒れそうな覚束ない足取りで黒髪の妖魔は歩き出す。


 次の瞬間、それはシェリウの目の前にいた。


 大木まで距離はあったはずだった。それにもかかわらず突然目の前に現れた黒髪の妖魔に、シェリウは絶叫する。


 ラハトが跳んだ。


 横合いから、ぶつかるようにシェリウを抱えると、そのまま転がる。その空間を、妖魔の手が通り過ぎた。


「ラ、ラハトさん……! た、助かりましたっ!」


 目に涙を滲ませたシェリウが、喘ぐように言った。恐怖からか、呼吸が浅く、不規則になっている。


「大きく息を吐き出して、ゆっくりと息を吸い込め。心を強く持つんだ」


 ラハトはそう言うとシェリウを立たせる。シェリウは頷くと自らの頬を強く叩いた。


 ユハは、シェリウの無事に安堵すると、自らを奮い立たせた。自分までここで竦んでしまっては、足手まといになる。シェリウを助けると決意したばかりのはずだ。強い意志とともに、黒髪の妖魔を睨み付けた。


 ユハの目は、そこに恐怖以外のものを見出した。妖魔の中から、無数の怨嗟を感じる。それは、ナタヴの別荘で戦った妖魔と同じものだ。死してなお、囚われ、恐怖と憎悪と苦痛を薪としてその身を炎で焼いている。囚われた無数の魂は、苛まれ、傷ついていた。


 しばらく立ち尽くしていた妖魔は、再びその体を揺らした。しかし、すぐには近寄ってこない。ただその無数の目を動かし、周囲を睥睨している。


 ラハトが、その前に立つ。


 右手を上げると、その手甲が伸びて、鈍い光を放つ刃となった。


 ラハトの幽体が揺らめく。そこに重なるようにして、陽炎のように揺らめく獣のような影が現れた。禍々しい虎の瞳の力だ。


「ラハトさん、ダメ!!」


 直感が鳴らした警鐘が、口を衝いて飛び出した。その叫びを聞いてラハトが振り返る。


「その力を使ってはダメ! あの呪いに取り込まれてしまう!!」


 ユハを見るその目が見開かれる。そこに宿った金色の光が弱まり、消えた。


「私が、あの妖魔を、“癒し”ます!」

「何言ってるの?!」 


 シェリウが、悲鳴にも似た声で問う。


「あの別荘の時みたいに、妖魔を解き放つんだ! だから、力を貸して! あの妖魔を釘付けにして!」


 癒しの力を送り込むためには、相手に触れなければならない。あの妖魔に近付くことは恐ろしいが、やるしかなかった。シェリウは、怒りの表情で叫ぶ。


「馬鹿っ! あんた、あの時は死に掛けたじゃないの! また同じことをするって言うの?!」

「同じじゃないわぁ」 


 月瞳の君が、言いながらラハトの横に立った。その手には、爪のような刀身を備えた長柄の鎌がある。


「今は私があなたたちを守る。それに、ラハト、あんたもね」


 ラハトは、その言葉に頷いた。


「それに、シェリウ。あんたも子供みたいに怖がってないで、できることがあるでしょ? あれは、呪いを集め、練り上げて形にした化け物。だとしたら、あんたの術法も通じるんじゃないの?」


 月瞳の君は、笑みを浮かべてシェリウを見る。シェリウは、目を見開くと、妖魔を見て、そしてユハに顔を向けた。その表情から恐怖は消え、決意の色に満ちていた。


「分かった。ユハ、あたしがあの妖魔に解呪の術法をぶつける。そうすれば、きっと奴はその力に縛られて動けなくなるはず。だから、あんたは“癒し”て」

「ありがとう」


 月瞳の君は、そんな二人を見て微笑むとラハトを一瞥して言う。


「さあ、ラハト。私たちはあの化け物を二人に近づけない。それだけの簡単なお仕事よ。無様に踊ることは許されないわ」  

「俺が切り刻めばそれで終わる話だ」


 ラハトは静かに答えた。


「無理です。あの妖魔は湧き出る泉みたいなもの。いくら斬っても、霧散してしまうだけなんです。呪いの根本を絶たないと、あの妖魔は消えない!」


 ユハは、頭を振った。ラハトは無言のままユハを見ていたが、小さく頷く。傍らの月瞳の君が笑みを浮かべたまま娘たちを見た後、ラハトに言う。


「この仕事は、ユハとシェリウの領分なのよ。あんたは出しゃばらずに、本職に任せなさい」

「ああ、そうだな」

「それとラハト、あいつに触れられないように気をつけるのねぇ。あんたは、呪いと親和しやすくなってるわ。あいつに囚われると、あっという間に持っていかれるわよ」


 月瞳の君は、そう付け加えると口元を歪めた。そして、振り返る。彼女の眼前に、妖魔が迫っていた。


「なんで私なのよ。あっちを襲いなさいよ」 


 月瞳の君は、舌打ちをしながら鎌を振るった。妖魔の伸ばした手を払う。横合いからラハトが跳び込んだ。振りおろされた刃はその右腕を斬りとばす。宙にとんだ腕は、風に吹かれた煙のようにすぐに消え去るが、その時にはすでに、妖魔の右腕は元に戻っていた。やはり、溜め込まれた呪詛の力が、あの妖魔を支えている。どんなに腕が立つ騎士や戦士であろうと、ずっと戦い続けることはできない。あの妖魔の糧となる呪いが尽きる前に、こちらが力尽きてしまうだろう。


 シェリウは妖魔を睨み付けると、再び高らかに、聖句を唱え始めた。そして、合わせていた手を話すと、印を結びながら妖魔へと向ける。


 再び、空間が軋んだ。


 シェリウの術法は、妖魔へと襲い掛かる。解呪の力は、鎖となって、妖魔の体を縛り付けていく。


 ユハも、聖句を唱え始めた。シェリウの堂々とした豊かな響きとは対照的に、穏やかでゆったりとした、そしてどこか哀愁を帯びた韻律で、まるで子守唄のようにも聞こえる。それは、死者を宥め、慰める鎮魂の聖句だ。


 呪いは生命の本質の一側面。シェリウの言っていたことが今は理解できる。


 呪いは、病であり、そして、生命の終わりの一つの形なのだ。産まれたばかりの赤子が泣くように、自分はここにいた、と訴えるために、死後もなお叫び続けている。だから、認めてあげなければならない。彼らが確かに生きていたということを。すでに彼らの自我は呪いの中に溶け込み、個は無くなっている。今ここにあるのは、純粋で強烈な想いだけだ。その想いを、力をもってただ打ち砕くのも手段の一つだろう。魔を祓うというのは、そういうことなのだから。


 しかし、ユハは癒し手、命を育む者だ。 


 どんな人生であったにしろ、死者だからといってそれを力尽くで断ち切ることはできない。そこに物語があったことを受け入れ、共に嘆く。そして、死を納得させる。そうすることで、きっとその先には、安息の光が待っているはずだ。


 ユハの唱える鎮魂の聖句は、力となってシェリウの敷いた法陣へと伝わっていく。ユハの力は、妖魔へと送り込まれる呪詛の脈動と混ざり合った。それは、呪いの冷え切った熱を温め、穏やかに変化させていく。


 欠片の力に助けられた時には分からなかった、無数の魂の囁きや呪いの脈動。己の術法の力の流れ。それらを感じ取り、自らの意思によって織り成していく。それは、ユハにとって己の力に余る技だったが、ここで諦めることはできない。自分の全てをもって、成し遂げる。


 ユハとシェリウの聖句は、やがて一つとなる。二人の美しい声は、何重もの音を織り成す一つの聖歌となってこの場に響いた。


 術法から逃れようとしているのか、妖魔の動きが激しさを増した。それは、まるで苦痛を叫び暴れまわっているようにも見える。その攻撃を、ラハトと月瞳の君がことごとく阻んだ。弾き飛ばされ、切り落とされても、なおも妖魔は向かってくる。憎悪と、救いを求めている。ユハはそう感じた。


 聖句を歌い上げながら、一歩一歩、ユハは妖魔へと近づいていく。


 シェリウとユハの歌によって、妖魔の動きは鈍り、弱々しくなった。


 ラハトと月瞳の君が、道を開けた。そこに立つユハは、最後の一歩を踏み出して、妖魔の前に立った。


 妖魔が、のろのろと手を伸ばす。ユハの肩に触れた。


 ぞっとするほど冷たい手。魂を直接握られたような異様な感覚が襲う。ユハは、それに耐えながら、その手にそっと触れた。


 妖魔と自分の間に、癒しの力をめぐらせる。泡立つ冷たいと力と、己の力が循環する。


 ユハは、そっと妖魔の肩を抱いた。妖魔は、それを拒まない。妖魔からは、死の匂いがした。修道院で、イラマール村で、最期に立会い、埋葬に参加した時に触れた、終わりの匂い。


 ユハの腕の中で、妖魔は徐々に形を失っていく。まるで焚き火が爆ぜて火の粉が舞うように、無数の青白い光の粒が、跳ね、舞った。


 そして、最期に小さな光を発して、妖魔は消えた。


「終わった……?」


 放心したような表情で、シェリウがたずねる。


「うん。終わった。死を、受け入れてくれたよ」


 ユハは頷いた。大きな倦怠感が彼女を地面に引きずり倒そうとするが、何とかそれに抗う。


 ふと、呼ばれたような気がして顔をめぐらせる。


 ユハの視線が、大木で止まった。


 何かに誘われるようにして、大木へと歩み寄る。


 木の幹に、大きなうろが空いていた。ユハは、無意識にそこへ手を入れる。何か、硬い物に触れた。それを握ると、ゆっくりと抜く。


 それは、古びた、しかし錆一つない剣だった。


「え……?」


 涙が頬を伝う。私は泣いている? なぜか流れ出した涙に狼狽した。







「癒し手よ……。これはあなたが持っておくべきでは……」


 アシュギが、手にした剣を見つめ、そして彼女を見た。


 彼女は頭を振った。


 自分にはこの剣は必要ない。アシュギが持っていてくれたほうが、きっと彼も喜ぶはずだ。


 彼女の答えに、アシュギは何も言わない。


 アシュギは、その剣を、恭しく掲げる。


 白刃が眩くきらめいて、彼女は目を眇めた。






 傍らに、月瞳の君が立った。


「ユハ……、あなたは本当に素敵なね……」


 顔を寄せた月瞳の君は、そう囁くとユハの頬を伝う涙を舐めとった。


「その剣はねぇ……」

「知っています。これは、祝福された剣。聖女王陛下の思い出の欠片……」


 ユハは、剣を見つめたまま頷いた。そして、月瞳の君を見る。


「忘れようとして、捨てようとして、それでも、心に深く突き刺さったまま抜くことができない、大切な想い……」


 月瞳の君は、その言葉に顔を歪めた。それは、泣き顔のように見えた。

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