第6話

 牙だらけの大きな口が、ウリクの目の前で大きな音をたてて閉じる。唸る風の叫びの中でも、その分厚い鉈のような顎が閉じる音ははっきりと聞こえた。まずは、一つの死から逃れた。そして、すぐに後を追ってくる次の死から逃れなければならない。


 その巨大な顎は、ウリクと騎鳥を追い、もう一度噛み付こうとする。そこへ、威嚇の矢が飛んだ。鼻面に矢を受けた化け物は、苦痛のためか頭を振った。その隙をついて、ウリクは大袈裟なほど大きく体を動かして大鳥を急降下させる。


 騎手が鞍上で大きく動くことで、大鳥はその意図を理解しやすくなる。そして、人の体は重たい。自分の体をおもりにすることで、いわばもう一つの翼のように大鳥の重心を崩し、導くのだ。それは、人を乗せていない大鳥には不可能な動きを可能にする。しかし、大鳥にとっては、自分の体に自分では操ることができないもう一つの軸が存在することになる。この違和感や恐怖心を解消し、いかにもう一つの擬似的な翼を得たことを理解させるのか。それが大鳥乗りの腕の見せ所だ。


 まるで落下するようにして降下していく大鳥の上を、化け物の巨大な頭が通り過ぎる。


 凶暴な光を宿した真っ赤な目が、ウリクを睨んだ。その巨大な頭部の高さは、自分の胸まであるほどだ。馬に似た形だったが、それはあくまで全体的な輪郭だけだ。馬と違い両目は正面を向いている。大きく裂けた口には短刀のような鋭い牙が並んでいた。おそらく、自分など噛み裂かれた後、一呑みされてしまうだろう。ウリクが知ることはないが、それはンランギの地に生息する赤斑竜や、北の草原に生息する暴王竜といった、二本の足で地を駆ける巨大な竜の頭によく似ている。


 その体は象よりも大きい。その全身は黒く、たてがみが生えている以外は鱗に覆われていた。細長い尾が鞭のようにしなり、巨体からはえた蝙蝠のものに似た一対の翼がはばたいた。そのたびに、その化け物の体から白い何かが中に舞い、消える。それは、その体から振り落とされた細かい霜だ。化け物の全身を覆う冷気がウリクの頬を撫でた。


 化け物は怖気をふるう甲高い金切り声をあげながら、己に群がる空兵たちを威嚇した。


 カラデア攻略のために築かれた沙海の中の砦。それは、いつしか、『軍営府ミスル』と呼ばれるようになっていた。次々と兵たちが集結し、完成に近付いていたこの城砦に、突如巨大な翼を持った化け物が襲い掛かってきた。当初は放浪する魔物の類と思われたが、『軍営府ミスル』に派遣されていた聖導教団の魔術師が術師によって使役された妖魔だと告げたのだ。


 いくら巨大な妖魔とはいえ、兵士が立てこもる砦を滅ぼすのは難しいだろう。カラデア軍が威力偵察のために送り込んだのではないかというのが軍の判断だった。この巨大な妖魔は砦に取り付き、思うままに破壊し、殺戮した。さすがにこれを座視するわけにはいかない。ウル・ヤークス軍は全力でこれに立ち向かい、そして空へと舞い上がった化け物を空兵で追った。


 指揮官の命令は単純だった。 


 時間を稼げ。  


 もちろん、空兵だけで仕留められるのならばそれが最善だ。しかし、魔術師たちはそれは難しいと言った。あの妖魔は強い力を持っている。たとえ聖別された武器であろうと、退散させるとなると大きな犠牲を払うことになる、と。


 空兵は、この妖魔を確実に仕留める武器を用意するまでの囮となることを命ぜられた。


 倒す必要はない。


 そうは言うものの、ただ逃げ回るだけでは再び砦に取り付かれてしまう。妖魔の注意と敵意をこちらに引き付けなければならない。その為には、結局のところ命懸けで戦うしかない。


 そして、空兵たちは『軍営府ミスル』の上空でこの化け物と死闘を繰り広げている。


 ウリクを助けた翼人空兵が再び矢を放った。それは鱗に覆われた首筋へとび、弾かれる。


 次の瞬間、上空から急降下した大鳥空兵が自分の身の丈の倍はある長柄の武器、ほこを繰り出した。


 ほこは東方で生まれた武器だ。


 この長柄の武器は、鎌やつるはしに似た穂先を備えている。しかし、柄から直角に取り付けられた穂は両刃であり、反対側には重量の均衡を保つためのおもりがついている。当時、戦場を駆け回っていた戦車チャリオットとともに用いられていた武器だったが、騎兵の普及により一時は衰えた。


 しかし、興隆してきた遊牧民の空兵や、竜公たちに仕える竜騎兵が空戦の武器として愛用することになり、発達、洗練され、やがて草原の道や砂漠の回廊を通って西へと伝わることになる。


 空戦において、槍や剣は有効な武器ではない。


 突く、という攻撃方法はいわば点の一撃を与える。互いが高速で接近する空戦において、敵に槍を突き刺すということは、自分も大きな反動を受けることになる。また、加速と体重によって大きく威力を増した槍は、敵に深く突き刺さり抜けなくなるという危険もあった。


 そして、何より、空戦で敵と接近することは、接触、激突という大きな危険をはらんでいる。理想は射撃武器によって戦うことだが、乱戦ともなればどうしても敵と接近することもある。また、確実な命中と威力を望むならば白兵は捨てられない選択肢だ。そのため、空戦における白兵武器には長さが求められることになる。凄まじい速さで飛び交い、一瞬の交差を繰り返す。それが空兵の白兵戦だ。


 空戦の理想は一撃離脱。より遠くから、鋭い一撃を叩き込む。ほこは、それらの条件を満たしている為に、大鳥を駆る空兵にとって主要な白兵武器となった。すれ違いざまにほこを伸ばし、あるいは振るうことで、敵を切り裂き、刺し、引っ掛ける。空兵の速度と体重が乗った一撃は、掠めるだけでも大きな傷になる。 


 激しい音とともに、刃が化け物の翼を切り裂いた。 


 僅かに遅れて、長い刀状の穂先をそなえた大刀を構えて、翼人空兵が飛び込む。勢いをのせながら大刀を振るい、下方から化け物の腹を切りつける。


 次々と傷を受けながらも、化け物は飛び続けた。


 再びおぞましい金切り声を上げながら、長い尾がしなる。それは離脱しようとしていた翼人空兵の肩を打ち、その姿勢を激しく崩した。


 落ちる。


 視界の端でその光景をとらえたウリクは、咄嗟に大鳥を転回させた。


 ぐるぐると渦を巻くように落下してくる翼人空兵を鞍上で受け止める。


 その衝撃に翼人は呻いた。 


「大丈夫か!」

「すまん……、助かった」


 翼人はウリクに言う。その顔は苦痛に歪んでいる。


「いけるか?」

「肩が動かない。翼は……やられていない」

「よし、飛べるな」


 言いながら、振り返る。


 化け物はこちらを追ってくる。舌打ちすると、大鳥を降下させる。ほこを鞍に預けながら投槍を抜いた。


 遠距離において弓矢は有効な武器だ。しかし、翼人空兵はともかく、大鳥を操る空兵は接近した乱戦において弓矢を有効に使うことはできない。


 全力で飛ぶ翼人や大鳥の速度は、地を駆ける馬や恐鳥の比ではない。しかも、空戦ともなれば前後左右だけではなく、上下にも飛ばなければならない。それも、単に直線的な動きではない。捻り、宙返り、裏返り、横滑りし、時に落下する。それは、いわば袋に詰め込まれて怪力の巨人に延々と振り回されるようなものだ。圧し掛かってくる見えざる重さや力が、人の肉体に恐ろしいまでに負担をかける。この接近して繰り広げられる激しく立体的な空中機動において、大鳥空兵が手綱を手放し、両手で弓を構え命中させることは困難だ。


 そこで乱戦になると使われるのが、投槍や石弾、投矢だ。それらの武器も、投射して使うことは少ない。空中に、“置く”、“撒く”ようにして使う。そして、交差する、あるいは後背から迫る敵に衝突させるのだ。


 しかしこれらの武器を多く携えることは、大鳥の荷をより増やすことになる。空戦において重いということは罪だ。そのため、空兵は常にどれだけ武器を携行するのか、頭を悩ませることになる。しかし、今繰り広げられている戦いは防衛戦だ。眼下には補給を受けることができる『軍営府ミスル』がある。恐ろしい敵を打ち払うために、持てる武器全てを用いればよい。


 当てずっぽうに放り投げても槍を無駄にするだけだ。下手をすれば仲間に当たる。ウリクは慎重に速度と距離を計りながら、そして化け物の進路上に投槍を“置いた”。


 化け物自身の速度と体重によって威力を増した投槍は、その体に深く突き刺さった。それを見届けることなく、ウリクは大鳥を螺旋を描くようにしながら急降下させた。


「今だ! 『軍営府ミスル』まで戻れ!」


 叫びながら水平飛行に移る。その動きを感じ取って、翼人は頷きながら大鳥から飛び降りた。大きく翼を広げ、飛び立つ。


 背後から、巨大な質量が迫ってくる。それを感じ取りながら、ウリクは大鳥の翼を傾けた。そして、その勢いを殺すことなく斜めに上昇する。そのまま、宙返りをしながら化け物の上方へと回り込んだ。


 宙で逆さになりながら顔を上げる。その巨体が見えた。最後の投槍を抜くと、その背中に投げる。落下した槍はその巨体に深く突き刺さった。


 大鳥空兵や翼人空兵が、化け物と距離を置きながら並んで飛ぶ。そして、遠間から次々と矢を浴びせかけていた。


 ウリクは大鳥を水平に戻しながら化け物の斜め上空を飛ぶ。


 なんてしぶといんだ。


 ウリクは唸る。あの化け物は、その体にいくつもの傷を受けているというのにいまだ弱る気配はない。彼ら空兵の武器は従軍僧によって聖別されているために、この妖魔に痛手を与えているはずだ。あとどれだけ攻撃すれば退けることができるのか。聖別された武器にも限りがある。すでに何人もの空兵があの妖魔の犠牲になった。


 これまでも、鷲獅子やルフ、空ノ蟲といった巨大な空の生き物と出くわした事はある。しかし、この妖魔はそれらとは全く違う異様な空気をまとっていた。この世の存在ではない。灼熱の地でありながら漂ってくる冷気が、そのことを強く感じさせる。何より、獣は群がる蜂の群れとまともに戦うことはない。無駄な痛みを避けて退散するものだ。どれだけ傷付けられようと盲目的に戦う敵は恐ろしい。

 

 妖魔はその巨体を緩慢に転じながら、長い首を伸ばして小賢しい射手たちを食らおうとする。もちろん、それに捕まる彼らではない。ウリクは、その伸びた首めがけて一気に急降下する。


 ほこの柄を脇にしっかりと挟みこみ、柄と体をつなぐ肩吊帯ストラップを確認する。たとえすれ違いざまに掠め切るだけとはいえ、ほこと持ち手にかかる反動は相当なものだ。油断していると体ごともっていかれることになる。衝撃に備えて、上体を伏せ、鞍をしっかりと挟み込み、鐙を踏みしめた。


 穂先が妖魔の首を切り裂いた。


 その時にはウリクと大鳥は妖魔のあぎとの届くところにはいない。


 ウリクは振り返り、見上げる。 


 傷は深いはずだが、痛みからか怒りからか、身をよじるだけで何ら弱った様子はない。


 そして、視界の端から飛び込んでくる影があった。


 妖魔の正面から、ほこを振りかざして突っ込む大鳥空兵だ。


「何やってる!」


 ウリクは思わず叫んだ。


 あの化け物の頭をほこで叩き割るつもりなのか。それはあまりに無謀というものだ。


 急降下している大鳥を止める。


 ウリクは瞬時にそう判断すると、鞍上で大きく身を乗り出しながら、ほこを放り出すようにして振るった。


 突然襲い掛かってきた騎手の体重移動、そして長柄武器の遠心力。大鳥は怒りをこめた大きな鳴き声をあげる。降下中のその体は右斜めに傾き、前方に一回転した。


 下へ放り出されないように堪えながら、ただ上空を意識する。


 大鳥の体が上を向いた。


 その瞬間、鐙で胴を蹴りつける。


 大鳥はそれに応えて大きく羽ばたいた。


 一気に上昇する。


 妖魔へと飛び込んだ大鳥空兵の一撃は、牙だらけの口によって阻まれた。


 くわえ込まれたほこはすぐに噛み砕かれる。その時に妖魔は頭を激しく振り、大鳥空兵はそれに引きずられて空中で踊った。


 再び口を開いた化け物は、姿勢の崩れた大鳥へと襲い掛かる。


 そこへウリクが飛び込んだ。


 姿勢の崩れた大鳥の脇を掠めながら、下からほこを振り上げる。鋭い刃が、大きく開いた上顎へと突き刺さる。


 肩にかかる激しい衝撃。


 咄嗟に手を離す。


 引き千切れた肩吊帯ストラップを残したまま、ほこは妖魔の口に置き去りになった。


 妖魔は金切り声を上げながらそれを噛み砕く。しかし、その穂先は上顎に突き刺さったままだろう。


 そのまま上昇しながら、ウリクは振り返る。姿勢を崩していた大鳥空兵も何とかその場から逃れていた。


「あれは……、イェナか!」


 その小柄な姿を見て誰なのか悟る。どうしてあんな無謀な真似をしたのか。イェナは蛮勇を誇るような人間ではないはずだ。むしろ臆病な性格だった。怒りと疑問を唸り声として吐き出した。肩が激しく痛み始める。


 次の瞬間、上空に光が生じた。


 それは青い光だ。それも、奇妙なことに形を伴っていた。まるで泡のような球状の光が次々に現れては消える。


 そして、光が消えた時、そこには翼を持った巨大な姿があった。


 鷲の頭をもつ人。その背にもつ四つの翼が大きく広げられている。人の倍はある巨体の持ち主だ。その手には、葉のような穂先を備えた槍と盾を持っている。鉤爪のような嘴が大きく開き、美しく大きな鳴き声を発した。


「待ちかねたぞ……」


 思わず安堵の呟きを漏らす。周囲を飛ぶ仲間たちからも歓喜の叫びがあがった。


 『七つの門の守護者』。鷲の頭をもつ四翼の使徒は、そう呼ばれている。


 この高位の精霊は、その力ゆえに、現世に呼び出すためには複雑な術式と魔力を必要とする。空兵たちは、『七つの門の守護者』を呼び出す儀式を完成させるために、時間を稼ぐ必要があったのだった。


 妖魔は、この凄まじい力を放つ精霊に注目せざるを得ない。四翼の使徒は槍を構えて妖魔へと飛び掛る。使徒へ向き直った妖魔は、牙だらけの口を大きく開いた。

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