第30話
全ては形になった。
キシュが感じる世界を人が共有するとき、それは視覚と嗅覚と触覚が全て渾然となり頭に飛び込んでくる。それを表現するためには、形と呼ぶしかない。しかし、それは決して確固としたものではなく、ある時は立方体であり、ある時は刺々しい塊であり、ある時は粘液質の澱みであり、ある時は霧のような広がりだ。常に変化し続ける世界。ラハシは人の世界とキシュの世界の狭間で互いの世界を翻訳して伝えている。
しかし、本来はキシュの世界に深く沈みこみことはない。たとえラハシといえど、キシュの世界はあまりに異質であり、深く繋がってしまうと人としての魂が変質してしまうからだ。
幼い頃、アシャンはキシュと深く繋がっていた。その時の記憶は曖昧だ。キセの塚の一族のラハシたち、父やスゥア婆がいなければ、アシャンはずっと何も喋ることなく、歩くこともなかっただろう。あるいは、もっと深くキシュと繋がってしまい、肉体は魂の抜けた脱け殻になっていたかもしれない。
そんな、一度はキシュの世界に沈みかけたアシャンにとって、この感覚はひどく懐かしい。
アシャンは重なり合っている精神の底まで降りて行き、キシュと繋がっている根の部分までたどった。普段、この根を意識することはない。なぜなら、無意識の段階でキシュの言葉を整えて、理解するからだ。だが、今回のようにキシュ同士が際限なく議論を始めてしまっている場合、言葉を整えることは不可能だ。キシュの方も、異種の存在が話しかけていることに気付くまい。
根まで降りていき、直接意思をぶつけるしかなかった。
凄まじい速さで複雑で重層的な意思が行き交っていた。ぶつかり、砕け、融和する。だが、観察していると、それは何度も同じ状況を再現しているのだと気付いた。
これが問題なのだ。ここで議論は空転を続けている。ここに別の問題を割り込ませることで、渦につかまった木の葉を川の流れに戻すように、議論を進展させることができるはずだ。
ぶつかり合っている意思の中に、アシャンは飛び込んだ。圧倒的な意思の中で、己の意思が削られ、砕かれそうになる。
兄に手を引かれて歩く薄暗がりの森。キシュの発する音と匂い。まどろむ自分を撫でる暖かな手。熱にうなされている時に呼んでくれた父の声。共に炉を囲んで蜜菓子を口にした友の笑顔。ひどく乾いた寒空の下、焚き火の傍らで鳥の鳴き声のような音と共に奇妙な抑揚で語られる言葉。自分を気遣ってくれる狗人の鳴き声。からかう若い男と、それに憮然とする少年。厳しくも、気遣い、励ましてくれる女性が差し出した手。早口な女性の声が、熱心に何かを語りかけてくる。自分はそれに笑いながら頷いた……。
瞬くように次々と記憶と感情の断片がきらめき、アシャンを
議論の中心へ沈んでいく。キシュの声がぶつかりあい、軋みを上げる奔流の只中。
そこは、これまで以上に異質な場所だった。
その渦巻く力は、刃や牙のごとくアシャンへと襲い掛かった。これまでとは比べ物にならない圧力。
彼女を包んでいた魔術の繭がひび割れた。
その一筋の傷はすぐさま押し広げられ、全体へと広がっていく。
身近に感じていた仲間たちから引き剥がされる。奪い取られようとしているその魂を、絡めとり引き留めようとする不可視の力が強さを増したが、牙を剥く渦巻く無数の声には及ばない。アシャンという存在はかき回され、砕けていき、そして、粉々となって薄まっていく。
音ではない悲鳴をあげる。
しかし、そこから溢れ出した感情も、やがて何の意味もない心のさざなみに変わっていく。
この小さな肉体は他の体と比べて狭苦しく、孤立している。大いなる一つに帰属するためには、脱け出すしかない。
全ては総体へと帰結し、その魂もそこへと向かう。無数の目、無数の触角が自分のものとなった。自分は山にいる手であり、里にいる足であり、獲物を探す目であり、敵を砕く大顎であり、形を伝え合う触角であり、言葉を宙へと放つ羽だった。
アシャンという存在は、消え去ろうとしていた。
暗黒の中、悲鳴が聞こえたように思えた。
アシャンがどこかに去ろうとしている。シアタカはそう感じた。
その手の中に、彼女の暖かさはある。それにも関わらず、アシャンはその肉体を離れ、どこかに行こうとしている。渦巻く奔流に呑み込まれるように、肉体から引き剥がされようとしている。
凄まじい恐怖が、シアタカの魂を貫き震わせる。
アシャンを失うのか。
守るのではなかったのか。
道標になるのではなかったのか。
このまま、絶望するだけなのか。
お前は無力だ。
何者も救うことなどできない。
絶望する声。
憤怒の声。
嘲る声。
己のものであり、己のものではない声が響く。
シアタカの魂は咆哮した。
深奥へ。
その魂は身を乗り出し、手を伸ばす。
青白い光が世界を満たした。
砕け、散り散りとなっていたその魂は、奔流の中、ただ翻弄される。
一にして全である魂の並ぶ中で、その魂は明らかに異質だった。いずれその力は薄れ、溶け込んでしまうだろう。しかし、それがいつになるのかは分からない。打たれ、弾かれ、ただ彷徨うしかない。
歌が聞こえる。
その美しい声は、漂う魂を振るわせた。
なす術なく翻弄されていた魂は、その響きに惹かれた。なぜか、この奔流の中で妨げられることなく歌に導かれる。
導かれた先は、無数の形が飛び交う世界の中で、小さく、しかし光を放っていた。
魂は、淡く青い光に惹かれ、その門をくぐる。
その先に、光が広がった。そこは広い庭園だ。見たこともない場所で、奇妙なほどの静寂と秩序に満ちていると感じた。鮮やかに咲き誇る薔薇が目に焼きつくようだった。
そこに一人の女が佇んでいた。女が、歌を歌っている。薄い褐色の肌をもつ若い女。こちらに気付いたのか、歌うことを止めると、力を宿した碧い瞳で、こちらを見つめてくる。
「ようこそ、異郷の人」
女はこちらを見て微笑んだ。
「……」
何かを言おうとするが、言葉が出ない。全てが忘却の霧に遮られて、自分の元に降りては来ないのだ。心の動きも鈍く、全てが一拍遅れて頭に飛び込んでくるように感じてしまう。
「こうして、誰かと面と向かってお話しするのは久しぶりね。本当はお茶でも出しておもてなしをしたいんだけど、何もなくてごめんなさいね。あなた、名前は何て言うの?」
「なまえ……」
言葉が漏れ出した。少しずつではあるが、離れてしまった何かが戻ってきているように感じた。
「あら、忘れてしまったのね。……まあ、仕方がないわ。お客様とお話できただけでも良しとしなくちゃ」
女は頷くとこちらに歩みよった。覗き込むようにして見つめる。
「私は欠片」
「かけら……?」
「そう。ただの欠片。私にも、名前なんてないのよ。だから、あなたが名前を思い出せなくても気にしないで。おあいこだもの」
「あ……、あの」
「何?」
「ここ、どこ?」
「ここは私のお庭。誰も訪れることもなかった静謐の庭園」
女は、手で庭園を示す。
「本当は、主は別にいるのだけど……。主はとても用心深い人なの。これまでずっと、庭園の静寂を守り続けてきた。おかげで、私は誰にも会うことはなかったの。主にだって会ったことがないのよ。だけど、最近考えを変えたみたい。きっと、これから騒がしくなるわ」
「きれい……。だけど、さびしい」
庭園を見回し、湧き上がる感情をたどたどしい言葉にした。女は、首を傾げる。
「寂しい? そうかしら。私はずっと主を通して外の世界を見てきたから、寂しいなんて感じなかったわね」
ゆっくりと手を伸ばす。細い指が、頬の上をつたった。
「主はあなたをとても大切に想っている。だから、ここに招いたの。ああ、でも礼を言う必要なんてないのよ。私は、自分のためにあなたを助けたのだから。もしあなたが消えてしまえば、主は壊れてしまう。今はまだ、それでは困るのよ」
「じぶんのため?」
女は頷くと、優しい笑みを浮かべた。
「私はね、全てを憎んでいるの。全てを憎んで、滅ぼしてやりたい。目を閉じて、いつもそんなことを考えているのよ」
「どうして……?」
「皆、大嫌いだから。この世界の皆、そして、私が大嫌い」
「……とてもかなしい」
「あなたは優しいのね」
女は、笑みを浮かべたまま頭を撫でる。
「でも、優しい人は傷つきやすいのよ。痛めつけられて、大きな傷を負って、やがて、立ち上がれなくなるの。そうなってしまった人を、私は知ってる。私は、そんなことは二度と経験したくない。だから、傷つく前に、傷つけるのよ。私を傷つける全てを滅ぼしてしまう。私の主が、全てを滅ぼしてくれる。……私は、その為にずっと主を守ってきたのよ」
「だめ……」
沸き起こる感情が、口を衝いて出た。
「え?」
「そんなのだめ……」
「だめなの? だめなら、どうするの?」
女は、面白がるような表情で首を傾げる。
「わたし……、とめる……」
「ああ……、さすが主の想い人ね。そんな状態でも、主のことを心配するなんて」
女は、感嘆の表情を浮かべた。次の瞬間、その左目が黒く染まる。目から頬へと、ひび割れのように黒い線が生じた。彼女の足下に白い砂が現れ、それはみるみる広がっていく。
「私は、欠片の中でも出来が悪いほうだったの。きっと、大勢いる候補の中でも、私は下層の方だったでしょうね。だけど、主は、そして私は古き者の一部となった。これは、他の欠片には無い力。きっと、この力は私の願いをかなえてくれる」
女の左目が、硬質な光を帯びた。その双眸で見つめる。
「あなたは、私を止められるかしら。私は主の一部。私の力は、主を導くの」
「とめる。まもる」
駆り立てられるような激しい感情は、言葉となって吐き出される。この感情が何なのか、思い出すことはできないが、何かが形になろうとしている。そのことを感じることができた。
「ふふふ、とても楽しみね。私が勝つのか、あなたが勝つのか。結果が分かるのはまだ先だけれど、その時にはもうあなたに会うことはないでしょう」
女は笑った後、空を見上げた。
「ああ、お迎えが来たわ。本当に、主はあなたのことを想っているのね」
周囲が薄暗くなっていく。
美しい庭園は、まるで霞の向こうにあるように消え去ろうとしていた。その淡く確かでない景色も、闇を帯びていく。
そして、光が消え去った。
暗闇。
熱を持ち疼く頬。狭苦しい部屋。差し込む灯り。
憎しみとともに振り下ろされる刃。
浮遊感。
白い世界。
そして、虚空から差し伸べられた手。こちらを見つめる碧い瞳。
呼ぶ声が聞こえる。
「アシャン!!」
「……シアタカ!」
魂は、その名を呼んだ。
アシャンは振り返った。遠ざかって行く景色。女は、微笑んだままアシャンを見送っていた。
激しい嵐のように形が渦巻いていた。
険しい顔をしたウルス人の青年が、大きく手を広げて、自分を守ってくれている。その腕のもとで、砕け、散り散りとなっていた魂は寄り集まり、一つとなり、アシャンとして目覚めた。
形を取り戻したアシャンを観て、青年は安堵の表情を浮かべる。
彼女の周りを、淡い光の繭が包んだ。そこにこめられたのは、仲間たちの想い。そして、もう一つ、感じたことの無い魂も共にあった。それは、人とは全く違う世界を見ている異質な存在。
守られている。
その想いに力を得ながら、魂は、アシャンは再び動き出す。
青年の姿は、彼女を包む繭へと溶け込んでいく。
今度こそ、己の形を届ける。
アシャンは、一度は阻まれ打ち砕かれた奔流に、今なら立ち向かえると確信していた。
再び彼女を噛み砕こうとする異質な魂たち。
しかし、アシャンはその嵐の中に滑るようにもぐりこんだ。凄まじい力に逆らわず、しかし、打ち砕かれることもない。流れに一つになったように、深奥へと確実に沈んでいく。
そして、全ての奥底に。あるいは全ての天頂にたどりついた。そこからは、キシュの議論が飛び交う全てを観ることができる。
自らの魂に満ちた力を、ここで解き放つ。力が寄り集まり、魂の焦点を議論の中心へと合わせた。
アシャンは、自分の得たものを全てぶつけた。父の死と悲しみ、絶望。外つ国の人々。シアタカたちのこと。人々を守りたいという想い。
同時に、人とは異質な魂がその力をキシュの議論へと送り込む。
突然の侵入者に、キシュたちは戸惑った。これまで続けられていた秩序だった繰り返される議論の中に、突如、意思という形で全く異なる二つの言葉が入り込んできたのだ。キシュの整った言葉とは全く異なる、混沌とした魂。だが、キシュはこの異なる意思を求めて、人を受け入れたのだ。キシュはこの意思が議論に加わることを認めた。
突然の侵入者によって、議論は活性化した。無秩序ともいえるアシャンの意思が定義した支離滅裂な問題と、異質な魂が送り込んだ不可視の世界を感じ取る感覚、俯瞰的な世界を観る視点。それは、キシュの秩序だった情報を乱し、彼らを興奮させた。新たな論点や視点が生まれ、論議を深めていく。
アシャンはそれを見届けると、論議の輪からそっと抜け出す。
その魂は、ゆっくりと浮かび上がっていき、そして、彼女は目を開いた。
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