第22話

 巨体が、広間に跳びこんで来た。


 食器や調度品、そして人々を吹き飛ばし、薙ぎ倒しながら、巨大な影は広間の中央で止まる。


 それは、人の背丈を超える巨大な蜘蛛のように見えた。しかし、似ているのは全体の印象だけで、すぐに蜘蛛とは似ても似つかぬ姿だと分かる


 長い脚は十二本もあり、小刻みに動き、歩く。その先端には刀の切っ先にも似た弧を描く鋭い爪が生えていた。その爪が床に当たる度に、カチカチと硬質な音を立てる。頭にあたる部分には、人の頭が五つ生えている。ある頭は逆さに、ある頭は斜めに、でたらめに取り付けたように、あちこちばらばらな方向を向き、苦悶の表情を浮かべていた。


 魔物は、呻きとも悲鳴ともつかぬ声を上げた。


 呆然としていた人々は、我に返ると悲鳴をあげる。眼前の化け物から何とか逃れようと駆け出した。 


 そこまでするのか。


 アトルは、恐れと、そして怒りを覚えながらその巨体を見た。


 こんな魔物を呼び出すことができるのは、優れた魔術師に違いない。屋敷を包囲する兵といい、この魔物といい、この布陣を準備するための決意と行動力は生半可なものではない。自分たちを何としてでも殲滅するという敵の強固な意志がはっきりと伝わってくる。


「こいつは……、何とも強烈な妖魔を呼び出したものだな」


 イシュリーフが、エルアエル帝国の言葉でディギルに言う。彼らの会話が、その言葉を理解できるアトルの耳に飛び込んでくる。 


「勝てるか?」

「俺一人では厳しいかもな」

「そうか。くそっ、面倒なことになった」


 ディギィルは顔をしかめる。


「まあ、やるしかないだろう。黙って殺されるわけにはいかないからな」

「やれやれ、大使殿に叱られてしまう」

「降りかかった火の粉をはらうだけだ。文句は言わせんさ」


 イシューリーフは、溜息をつくディギィルに肩をすくめて見せた。


「大使殿とあまり喧嘩をしないでくれよ。ただでさえ我々は貴族たちに良く思われていないんだからな」 

「貴族たちを怒らせるよりも、お前を怪我させて宰相閣下を怒らせるほうが面倒だ」


 鼻を鳴らすと、イシュリーフは剣を抜く。鞘から抜き放たれた剣身は、薄っすらと青色を帯びており、小さな文字が刻み込まれている。何かに共鳴するように小さな音を発した。


「アトル様、皆を広間から出してください」


 ディギィルが、アトルに向き直るとウル・ヤークスの言葉で言った。


「しかし……、イシュリーフ殿は戦うおつもりか?」

「はい。彼はこの手のことに関しては経験が豊かでして……。出来るだけ皆様の盾になります。その隙に、何とか部屋に逃げ込んでください。屋敷の外に出るのは無理だが、狭い部屋ならあの巨体で入ってくるのは難しいはずです」

「しかし……」

「ファーラフィ殿だけに働かせるわけにはいきませんよ。我々エルアエル帝国にも、貸しを作らせてください」


 ディギィルが笑みを浮かべた。しかし、その頬が引き攣っていることを隠せてはいない。彼は、イシュリーフに顔を向けるとエルアエルの言葉で言う。


「イシュリーフ、死ぬなよ」

「お前は早く身を隠せ」


 イシュリーフは簡潔に答えると、駆け出した。


「アトル様、奥の部屋に逃げてください」


 傍らに立つ傭兵がアトルを促す。


「私のことはいい」


 アトルは激しく手を振った後、妖魔の前に立つイシュリーフを指差す。


「彼を手助けしろ。一緒に戦うんだ」

「しかし……」


 蛮族の傭兵たちは、アトルと妖魔の間で視線を行き来させて、逡巡の様子を見せた。


「普段自慢している武勇は口だけなのか? 勇猛な戦士とやらは、他人に戦いを任せるつもりなのか?」


 アトルの強い言葉に、傭兵たちは表情を変えた。


「アトル様といえど、聞き捨てならん。我らの武勇に偽りはない!」

「ならば証明して見せろ。生き延びれば、手当てを払ってやる! 給金の百倍だ!」

「……その御言葉、お忘れなきように!」


 傭兵たちは獰猛な笑みを浮かべ頷きあうと、剣を抜いた。


「皆を部屋に誘導するぞ。急げ!」


 アトルは振り返ると、使用人たちに命じた。使用人たちは決死の表情で頷く。アトルや使用人たちは、逃げ惑い、あるいは広間の端で怯えて固まっている人々に、大声で呼びかける。それを合図とするように、妖魔の前に立ち、様子を窺っていたイシュリーフが、素早く進み出た。


 妖魔もその動きに反応する。十二本の脚が波打つように動き、一気にイシュリーフへと迫った。


 何本もの脚が繰り出され、その爪がイシュリーフを狙う。


 イシュリーフは横っ飛びにそれをかわすと同時に、剣を振るった。その刃は、一本の脚を深く切り裂くが、切断するにはいたらない。


 苦痛なのか、怒りなのか。五つの頭は、怖気を震う叫び声をあげた。  


 その叫びに対抗するように雄叫びを上げながら、傭兵たちが妖魔へ突進した。妖魔は次々と脚を繰り出して傭兵たちを襲う。まともに打ち合った一人は、その脚に薙ぎ払われて吹き飛んだ。


 さらに脚を伸ばして爪で突き刺そうとするが、そこにイシュリーフが跳び込んだ。


 青刃が一閃する。


 黒い血を撒き散らしながら、切り飛ばされた脚が宙を舞った。


 妖魔が叫ぶ。その声は半ば暴力に近いほどの音量だ。


 繰り出される怒りの一撃を、イシュリーフは飛び退ってかわした。イシュリーフと傭兵たちでは、明らかに動きが違う。傭兵たちも常人よりははるかに早いのだが、イシュリーフはそれよりもさらに早い。


 一方の妖魔もその巨体に関わらずその動きは素早い。一本欠けたにもかかわらず、残り十一本の足を幻惑するような動きで滑らせて、巧みに進退している。

 

 傭兵たちが牽制し、イシュリーフが斬りかかるという連携が自然に生まれている。それだけ、皆が優れた技量を持っているということなのだろう。しかし、妖魔も付け入る隙を与えない。その一撃は迂闊に喰らえばすぐに戦闘不能に陥ってしまうだろう。戦士たちも容易には攻撃できないでいた。


 妖魔と彼らの戦いは激しさを増す。 


 アトルは声を嗄らしながら、人々を部屋の入り口へ導いた。







 ユハは、シェリウの手を握り締めたまま、男たちと妖魔の戦いを呆然と見ていた。シェリウが、その手を引いて何かを叫んでいるが、彼女の耳に届いてはいない。その戦いは、まるで旅芸人の演じる演劇のようで、現実感がない。


 幼い頃、修道院を抜け出して、村に訪れた旅芸人たちの演劇を盗み見た。洋橄欖オリーヴの木の陰に隠れて見る演劇は、役者たちが何を言っているのか聞き取れなくて、その内容は想像するしかなかった。ただ、戦士役の役者が振り上げた剣が、陽光を反射して、眩しく光ったことはよく覚えている。


 足下に、金髪の傭兵が転がってきた。彼の頬は深く切り裂かれ、顎はひどく変形している。おそらく骨が砕けているのだろう。鮮烈な赤色が床に飛び散る。


 ユハは我に返った。


「ユハ! ユハ! 早く、早く逃げるのよ!」


 シェリウの叫びが耳に飛び込んでくる。傍らを、悲鳴をあげながら人々が通り過ぎていく。振り返れば、部屋の入り口に殺到していた。


 次の瞬間、跳躍した妖魔が目の前に降り立った。


 ユハは妖魔を見上げる。


 顔を歪めた五つの頭が、恐ろしい叫びを上げた。ユハには、その叫びが音として、そして魂に響く力として感じ取れた。妖魔の身体に囚われた魂が、怨念と苦悶と恐怖の叫びを上げ続けている。そう感じたのだ。


 影が走った。 


 投ぜられた短剣が妖魔の顔に突き刺さる。一つの目を失った妖魔は、叫び声とともに仰け反った。


 傍らを駆け抜けたラハトが、その勢いで壁を蹴って跳躍する。その手には、三叉の燭台を握っていた。跳んだラハトは妖魔の背に跳び乗ると、頭の一つを羽交い絞めにして、逆手に握った燭台を何度も振り下ろした。頭に、顔に燭台が突き刺さり、黒い血が噴出す。


 妖魔は何かを喚きながら身体を傾け、何本もの脚がラハトを排除しようと迫った。


 ラハトはそれを避けようと素早く頭から腕を離すが、遅かった。一本の脚に払いのけられて、壁に激突した後、床に転がる。


 妖魔は、絶叫しながら、ラハトに止めを刺そうと進み出た。


 ユハの中から、何かが溢れ出す。


「やめなさい!!」


 声が、口をついて出た。


 その声は力となって妖魔をうち、その動きを止める。妖魔は、そこで初めてユハに気づいたかのように、身体の向きを変え、五つの頭すべてが彼女を睨み付けた。


「……シェリウ、手伝って」


 ユハは、妖魔に視線をすえたまま言った。


「え、何を言ってるの?」


 驚くシェリウをその場に残し、ユハは進み出る。


 この魔物を、癒さなければならない。


 妖魔が絶叫とともに脚を繰り出した。背後から、シェリウの悲鳴のような叫び声が聞こえる。


 鋭い爪が、ユハの肩に潜り込む。鈍い衝撃とともに、その先端が肩甲骨で止まったことを感じた。さらにもう一本の脚が、彼女の腹部を貫く。衝撃によって身体が震えた。


 痛みを切り離せ。 


 誰かが静かに言った。


 ユハはその声に従う。幽体が肉体を支配し、肉の感覚はまるで壁の向こうから聞こえる音のように、遠く、微かなものとなった。世界は漂う精霊やきらめく光と様々な色に彩られ、しかし、目の前にいる妖魔の身体は、どす黒く渦巻く暗闇に覆われている。暗闇といっても、それは安息に満ちた自然の暗闇などではない。それは怨念の色であり、虚無の色であり、そして死の色だった。


 妖魔は、ユハの身体を拘束した上で、脚を振り下ろした。爪が、彼女の頭に迫る。


 シェリウが悲鳴にも似た声で聖句を唱えた。襟巻スカーフが宙を舞い、ユハの頭上で縦横に拡大する。振り下ろされた爪は、赤い光とともに布の盾に阻まれた。


 口の端から血が一筋垂れる。


 しかし、ユハはそれを気にすることなく、己を貫く妖魔の足に両手で触れた。目を閉じる。


 苦悶に満ちた魂が、救いを求めている。


「汝よ、解き放たれよ。もはや魂の館はその肉にあらず。喜びとともに、安息の道を歩け」


 ユハは聖句を唱える。彼女の力は、その魂に纏わりつき、縛りつけている鎖を丁寧に解いていった。


 妖魔の叫びが止まった。


 今やその五つの口から発せられる声は、まるで咽び泣いているようだった。やがて、その泣き声も、小さくなっていく。


 そして、沈黙する。


 妖魔の五つの顔は、穏やかな表情に変わっていた。皆、静かに目を閉じる。


 妖魔の、そしてユハの身体がまばゆい青白い光に包まれた。


 次の瞬間、そこには巨大な塵の山ができていた。


 ユハは、思わず膝をついた。ぽっかりと空いた二つの傷穴から大量の血が溢れ出る。


「ユハ! ユハ!」


 シェリウが、目に涙を浮かべながらユハに駆け寄った。


「大丈夫……。今はまだ大丈夫」


 ユハはシェリウに微笑んでみせる。そして、己の胸元で両手を重ねると聖句を唱えた。溢れ出てくる力を、癒しの力へと転じる。普段では決してありえない力は、みるみる自身の傷を癒していく。


「すごい……」


 シェリウは呆然と呟く。


 事態を見守っていたナタヴが、弱弱しい足どりで進み出た。そして、ユハを見ながら、合掌する。


「おお……、聖なる御子よ……」


 彼の目には涙が浮かんでいた。


 その言葉にユハの耳には届いていない。自らの傷を癒した彼女は、怪我人の元へ駆け出した。





「あ……」


 ムアムは、女の声に顔を上げた。


「どうかしましたか?」


 部屋の隅で寝転がっていた若い女は、上半身を起こすと、ムアムに顔を向けた。


「ねえ、ムアム、今、感じた?」

「……いえ、何も感じませんでしたが」


 目を通していた本を卓上に置くと、ムアムは頭を振った。


「鈍いわねぇ、ムアム。あなた、衰えたんじゃない?」


 褐色の肌の娘は、笑みを浮かべると立ち上がる。彼女は、尼僧のような僧服を着ておらず、まるで町娘のような格好だった。その髪は長く伸ばされ、ウルス人にはあまり見られない独特な髪飾りを付けている。骨董品や古美術の知識がある者が見れば、その髪飾りは随分と古い意匠の物であることが分かるだろう。


 からかうような彼女の言葉に、ムアムは答えない。


「ふふふ、怒った?」

「いいえ。怒っていませんよ。事実ですからね。あなた達と違って、私はもうすぐこの世から去るのですから」


 特に表情を変えることもなく、ムアムは静かに言う。


「そんな悲しい話をしないでよ。私は、あなたも、この尼僧院も気に入ってるのだから」

「それは光栄ですね」 


 ムアムは小さく溜息をつくと、娘を見つめた。


「……それで、一体何の話をしているのですか?」

「可愛いあののことよ」


 答えた娘は、大きなあくびの後、大きく伸びをした。


「あの?」

「あなたが御執心の、分かたれし子」

「なっ! あの娘を見付けたのですか?」


 ムアムは思わず立ち上がる。


「見付けたというか……、感じただけだけど……」


 娘は、微笑むとムアムの方へ歩み寄る。


「それで、どこにいるのですか?」

「アタミラの外。西の方向ね。少し遠いかな。まだ惑わしの術がかかっているままだから、はっきりとは分からないけど」  

「だとしたら、なぜその存在を感じたのですか?」


 ムアムは戸惑い、問う。娘は、窓の外に顔を向けながら言った。


「そんな惑わしの術なんて敵わないような、大きな力を使ったからよ」

「力を……。分かたれし子が?」

「そう。何が起きたのかは分からないけど、大したものね。昔を思い出したわ」


 その答えは、ムアムにとって福音だった。彼女からその言葉を引き出せたということは、まさしく大いなる資格を持った者だということになる。


「やはり、あの者は……」


 頷くと、その娘はムアムを振り返った。


「やっぱり、あのは本物ね。あの子の幽体の輝きが見えるようだわ」


 日の光を受けて、ムアムを見つめるその瞳孔は縮小し、針のように細くなった。

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