第18話

 巨大な生き物の頭がこちらをのぞきこんでいる。


 どことなく亀にも似たその生き物の頭は、ユハの身の丈ほどの高さがあった。その現実離れした巨大さに、ユハは思わず息を呑んで立ち尽くす。


 ただ、横目でこちらを見る瞳は、つぶらで優しげな印象を与え、恐怖を感じることはない。


「ムハムト!」


 傍らのシェリウが驚きの声を上げる。


 二人は、目の前を通り過ぎるムハムトの頭を見送った。そのまま、まるで巨大な蛇のような長い首が目の前を通り過ぎていく。


 背後に立つアティエナが、笑い声を上げた。ユハが振り返ると、彼女は笑顔で頷く。


「あなた達を驚かそうと思って、内緒にしていたのよ!」


 アティエナは嬉しそうに言った。ユハは、初めてアタミラにやって来た時、シェリウも同じように自分を驚かせたことを思い出して苦笑した。


「ムハムトに乗って、別荘に行くのですか?」


 ユハは、その眩暈がしそうなほどの巨体を見ながら尋ねた。


「そうよ。お爺様が手配してくれたの」

「ムハムトを手配……? すごい……」 


 ユハは思わず呟く。この巨大な生き物を個人の意向で連れてこれるなど、想像もできないことだ。ナタヴがどれだけ実力者なのか。ユハは全く分かっていなかったことを痛感した。


 ユハとシェリウ、そしてアティエナとティムナ、その使用人たちがいるのは、石造りの建物だ。


 アタミラを出た彼女たちは、郊外へとやって来た。案内されたのは、断崖の側に建つ建物だった。平屋だと思って入ったその建物には、地下への階段が口を開いている。そこを下ると、露台ベランダのようになっており、切り立った断崖からの眺望が広がっていた。そこへ飛び込んできたのが、ムハムトだったのだ。


「ここは、つまり、ムハムトに乗るための場所なんですね」


 シェリウの問いに、アティエナが頷く。


「ムハムト使いは縄一本で登ってしまうそうだけど、私たちには無理でしょう? だから、ムハムトの背中に合わせた高さから乗るしかないのよ」

「ああ、そうですね……」


 ユハは、露台ベランダの端から地上を覗き込んで納得する。ムハムトの垂直に伸びた足は長く、その背は高い。おそらく、ユハの身の丈の三倍以上はあるだろう。


「だから……」


 ムハムトの歩みが止まった。ちょうど、ムハムトの背中辺りが彼女たちの前にある。その背には、大きな輿こしが据え付けられていた。


「ここからムハムトに乗るってわけ!」


 アティエナは、嬉しそうにムハムトを指し示した。


 建物にいた男たちが、滑車に巻かれた縄を引き始める。すると、壁に見えていた大きな木の板が、ゆっくりと下りていく。そして、それはムハムトの背に据えられた輿こしへ渡るための橋となった。


「あの……、アタミラを出る時は、いつもムハムトに乗るんですか?」

「まさか。いくら私たちでも特別な時にしか乗れないわ」


 恐る恐る問うユハに、アティエナは笑って頭を振る。


「特別でもムハムトに乗れるのだから、凄いですね」


 ユハは大きく息を吐く。


「それは、我らシアートの民に授けられた名誉だからですよ」


 男の声に、ユハは振り返った。


 身なりの良いシアート人の青年が、こちらに歩み寄る。その背後には、金色の髪を持つ巨漢が二人、続いていた。髪と同じ色の髭を長く伸ばしており、その派手で野蛮な風貌に一瞬驚く。


「アトル様」


 弾む声に、ユハはアティエナの横顔を見る。青年を見る彼女の表情が華やいでいるように感じた。アティエナは、これまで見せたことのない、優雅な所作でアトルに一礼する。アトルと呼ばれた青年も、洗練された所作で礼に応じた。


「アティエナ。元気そうだね。ティムナ様も、お元気そうでなによりです」

「ふふふ、娘の名を先に呼ぶのですね」


 ティムナは含み笑いとともにアトルとアティエナを見やる。


「ああ、失礼しました。つい、アティエナに見惚れてしまって」


 アトルは笑顔で言った。その言葉に、アティエナははにかみ、ティムナは苦笑する。


「アトル様、戯れもほどほどに。まだ娘は嫁入り前ですからね」

「時はすぐに過ぎますよ。いずれ、毎日口にするようになる言葉です」

「母親としては嬉しいお言葉ですが、その時はまだ来ていませんよ。それまでは、善き人としてふるまってくださいね」

「はい。心得ました」


 たしなめる様なティムナの言葉に、アトルは笑顔のまま頷く。そして、ユハに向き直ると、深々と一礼した。


「偉大なる癒し手よ。ナタヴ様を救っていただき、感謝します。私は、キラナール家の長子アトルと申します」


 ユハは、この青年がナタヴが倒れた時に側で介抱していたことを今更ながらに思い出した。


「あ、いえっ、あの時は大変失礼しました」


 慌てて礼を返す。


「私はユハ。彼女はシェリウです」


 ユハの言葉に、シェリウも一礼した。


「御二人のことはナタヴ様から聞かされています。この度の宴にお招きできたことを光栄に思います」

「そんな……。私たちこそ、シアートの方々の大切な集まりに招いていただき、ありがとうございます」


 アトルの大袈裟な言葉に、ユハは驚きの表情を浮かべる。


「あなた方はシアートの恩人なのですよ。どんなに礼を尽くしても、足りることはありません」


 そう言って、アトルは微笑んだ。


 ティムナと話し始めたアトルを横目に、ユハはアティエナに小声でたずねる。


「あの……、アトル様はアティエナ様の特別な方なのですか?」

「アトル様は私の許婚いいなずけなの」


 アティエナは照れくさそうに答えた。






 ムハムトの乗り心地は良い。


 巨体が歩みと共に小さく左右に揺れる。その穏やかな乗り心地は、船に似ているようにも思える。


 ムハムトの動きはゆったりとしており、はたから見れば緩慢ともいえるものだ。当然ながら、歩みはそこまで速くない。しかし、その巨体ゆえに一歩一歩、歩幅が広く、ぐんぐんと前に進んでしまう。そのため、随伴する騎馬の者たちは、早足で付き従っていた。


 共に街道を進むのはシアート人の兵士たち、そして、金や茶色の髪と髭を長く伸ばした北の蛮族たちだ。アトルの傍らに控える護衛と同じ『雪と森の国々』から来た彼らは、シアート人やウルス人とは全く異なる独特の服の上に外套を羽織り、剣や槍で武装していた。


 道行く人々は、このあまりに異様な一行を、驚きながら見ている。


 ムハムトの頭には、男が一人、座っている。忙しく何かしているというわけではないが、時折、何か歌うように口ずさみながら、手にした長い鉤棒でムハムトの頭や首筋を軽く叩いている。それでどうやってこの巨大な生き物を操っているのか理解はできなかったが、従順に従っていることも確かだ。


 ムハムトの背に据え付けられた輿は、天蓋がついた豪奢なもので、とても広い。まるで高層の建物から景色を眺めているようで、快適だった。ユハは、街道のはるか行き先を、そしてその周辺の景色を、夢中になって見ている。


「シアートの方たちがムハムトを飼っているのですか?」


 シェリウがアトルにたずねた。その問いに、ユハも思わず振り返る。


「いえ、世話をしているのは我々ではありません」


 アトルは小さく頭を振った。


「それでは、シアートの方々に授けられた名誉というのは……?」

「ああ、先刻私が言った言葉ですね。そうです。我々は、聖女王陛下から、ムハムトを借り受けることができます。それは、我々がムハムトに糧を与える名誉を授かっているからなんですよ」

「糧……」

「そうです。ムハムトはよく食べる生き物です。それも、杉の葉を特に好んで食べるのです。我らシアートの民は、古来より山と森を守り、育ててきました。そして、その杉をムハムトに供する名誉を授けられたのです」

「ああ、『憤怒の獣』が守る聖なる森ですね!」


 ユハは思わず声を上げた。聖典に記された、古代、巨人の英雄と戦った聖獣の物語は、イラマール村の男の子たちにとても人気だった。子供たちの遊びの中で、いつも英雄役と『憤怒の獣』役、どちらを担うのかで言い争いが起きてしまうほどだ。


「その森は、山々の中でも特別な聖地ではありますが……」


 アトルは、ユハの反応に苦笑しながら答える。


「巨人王の時代より、山々の杉はムハムトに供されてきました。そして今はシアートの民がその杉を育てているというわけなのですよ」

「ああ、素晴らしいお話です……」


 イラマール修道院で暮らしていた頃、聖典の中の伝承は、あくまで遠く離れた世界で繰り広げられた物語でしかなかった。しかし、アタミラにやって来て、聖典に記されたことがそのまま現実に繋がっていることなのだと実感できる。それは、ユハに深い感動をもたらした。一方で、その現実が自分たちをイラマールから遠ざけていることに、複雑な気分にもなる。


「ユハは、本当に信仰に篤いのね」


 アティエナがくすくすと笑う。


「ユハは何でもすぐに感心してしまうだけなんですよ」


 シェリウが揶揄するような口調でユハを見た。


「ねえ、シェリウ、それ、馬鹿にしてる?」

「とんでもない。素直でとても羨ましいわ」


 大袈裟に頭を振るシェリウに、ユハは顔をしかめて見せた。


 別荘へ向かう街道沿いは、緑も多く、涼やかな風が吹く。灌漑が整備されているのと、司祭による豊饒ほうじょうの祝福が行き届いているためだ。そのため、大規模な農園をあちこちで見ることができる。イラマールはそこまで開拓が進んでいないために、この土地ほど潤いと緑には恵まれていなかった。


 ナタヴのもつ別荘も、そんな農園の中に建てられている。一際高い丘の上に建てられた屋敷の周囲には、麦や玉蜀黍とうもろこしの畑が広がり、柑橘類や洋橄欖オリーヴる木々が繁っていた。


 すでに、日は暮れ始めている。


 ムハムトが小高い丘の裏に回ると、来た時と同じような、断崖に刻まれた露台ベランダがあった。


 そこでムハムトを降りた一行は、丘の上に出る。そこで、駱駝に乗った人々と出くわした。


「ヤガンさん!」


 駱駝からおりた黒い人ザダワフを見て、ユハは声をかける。


「おう、ユハ、シェリウ。お前たちも来てたのか」


 ヤガンは、二人を見て片手を上げる。


「お久しぶりです、ヤガンさん。それに、デワムナさんに、ラハトさん」


 ユハは、三人に一礼する。


「やあ、本当に久しぶりだね。元気そうで何よりだ」


 デワムナがにこやかに頷く。背後に立つラハトは、無言のまま小さく頭を下げた。


「ヤガンさんたちもナタヴ様に招かれたんですか?」

「ああ、そうだ。大事な話があるからな。他にも客人が何人も来るぞ」


 ヤガンの答えに、ユハはシェリウと顔を見合わせた。身内だけの集まりではなかったのだろうか。疑問が頭に浮かぶ。それとも、ナタヴの言う身内の範囲はとても広いのかもしれない。何しろ、部外者である自分たちまで招くのだから。狭い世界で暮らしてきた修道女と世界を相手に商いをする大商人では、その認識が違っていても不思議ではない。


「お前ら、少し太ったんじゃないか?」


 薄く笑みを浮かべて、ヤガンは二人を見やる。


「美味しいものを毎日頂いていますからね」


 シェリウは澄ました顔で答えた。


「カラデア料理が不味くて悪かったな」


 ヤガンは彼女の答えに肩をすくめた。ユハは慌てて答える。


「カラデア料理は不味くないですよ。ただ、お屋敷の料理が量が多くてとても美味しいだけです」

「そういうことじゃないのよ、ユハ。まあ、いいけど……」 


 シェリウとヤガンは顔を見合わせて苦笑する。ユハはその言葉の意味が理解できずに目を瞬かせた。


「まあ、俺もここでご相伴にあずかるとするさ。なあ、ラハト」

「生憎だが、旦那、俺は仕事がある」

「お仕事、ですか? ここまで来て何をするんですか?」


 相変わらず無表情のまま答えるラハトに、ユハは聞いた。 


「見回りだ」

「見回り? ここで?」


 ユハは思わず辺りを見回した。夕陽に照らされた畑と木々の広がる土地で、何を見張る必要があるのか。


「そうだ」


 ラハトは静かに頷く。


「俺は必要ないって言ったんだけどな。まあ、こいつは仕事熱心だからな」


 ヤガンはラハトを横目に見ながら鼻を鳴らす。


「いつ、何が起きるか分からない。それに備えるのが俺の仕事だ。そうだろう?」 

「ああ、そうだな。本当に頼りになる奴だよ、お前は」


 ヤガンは小さく溜息をつく。 


 何が起きるのか分からない。その言葉が、なぜかユハの心を騒がせる。ここに来たのは間違いだったのではないか。そんな不安が沸き起こった。そして、それを何とか打ち消そうとする。


「そう。何かに備える。それが私の仕事……」


 シェリウの小さな呟きが耳に届く。気付いていないふりをして、シェリウを盗み見る。彼女は、厳しい表情で、丘の向こうの屋敷を見ていた。

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