第17話

 深く、深く降りていく。


 暗黒の世界では、その深淵の底を知ることはできず、それどころか己の位置すらも分からない。


 しかし、何も見えない暗黒の中でも、渦巻く力をはっきりと感じ取ることができる。それは、嵐にも似た恐ろしい力で、この果てない世界に満ちて、出口を求めて荒れ狂っていた。


 渦巻く力は、自分という存在を心騒がせ、翻弄し、蝕み、粉々に打ち砕こうとしてくる。心を乱せば、その奔流に巻き込まれてしまうだろう。ただ、心を平らかにしてやり過ごすしかない。


 これまで、何度となく奔流に阻まれ、すぐに昇り、戻るしかなかった。


 しかし、今回は違う。


 静かに澄み切った心は、奔流を受け流し、ゆっくりとだが確実に深淵へと降りていく。


 やがて、暗黒の中に青白い光が一筋走った。そこで、降下も止まる。


 もう一度、光が走った。その光は消えることなく拡大していき、ついには、暗黒は消え去り全てが青白い光に占められた。


 昇り始めている。


 全身を襲う浮遊感に、そう気付いた。


 没入していた心が急速に覚醒していく。


 最後に見たのは、光の向こうに立つ人影だった。逆行によってその姿ははっきりと分からなかったが、なぜか、あざやかな碧眼がこちらを見ていることだけは確信できた。





 ユハは、目を開けた。


 目の前に浮かんでいた真鍮の杯が落下し、金属音とともに地面に転がる。その音は、静まり返っていた部屋によく響いた。


「今、お前は、これまでにない深きところまで達していた」


 対面に座っていた老人がかすれた声で言う。


 暗黒の深淵から戻ってきたばかりのユハは、その言葉にすぐに答えることができない。離れていた己の幽体が完全に肉体と重なったことによって、ようやく現実感が戻ってくる。老人をみつめ、おもむろに口を開いた。


「……はい、老師ヘダム」

「何か観えたかのう?」 


 ヘダムの問いに、青白い光の中に見えていた人影を思い出す。


「誰かが……、誰かがこちらを見ていました」

「誰か?」

「はい。姿は分かりませんでしたが、碧い目を持った人でした」


 ユハの答えに、ヘダムは無言だった。


「私の魂の中に、どうして人が現れるのでしょうか。誰かが外から干渉してきたのでしょうか。それとも、私の何かの記憶なのか……」

「それは、今は考える必要はない」


 ヘダムは囁くように言う。


「瞑想は人を静める一方で、惑わせる。特に、魂の深いところまで達するようになると、その惑いは顕著だ。魂の迷宮に囚われて、己を失う者もいる」

「あの人は、迷宮に現れた幻なのでしょうか」

「それは、お前にしか分からぬことだのう。これより、さらに内観の法を究めることで、その答えは得られるであろうな」

「分かりました」


 ユハは頷いた。


「さすがですね……。短期間でユハがここまで力を操れるようになるなんて」 


 シェリウは大きく息を吐く。彼女は、ユハがヘダムの教えを受ける際に、いつも部屋の片隅で見守ってくれている。当初、シェリウはヘダムの教えを受けることを反対していたのだが、今は特に口を出すことはない。


 地面に転がる杯を見て、ユハも頷いた。


 初めてヘダムの教えとともに瞑想した時は、己の中から再び力が溢れ出し、危うく再び部屋を滅茶苦茶にするところだった。幸い、ヘダムによってその力は抑えられたのだが。その時にヘダムは、一度、己の危険な境界を知っておくほうが良い、と言った。その境界を知ることで、どこまで進むのか、引き返すのか判断できるようになる、と。


 事実、その後の指導によって、ユハは己の力の抑制方法を掴んでいった。そして、その力が渦巻く己の魂の奥底へと挑むようになったのだ。


「ユハは、我に似ておる」


 ほとんど表情の変わらないヘダムが、微かに笑みを浮かべている。


「だからこそ、どうすればその力を操ることができるのか、教えてやることができるのだ」

「私も老師ヘダムのような偉大な術者になれるということでしょうか」

「我と同じようになる必要はない。お前は、自分の思うものを目指せばよいのだ。我と同じ術者を育てるために、お前を教えている訳ではないからのう。お前の力は、全てを押し流す恐るべき洪水にもなれば、麦穂を輝かせ、花を咲かせる恵みの水にもなる。それを自覚し、己を律するのだ。さすれば、いずれ、己の内なる力を自在に操れるようになるだろう」 

「自在に……」


 これまで自分はただ癒しの術に優れているだけだと思っていた。しかし、今ははっきりと分かる。自分の中に、恐ろしいまでの力がある。癒しの術は、この力の一つのあらわれにすぎなかったのだ。


「私のこの力を、癒し以外に使うことができるのでしょうか? 私がシェリウのように色々な魔術を使えるとは思えません」


 これまで、癒しの術以外の魔術は、ほとんど使いこなすことができなかった。今、ヘダムの教えによって力を抑制できるようになってからは試してはいないが、ほとんど結果は変わらないように思える。


「この娘も、非凡な魔術の使い手ではある。この若さで大したものだ……」


 ヘダムはシェリウを一瞥すると答えた。


「しかし、お前はシェリウとは本質的に異なるのだ。その力を、無理に異なる道へと導く必要はない。まずは、力を自在に操ることができるように、ただひたすらに磨くのだ。やがて、美しく磨かれた鏡には、然るべき道が映ることだろう」

「はい」


 ユハは強く頷く。ヘダムも小さく頷いた。


「これで、我がここを去っても大丈夫だのう。このまま、研鑽を続けるがよい」

「この屋敷を去られるのですか?」


 ユハは驚き、思わず腰を浮かせた。


「うむ。明日、西へ帰る」

「それはまた急なお話ですね。まだご教授いただきたかったのですが……」 

「いずれまた会える」


 ヘダムの答えに、ユハは微笑んだ。


「はい。きっとお会いできると信じています」

「会えるとも。これは約束された導きなのだから」

「導き……、ですか?」

「我は予感に導かれて、アタミラを訪れた。そして、お前に出会った。その導きは今も道を示している。その先に、お前が立っていることは間違いない」


 ヘダムは、特に力を込めることもなく、静かな口振りで言った。ヘダムには、自分には見えない何かがはっきりと見えているのだろう。それが、その言葉に確信をもたらしているのだ。ユハは、居住まいを正すと言った。


「それでは、またお会いしましょう」

「うむ。また会おう」

「老師ヘダム。本当に、ありがとうございました」


 ユハは、深々と一礼した。





 屋敷での日々は、安楽に満ちていた。


 ナタヴの客人として迎えられたユハとシェリウは、この屋敷ですることは何もない。着替えでさえ使用人が手伝おうとするので、ユハは驚いたものだ。あまりに何もする必要がないために、使用人たちに家事を手伝うと申し出ると、客人にそんなことはさせられないと必死の形相で断られてしまった。


 とはいえ、彼女たちはこれまでの日々を全く無為に過ごしていたわけではない。


 週に数日、アティエナやティムナに、聖典や様々な教典について講義をすることになっていた。


 もっとも、その講義は、ユハが教えるわけではない。その役目は、シェリウが受け持っていた。


 シェリウは修道院にいた時も、学僧の助手も務めていた。講師としてはうってつけの人物だ。しかし、ここで講義をするようになってから、時折、聖典に関して独自の解釈を披露してユハを冷や冷やさせていた。正統派の学僧が聞けば、異端だと怒り出しかねない解釈もあったほどだ。修道院を出た彼女は、どうやら本性を現しつつあるらしい。ユハは、頼もしいような、不安のような、複雑な気持ちになるのだった。


 そして今日は、講義の日ではない。


 のんびりとした午後を、アティエナと三人で、茶を楽しんでいる。 


 香茶と菓子と共にお喋りをしながら楽しく過ごす。当然のことながら、修道院にいた頃にはこんな風に茶を楽しむということはなかった。この心和むひと時を、ユハはとても気に入ってしまった。このままこの生活を続けていると、もう修道女の生活には戻れないだろう。お茶会を楽しむ一方で、そんな恐れや不安と葛藤することになる。


 アティエナはよく喋る。ユハとシェリウは屋敷の外に出ないために、彼女は二人に屋敷の外の話をしてくれた。もっとも、アタミラのシアート人社会の話であるため、一般的な市井の民の話とはいえないだろう。物心ついた時から修道院で暮らしてきたユハには想像できない、裕福で優雅なシアートの人々の日常は、彼女にとって半ばおとぎ話のように聞こえる。


 今日の話題は、アタミラで流行する娘たちのお洒落が中心だった。アティエナは、外城で暮らす娘たちの華やかさについて熱く語っている。


「ウルスの人たちの間で流行っている髪飾り、とても可愛いと思うの。だけど、お母様は下品でみっともないって言うのよ。ユハ、どう思う?」

「市井の流行については私には分からないので……」


 そう問われたユハは、返答に困って首を傾げる。


「私ね、修道女だってお洒落をしてもいいと思うの」


 アティエナは身を乗り出して言った。質素であるべし。それが修道女の戒律だ。それを頭から否定されてユハは思わず目を丸くする。


「だって、聖女王陛下も、エルムルア様も、花飾りを贈られて、それをずっと身に着けていたでしょう?」


 それは、花の冠、と呼ばれている。聖女王とシアート人の聖人エルムルアが奴隷の娘を救った時、その娘から花飾りを贈られた。聖女王は、受け取った花飾りに魔力を付与して、生ける花の冠としたのだという。


「聖女王は、花飾りに手を加えて花の冠を造られた。そして、それで身を飾った。つまり、聖職者がお洒落をすることは許されていると思うの」


 アティエナは力強く語る。二人は顔を見合わせて、彼女の斬新な解釈に苦笑した。


「アティェナ様、それは……」


 シェリウが、小さく手を上げながら言う。


「あの御方が花の冠をつけたのは、最も貴きものは宝石ではなく、人の心であることを知らしめるため。そして、貧しき奴隷の身であろうとも、気高き魂を持っていたその娘の徳を讃えるためなんです。決して、その身を美しく飾るためではないんですよ。着飾ることは虚栄の病につながります。また、美しい服や宝飾品を求めることで、飽くなき強欲の病に侵されてしまうでしょう。だからこそ、私たちは質素であることに努め、病を遠ざけるようにしているんです」

「そういうものなのかなぁ……」


 アティエナは腑に落ちないようだった。


「人は誘惑に弱いものです。どんなに誠実だと言われた人も、金や権勢といったものに惑わされてしまいます。これまで、どれだけの僧が誘惑に負けて道を誤ったか知れない。だからこそ、私たちは常に己を律していなければならないんです」

「あなたたちもなの?」

「そうですね。私は、このお菓子をずっと食べていたいという誘惑と戦っています」


 ユハは手に持った菓子を掲げると、憂いに満ちた表情で溜息をついた。そのおどけた仕草に、アティエナは大きな声で笑う。


「お菓子を食べる時も戒律を考えないといけないなんて、本当、修道女は大変ね」


 ユハも、シェリウもつられて笑った。


「でも、だからこそ、尊敬できる……」


 ふと真顔になったアティエナは、呟くように言う。しかし、すぐに笑顔に戻ると、二人を見た。


「そういえば、お爺様から手紙が届いたの」

「ナタヴ様から? 碧き岸辺からお戻りになるのですか?」


 この屋敷の主であるナタヴは、しばらく前から碧き岸辺と呼ばれる西の地方へと旅立っていた。ユハたちは商用だという話を聞いている。


「ええ。仕事が終わったから、こちらに戻ってくるそうね」


 アティエナは頷く。


「お爺様はアタミラの西に別荘をもっているのだけど、そこで身内を招いて宴を催すことになったみたい。ちょうど、帰る途中の道だから、そこでそのまま宴に出席するつもりだって書いてあったわ。それで、お母様と私も行く事になったの」


 別荘で宴を催すなど、自分たちの生活とはあまりに別世界のことで、ただ感心するしかない。


「それで、お爺様が、あなたたちも招待したいって。一緒に来ない?」

「ええ、私たちも?」


 ユハは驚きの声を上げる。


「そうよ。ユハもシェリウもずっと屋敷の中にいるだけではつまらないでしょう? 別荘はとても良い所なのよ。一緒に行きましょう!」


 アティエナは、笑顔でユハの手を取った。


「でも、私たちはこの屋敷を出るわけには……」

「大丈夫! それもちゃんとお爺様が手配してくれるって。招かれているのも身内ばかりだから、あなた達は何も心配しなくていいわ」


 ユハはシェリウと顔を見合わせた。彼女の表情が、微かにだが、曇っている。何かを警戒しているようだ。


「シェリウ……」

「あ……、ごめんなさい。やっぱり、心配?」


 ユハとシェリウの間に漂う空気を感じ取ったのか、アティエナが不安げな表情で問う。


「いえ、アティエナ様。せっかくお招きいただいたのですから、断るのは失礼です。ね、ユハ」


 頭を振ったシェリウは、微笑むとユハに顔を向ける。


「そうですね。アティエナ様。是非、ご一緒させてください」


 ユハは、アティエナに頷いて見せた。

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