第2話
淡い光を放つ、一本の線を頼りに歩く。
背中に負ったシェリウは、規則正しい呼吸を続けていた。まだ意識は戻っていないが、背中越しに感じる体温と生命の力から、傷は癒えてすでに危険な状態ではないことが分かる。
聞こえてくる声が、ユハを導いている。その声は確固とした言葉としてユハの中に聞こえてくるわけではないが、伝えようとする意思をはっきりと理解することができた。
声に急かされて早足で歩くユハの前で、道は二つに分かれた。法陣から伸びた線が続く淡い光に照らされた道と、暗闇に呑み込まれた道。右手にある線が続く道は、どうやらさらに地下へとくだっていくらしい。ここからでも傾斜が見て取れた。一方の左手にある暗黒の道は、ここからでは何も見ることができなかった。
導いてくれている声の主は、線の続く先にいる。そのことは奇妙なまでに確信できる。だが、その声は、ユハを左の道へと導いている。ユハとシェリウが大聖堂にやって来た時、声はユハを呼んでいた。しかし、今は違う。声の主は、彼女たちをここから逃がそうとしていた。ここに来てはいけない。出て行くことができなくなる。そう告げている。ユハは声の主に会いたいという気持ちは変わっていない。魂が、求めているのだ。
しかし、魂の欲求に従って、己の、そして何よりシェリウの命を危険にさらすような愚かなことはできない。
ユハは迷ったが、声の導きに従うことにした。
意を決すると、シェリウを背中からおろして壁にもたれ掛からせる。
指で小さく印を組むと、聖句を唱えた。
「光あれ」
広げた手のひらから、球状の光が生じて浮かび上がった。その白い光は、それほど眩くはないが、照明としては充分だろう。ユハは癒しの術以外の魔術はそれほど得意としていなかったが、
「よし」
ユハは短く息を吐くと、己に気合を入れて頷いた。再びシェリウを背負う。
魔術の灯りを頼りに、暗黒の中へと踏み込む。光の線から逸れた途端、全身にみなぎっていた力は徐々に薄れていった。
暗い通路を随分と歩いている。すでに全身に満ちていた力は消えうせ、背中の重みが疲れを誘う。しかし、修道院の生活でも荷運びは日課のひとつだ。大きな水瓶や穀物の入った袋を持って村と修道院を行き来することを考えれば、耐えることができるだろう。
己の足音と、シェリウの吐息。耳に入るのはその音だけだ。時折立ち止まり、追手の気配がないか耳を澄ますが、今のところ背後からの音は聞こえない。もっとも、足音を忍ばせて追ってくるのならば、ユハにそれを知る術はないのだが、その最悪の事態については考えないようにしていた。
何度目か、立ち止まった時、シェリウが耳元で小さく声を発した。ユハはそれに気付き、再びシェリウを壁にもたれ掛からせる。静かに見守っていると、ゆっくりと目を開いた。
「あ……、あれ、ここ、どこ?」
シェリウは灯明の光が眩しいのか、目を瞬かせた。
「シェリウ、大丈夫?どこかおかしな所はない?」
ユハはそっとシェリウの顔に触れる。シェリウはそこでようやくユハに気付いたようだった。驚きの表情を浮かべ彼女を見る。
「ユ、ユハ、どうして……。あれ、あたし、何ともない。どうして?」
腹に手を当てて己の体を見下ろすシェリウ。ユハは微笑むと頷いた。
「大丈夫。私が癒したから」
「癒したって……、お腹に大穴が開いてたのよ。自分でも、死ぬって分かったもの。いくらユハでも無理よ」
「もちろん、私の力だけだと無理だった。でも、声の主が助けてくれたの」
あの時、自分に流れ込み、ここまで助けてくれた大いなる力。それが、声の主の力だということが今では理解できる。
「あの、法陣に満ちていた力、あれか……」
シェリウは呟く。
「あいつらは、あの魔術師たちはどうしたの?」
「分からない。魔術の壁が阻んでくれていたから、何とかここまでこれたけど……」
ユハはその問いに頭を振る。
「どうしてあたしを置いていかなかったのよ。もっと早く先に進めたはずよ」
シェリウはユハの肩を掴むと責めるように言う。その言葉に、ユハの顔は歪む。耐え切れなくて、目から涙が溢れ出した。
「置いていけるわけないじゃない、シェリウの馬鹿!!」
ユハは思わず叫んだ。見つめるシェリウの目にも涙が溢れ出す。
「ごめんね。助けてもらったのに馬鹿なこと言っちゃった。ありがとう、ユハ」
シェリウは、ゆっくりと手を伸ばすと、ユハの髪を優しく撫でた。
「怖かった。シェリウが居なくなると思って、本当に怖かった」
ユハは泣きながらシェリウの体を抱きしめる。シェリウも、ユハの背に手を回すと力をこめた。
「あんたを守るって言ったのに、守られちゃったわね。情けないなぁ……」
シェリウは天を仰いで溜息をついた。
「私が守られてばかりだったもの。少しは立場が変わってもいいんじゃない?」
ユハは、涙を拭いながら笑みを浮かべた。シェリウもつられて口元を緩めると、頷く。
「そうね。たまには助けてもらうのも悪くないかな……」
小首を傾げると、辺りを見回す。
「そういえば、法陣の線が消えてる。だから真っ暗なんだ」
「うん。途中で、通路が二つに分かれていて、線がない道に行くように言われたの」
「言われた……。ユハにだけ聞こえてくる声のこと?」
「そう。シェリウを助けた力はもう途切れてしまったけど、まだ声は私を導いてくれている。今もね」
「あんたを呼んでいるのよね?」
「最初はね。でも、今は違う。早くここから逃げるように外に出る道へ導いてくれているのよ」
「ということは、今は、声の主からは離れつつあるってことね」
「うん」
「そういうことか……」
シェリウはこめかみに手を当てると何かを考えているようだった。そして、おもむろに顔を上げる。
「正直言って、あたしは、あんたが言う声の主とやらをあまり信用していなかった。ユハを惑わせようとしている悪霊か何かだと思っていたんだ」
「悪霊、って、そんな……」
「仕方ないでしょう、声はあんたにしか聞こえない。呼ばれて降りていった場所には聖女王の写し身がいて、聖導教団の魔術師に殺されかける。これで信用できると思う?」
「それは……、悪かったって思ってるよ。シェリウを酷い目にあわせてしまった。シェリウを連れて行かなければこんなことにはならなかったはずだし……」
ユハは罪悪感からうつむいた。シェリウは苦笑するとユハの頬を軽く叩く。
「勘違いしないでよ。別にあんたを責めてないわ。付いて行くって言ったのはあたしだもの。ユハが一人だけで行っていたら、今頃どうなったか、想像してみてよ」
「考えたくない」
シェリウの問いに即答する。
「でしょう。とにかく、あたしも声の主を信じることにしたわ。さあ、早くここから出ないと」
ユハは、その言葉に笑顔で頷く。二人は立ち上がった。
「ちょっと待って」
シェリウは鋭い目つきとなると、指を唇に当てて沈黙をうながした。
暗闇の向こうから、音が聞こえる。金属の鳴る音、石の床を走る複数の足音を隠そうともしていない。
「追っ手だ」
シェリウの表情が強張る。
「ああ……、私は馬鹿だ。子供みたいに泣き叫んで、居場所を知らせちゃった……」
ユハは頭を抱えて己の愚かさを呪った。
「嘆いていても仕方ない。走るよ!」
シェリウが強くユハの手を引く。
二人は駆け出した。
導いてくれていた声が遠ざかっていく。
やがて、肌に感じる空気が変化した。ゆるやかだが、風も感じる。道が、上り坂になり始めていた。出口が近い。そう直感する。
いつか戻ってきて。最後に、そう聞こえた気がした。
絡まる蔦をかきわけながら、二人は外に出た。
すでに、日は沈んでおり、周囲は暗い。灯明の明かりに照らされたのは、古びた礼拝堂だった。ユハは、自分たちが出てきた建物を振り返る。それは使徒を祭った
この礼拝堂と祠に人が通わなくなって久しいようだ。敷地は荒れ果てている。ユハは、冷たい夜の空気を吸い込んで、荒い息を落ち着かせた。
礼拝堂から出ると、そこは街の一角だった。
「ここ、どこだろう」
ユハは辺りを見回す。すでに日が暮れており、王都の土地勘がないために、ここがどこなのか、全く見当がつかない。
「少なくとも円城の中じゃないわね」
シェリウは答える。確かに、町並みからすると円城の外に広がる市街地だろう。家屋の密集する狭い道は、円城の中では考えられない。家屋の影が重なりあって、細い道は暗がりの中に沈んでいる。それがまるで逃れてきた地下道の続きのようで、とても恐ろしく、不気味に感じた。ふと顔を上げて遠くを見てみれば、ここからでも、円い城壁が月光を浴びて淡く輝く姿を見ることができる。
「お城があんなに遠くにある……。あの運河の下をくぐってきたんだね」
ユハは驚きの声を上げる。
「あれだけ走ったんだもの。そりゃあね」
シェリウは苦笑した。
現在位置も分からないまま、二人は歩き始める。できるだけ早く遠くへ行かないといけない。そんな焦燥感が彼女たちを急きたてた。
「これからどうしよう」
歩きながら、ユハはシェリウに顔を向けた。
「もうシア・ラフィーン尼僧院には戻れない。でも、イラマール修道院に戻るには荷物もお金もないわね」
シェリウは、答えると溜息をついた。大聖堂には身一つで向かったために、二人は着の身着のままでここにいる。しかもその服は魔弾受けたことによって傷つき、破れている。ユハは袖が破れている程度だが、シェリウは腹の部分に大きな穴が開いており、素肌が見えている有様だ。
「私たちがイラマール修道院に戻って、大丈夫かな」
自分の立場を考えると、罪人が戻ってくるようなものではないか。それによって迷惑をかけてしまう。ユハはそれを憂慮していた。
「私たちは見てはいけないものを見てしまった。それは確かね。でも、逆に言えば、あの偽りの人形はいてはいけない存在。だから、私たちを捕まえる理由をどうやってでっち上げるか。それによって色々と変わってくると思う」
「あの人は、つまり……、偽者ってことだよね。その、聖女王陛下の……。どうして偽者が必要なの?」
「本物がいないからよ」
あっさりと答えるシェリウを、ユハは驚きの表情で見やる。
「ほ、本物がいないって、いつからいないの?」
「尼僧院の書庫で言ったでしょう。ウル・ヤークスが、聖女王の教えを奉じながら戦争を繰り返してるって。もうずっと昔から、ウル・ヤークス王国に聖女王はいないのよ。そして、それを良いことに、教会が『聖俗の治』を唱えてから、ウル・ヤークスは教会の教えとは裏腹のことをしている」
『聖俗の治』とは、聖王教会が人々の魂を治め、ウル・ヤークスと元老院が俗世界を治める、という宣言のことだ。事実、聖王教会はあまり政治に口を出すことはない。
「だとしたら、聖女王陛下はどこにいらっしゃるの?」
ユハは、最悪の答えを想像しながら問う。
「それは……、あたしには分からない。だけど、推測はできるわ」
「推測でいいから、教えて」
「ごめん。確証があるまで、いい加減なことは言えない」
シェリウは厳しい表情で頭を振った。
その時、背後から大きな声が響いた。
驚き振り返ると、通りの向こうから数人の人影がこちらに駆けてくる。
「もう追いつかれたの?」
シェリウがうんざりした顔で溜息をつく。どうしてこんな状況で落ち着いていられるのか理解できずに、ユハはひきつった表情で言った。
「早く逃げよう」
「そうね。もう走りたくないけど」
うなずくと、走り出す。
幾つもの角を曲がり、屋根の下をくぐり、階段を下りる。暗がりでは足下もよく見えない。何度も転び、何かを蹴飛ばし、壁に衝突した。自分たちがどこに向かっているのかも分からずに、闇雲に走る。しかし、追っ手を振り切れてはいない。確実に背後から迫る音が聞こえてきた。
やがて少し大きな通りに出たとき、ユハは通りがかった荷車に激突した。勢いよく駆けていただけに、派手に背後に倒れこむ。シェリウが慌てて駆け寄った。
ユハは苦痛のうめきとともに顔を上げる。一人の男と目が合った。
その男は、ユハが激突した荷車を引いていたようだった。美しい顔立ちの青年だが、驚くほど無表情だ。こんな夜中に突然飛び出してきて荷車にぶつかってきたのだ。こちらを怪しんでいるのだろう。無理もない。
「あ、ご、ごめんなさい。怪しい者ではないです」
慌てて言うユハの言葉にも何の反応も示さない。
通りの向かうから男たちの鋭い声がする。その距離は近い。その声にユハとシェリウは表情を強張らせて振り返った。
男はそちらの方向を一瞥した後、ユハたちを見やった。ユハはその視線に気付くことなく立ち上がろうとするが、よろめいて地面に手をついた。
「どうしよう、もう追いつかれるよ」
荒い息の中、何とか言葉を絞り出す。いくら体力に自信があるとはいえ、限界がある。あとどれだけ走ることができるのか、期待できそうもない。
「なに言ってるのよ。とにかく、逃げないと、いけない……」
答えるシェリウも、息も絶え絶えとなっている。
二人は、目の前の男が荷車の上の荷物を地面に放り出していることに気付いてそちらに顔を向けた。
男は地面に荷物を散乱させると、荷台の上に残った大きな箱を指差した。上が開け放たれた、単純な造りの箱だ。
「この中に寝そべるんだ」
「え?」
何を言われているのか理解できずに、ユハは男を見上げる。
「追われているんだろう?この中に隠れろ」
「それは……」
シェリウためらう様子をみせる。
「ありがとうございます」
ユハはシェリウの手を引っ張る。
「ちょ、ちょっと、ユハ」
「もう、逃げられないんだよ。この人に頼ろうよ、シェリウ」
自分たちはもう走ることができない。今はこの男を信じるしかなかった。
「仕方ないわね……」
ユハは頷くと、男に小さく一礼した。
その箱は大きい物だったが、さすがに女二人が入る分には窮屈だ。身を寄せ合って箱の底に寝そべる。
男は、二人が箱の中に入ったのを見届けてから、その上に幾つかの麻袋を放り込んだ。二人の姿は完全に隠れるが、単純な造りのために、板の隙間から外を覗くことができる。
通りに三人の男たちが飛び出してきた。上等な純白の上衣を身にまとい、剣を携えている。大聖堂の前で会った男たちを思い出す。月輪の騎士だ。
月輪の騎士たちは、目の前で散乱している荷物に面喰った様子だった。
「ああ、申し訳ありません、旦那方」
男は、慌てた様子で荷物を拾う。
「何をしている」
厳しい口調で、騎士の一人が聞いた。
「その、通りから女が二人、飛び出してきたんです。で、うちの荷車にぶつかって、荷物を散らかして逃げて行きやがったんでさぁ。とんでもねえ女共だ、全く」
男はぶつぶつと罵り言葉を呟きながら荷物を拾い続ける。
「おい、その女というのはどちらに逃げた!」
一人の騎士が男の腕を掴む。男は怯えた表情で通りの先を指差す。
「あ、あちらに逃げて行きましたが……」
「そうか。しぶとい奴らだ」
「何をやった奴らなんで?」
男の問いに、騎士は舌打ちする。
「お前が知る必要はない。行くぞ!」
月輪の騎士たちは、頷き合うと駆け出した。
彼らが通りの先に消えて行くのを見届けて、ユハは大きく安堵の溜息をついた。
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