第12話

 その部屋の窓からは、外がよく見えた。


 大聖堂の五階に位置するこの部屋からは、大聖堂の中庭やそこに面した回廊などを見ることができる。ユハはしばらくその景色を眺めた後、席に戻ったが、シェリウは眺めると言うにはあまりに熱心に外を見ている。観察している、という表現が相応しいだろう。


 智慧の使徒と面会した後、ムアムは、大司教に面会の許可を得るために去り、ユハとシェリウをこの部屋に残した。


 彼女たちが待つ部屋は 白い漆喰の壁が涼やかで、調度品も派手ではないが上品な物だ。荘厳で、時に華美にさえ感じられる大聖堂の中では、質素で落ち着いた印象を受ける。ユハは初めてこの部屋に入った時、なぜか懐かしさを感じた。


 卓上には、よい香りがする茶が置かれているが、二人とも手をつけていない。シェリウが、飲まないようにと強く言ったからだ。


 ユハは、椅子に座ったままうなだれていた。大聖堂に入ってからずっと感じてきた力は、増す一方だ。この魂に直接触れてくる力によって、ユハは高揚と不安に苛まれている。高熱にうなされていることにも似た感覚だったが、癒しの術で治療することはできない。


 振り返ったシェリウは、ユハの元に歩み寄る。肩に触れながら膝を折って、ユハの顔を覗き込んだ。


「ユハ、あんた本当に大丈夫?」


 ユハは、横目で弱々しい視線を送る。


「大丈夫……、じゃなくなってきたかも……」


 頭が重く感じ、顔を上げることができない。言葉も、一語一語を絞り出すようにして口に出す必要があった。


「ここを出よう」


 シェリウは、短く、しかしはっきりと言った。


「でも、ムアム司祭を待たないと……」

「ムアム司祭なんて関係ない。ここにいると、ユハによくない。大聖堂ここを出よう」


 シェリウは、強い意志を宿した目でユハを見つめる。


「そんなの、失礼だよ……」

「失礼なんて言ってる場合じゃないでしょう。今の自分の状況が分かってるの?」


 ユハは答えずに、目を閉じた。魂に響く力が強くなっていく。


 どこからか、声が聞こえる。その声は不明瞭で、何を言っているのかわからないが、確かにユハに届いた。そして、声は、徐々に大きくなっていく。


「呼んでる……」


 思わず呟く。魂から沸き起こる衝動に突き動かされて、半ば無意識に立ち上がった。シェリウが、驚き後ずさるが、ユハには見えていない。


「ユハ?」


 呼びかけるシェリウを顧みることなく、ユハは覚束おぼつかない足取りで壁に近づいた。朦朧とするなかで、意識の焦点がそこにある。ユハは、ゆっくりと手を触れた。


 漆喰の壁に光の枠が生じ、ゆっくりと開いた。微かに埃が舞う。そこには、階下へと降りていく階段があった。


「これは……」


 シェリウが息を呑む。


 階下へと風が吹きこむ。背後からの風に髪を撫でられて、ユハは我に返った。未だ声は聞こえる。魂に触れてくる力も感じている。しかし、高揚と不安は消え去っていた。澄み切った思考の中で、自分のするべきことがはっきりした。目の前に開いた扉に何の違和感も感じることはなく、ごく当然のこととして受け入れている。己の魂に届く声に耳を傾けながら、シェリウを振り返る。


「誰かが呼んでいるの」

「呼んでいる?」


 シェリウは怪訝な顔で首を傾げる。


「そう。その人は、私を呼んでいる」


 ユハは確信に満ちた表情で頷いた。シェリウは困惑した様子でユハを見つめた。


「私は、この先へ行かないといけない。その人に会わなければいけないの」

「ユハ、あんた……」


 シェリウは何か言いかけて口を噤む。大きく溜息をつくと、頷いた。


「分かった。私も一緒に行く」

「ありがとう」


 ユハは微笑むとシェリウの手を握った。


 二人は階段を下りる。


 途中にはいくつか窓があり、乳白色の硝子ごしに、日光が差し込み足下を照らしていた。長い間、誰も通っていなかったのか、うっすらと埃が積もっている。二人が歩くたびに、日の光の下で舞い上がる埃が見えた。


 浅い斜度の階段は、曲線を描きながら下へと続いている。


「長い階段だね……」

「随分歩かされてるわね。ゆるやかな階段だからはっきりしないけど、多分、一階くらいまでは下りて来ているはず」


 ユハの言葉にシェリウは頷く。


 どこまで下るのかと思い始めた頃に、扉が待っていた。それは、重厚な黒檀でできた扉だった。ユハは、躊躇うことなくその扉に触れる。


 僅かな力で扉は開いた。


 そこは、八角形の部屋だった。ユハが開いた扉のほかに、三つの黒檀の扉がある。そして壁の一面だけは、扉がなく、通路が続いているようだった。この部屋に窓はなく、部屋全体が淡い青白い光で照らされている。天井は低く、大きな石で組まれており、圧迫感がある。


 部屋の中央には、複雑な意匠が彫りこまれた、岩を削りだした椅子があった。その周囲には、椅子を中心として法陣が描かれている。この部屋を照らす光源はこの法陣だった。椅子に彫りこまれた意匠と同様の図案が床に円状に描かれており、それが青白い光を放っている。その法陣から一本の線が伸びており、それは壁に開いた通路の先へと続いていた。


 ユハは法陣は専門外だったので詳細は分からなかったが、そこに描かれた術式は、何らかの力を集めて送り込むものではないかと推測する。


 椅子には、一人の女が腰掛けている。ウルス人のように見えるその女は、おそらくは二十代半ばだろう。目を閉じて、眠っているように見えた。ユハは、その女の顔を見て驚きの声をあげた。額から両頬にかけて、渦巻きやつたを連想させる美しい曲線の、銀色の紋様が描かれていたからだ。そしてそれは、ただ描かれたものではない。風で枝葉がしなるように、紋様も小さい動きながら、しなやかに波打つように彼女の頬の上で踊っていた。


 この紋様をもつ女性はただ一人しかいない。それは、聖典にも記された、大いなる魔力の証。


「聖女王陛下……」


 ユハはその名を口にする。


「違う。その人は聖女王陛下じゃない」


 シェリウの強い否定の言葉に、思わず彼女の顔を見た。シェリウの表情は厳しい。


「聖女王陛下じゃない?」

「そう。その人は、聖女王陛下のうつし身……」

「写し身って、どういう意味?」

「聖女王陛下の力の欠片を似姿にはめこんだ、まがい物のことよ」 

「まがい物って……」


 シェリウの棘のある言葉に、ユハは驚く。


 椅子に座る女が目を開いた。その双眸はあざやかな碧眼だった。沈黙する二人を見ると、おもむろに口を開く。


「おはようございます。調律は終了しましたか?」


 発せられたのは明るい声だったが、奇妙なまでに無表情で、それが違和感を感じさせた。確かに、ユハが想像していた聖女王とはかけ離れた雰囲気をもった女性ではある。


「すみません、私たちは初めてここに来るんです」


 もしかしたら聖女王かもしれない人にこんな話し方でいいのだろうか。そう思いながら、おずおずと答える。


「そうですか。私は今、調律を受けている途中です。ここを離れることができません」


 女は、変わらず表情を変えることなく言う。その反応に困る答えに、ユハは戸惑ってシェリウに顔を向けた。シェリウは小さく頷く。


「あの通路はどこに続いているのですか?」


 シェリウは、光る法陣から伸びる線が消えていく通路を指差した。女はそちらを見て、再び二人に顔を向ける。


「はい。調律は順調です。力が満たされています」

「だめだ。この人は、人形ね……」


 シェリウは溜息をつくと頭を振った。ユハも、この女が聖女王ではないことが理解できた。紛い物、人形。恐ろしい単語だが、確かにその表現は当たっているように思える。彼女から凄まじい魔力を感じることができるが、その魔力は、ただこの女のなかに入っていくだけのようだ。まるで、魔力の入れ物のように。


「お前たち、何をしている!!」


 鋭い声に、ユハはそちらを向いた。銀糸で彩られた黒い長衣を着た若い男が、ユハとシェリウを睨み付けながら歩み寄ってくる。その左右には、仮面をかぶった者たちが従っていた。彼らの背後では、黒檀の扉の一つが開け放たれている。


「あ、あの……、私たちは……」


 ユハは狼狽しながらも一歩前に進み出る。その肩を、シェリウが掴んだ。


「お前たち、彼女と話したのか?」


 男が椅子に座る女を一瞥して、二人を見る。


「はい。調律が順調であると報告しました」


 女が答えた。その瞬間、男の目が細められた。ユハたちを指差す。


「捕らえろ」


 短く冷然とした言葉。左右に立っていた仮面の者たちが早足で二人に向かってくる。


 シェリウがユハの前に立った。


 シェリウは、聖句を二言三言唱えると、腰に巻いた飾り帯をほどく。次の瞬間、その帯は空中に舞い上がった。美しい刺繍が施された帯は、伸び、無数に枝分かれし、縦横に奔る。まるで籠を編むように、格子状に広がり、二人の前で色鮮やかな壁となった。格子の隙間から、仮面の者たちが壁の前でたたらを踏むのが見える。


 ユハは驚きのあまり声を発することもできない。シェリウが魔術を修めていることは知っていたが、修道院ではその力を見せたことはなかった。学問のついでに修めているものだと思っていただけに、この強力な魔術は予想外だった。


 仮面の者たちが手を伸ばす。しかし、触れた場所が微かに赤い光を発し、熱い物に触れたかのように仮面の者は手を引っ込めた。


「ユハ、逃げるよ!」


 シェリウが叫ぶ。ユハはその声に我に返った。


「に、逃げる?」

「そう、その通路へ、早く!」


 光の線が延びる通路を指差す。


「逃がさんぞ。お前たち、どけ!」


 男の指示に、仮面の者たちは、後ろに下がる。男は、呪文を唱えながら、懐から何かを取り出し顔の前に掲げる。手を離すと、そこには宙に浮いた三つの小さな水晶玉があった。


「まずい……。魔弾だ」


 シェリウが顔を歪めた。聖句を唱えながら、掌を男たちに向ける。


 次の瞬間、水晶玉がまばゆい光を帯びながら次々と飛び出した。立ち塞がる帯の壁に激突する。


 まるで長柄の木槌で殴りつけたように、魔術の壁が赤い光を発しながら激しく震えた。水晶玉は光を減じながら男の手元に戻る。


「思ったよりも堅牢だな。本気で挑まねば破れないか」


 男は冷然とした表情を崩さず、再び水晶玉を握って顔の前に掲げた。


 シェリウは必死な表情で聖句を唱え続ける。その額には汗が浮かんでいた。


「さあ、力比べだ……。いくぞ」


 男が告げる。そして、水晶玉が放たれた。一段と光を増した魔弾は、壁に迫る。


 激しい衝撃で壁が震える。


 次の瞬間、ユハは左腕に灼熱を感じて悲鳴をあげた。法衣が破れ、上腕が深くえぐられている。黄色がかった脂肪と赤い肉、そして骨らしきものが見えた、と思った瞬間、激しく血が噴出して傷口を隠した。


 目の前に立つシェリウが、震えていたかと思うと、崩れ落ちた。力無く横たわる体の下に、みるみる赤黒い血溜りが広がっていく。


「ああ、シェリウ、シェリウ、シェリウ!!」


 ユハは己の傷のことも忘れて、叫びながらシェリウににじり寄った。


 魔弾は、シェリウの腹部を貫通していた。覗き込むユハを、シェリウは見上げる。その顔は苦悶に歪んでいた。


「う、あ……、やられちゃった……」

「シェリウ、黙って、怪我がひどくなるから!」


 ユハはシェリウの傷を観察しながら叫ぶ。法衣を脱がさなければ、どれだけの傷なのか分からない。しかし、内臓が傷ついていることは確実だろう。


「さすが聖導教団の魔術師……。私の力じゃかなわない……」

「いいからシェリウ!」

「この壁は……、貫かれたけど、まだ残ってる。ユハ、今のうちに早く逃げて……」

「馬鹿なことを言わないでよ!!」


 答えるユハの声は半ば金切り声になり、その目からは涙が溢れ出る。目の前のシェリウから大量の血と、そして命がこぼれ落ちていくことが感じられる。恐慌をきたさないように必死で自分を叱りつけながら、癒しの術を使おうと両手をあげた。しかし、左腕に力が入らない。


 シェリウが、小さなうめき声とともに意識を失った。


「ああ、お願い、動いて、動いて」


 大きな癒しの術を使うためには、両手を当てて己と患者の間に癒しの力を循環させる必要がある。ユハは血にまみれた左腕を右腕で導き、シェリウの体に触れさせた。


 溢れ出るユハの血が、光る法陣の線に垂れた。


 次の瞬間、法陣の光が増した。これまで淡い光だった法陣が、まるで稲光のように激しく発光する。


「何だ、何が起きている!」


 男が叫ぶ。


 ユハは、目を大きく見開いた。自分の中に、大きな力が流れ込んでくる。


 シェリウの傷の深さが瞬時に理解できた。そして、それを癒すために必要な力も。癒しの力をシェリウに送り込む。同時に、己の腕の傷も癒す。普段の自分ならば絶対に不可能な技だが、今はそれができると確信できる。


 僅かな時間で、シェリウの、そしてユハの傷は癒えていた。術を使った後の疲労感も、全く感じない。


 声が聞こえる。


 ユハは顔を上げた。声が、自分を導いてくれる。


 意識を失ったままのシェリウを抱え起こすと、背負う。体の奥底から力が湧き出てきて、重さを感じることはなかった。


 背後で男が叫んでいる。


 ユハはその叫びを無視して、シェリウを負ったまま駆け出した。







「問答無用で殺そうとしたのですか」


 ムアムは、床に広がる血と、傷だらけとなった飾り帯を一瞥して言う。その声は憤怒を押し殺した厳しいものだ。


「捕らえようとしたのです。しかし、抵抗した。ならば殺すしかないでしょう」


 抗弁する聖導教団の魔術師はまだ若い。傍らに立つ中年の魔術師は、口を挟むことなくムアムと青年のやり取りを見守っている。


「殺すしかない?どうしてそれしか選択肢がないというのですか?」

「あの者たちは、写し身と話したのです。素直に従わずに魔術をもって抵抗するならば、秘密を守るために殺すしかありません」


 その答えを聞いて、ムアムは溜息をついた。


「ムアム司祭、どうして、そこまであの者たちの命にこだわるのですか?ただの修道女ですよ」


 これまで黙っていた中年の魔術師が、口を開いた。ムアムはその男に顔を向ける。


「よく考えてみなさい。彼女たちはあの扉を開けてここへやって来た。そして、法陣の力を借りて逃れることができた。その意味がわかりますか?」

「あの扉から……」


 二人の魔術師は開いたままの黒檀の扉を見る。


「あれは、“羽筆の間”へと続く扉……」

「その通りです。あの娘は、長い間、誰も開くことができなかったあの扉を開いた」


 ムアムは頷く。


「“分かたれし子”……」


 中年の魔術師が呟いた。その言葉を聞いて、青年は驚きの表情を浮かべる。


「ムアム司祭。あなたは、我々に黙って、大聖堂に“分かたれし子”を連れてきたということですね」


 中年の魔術師はムアムに視線を戻す。ムアムは小さく頭を下げる。 


「その点については謝罪します。しかし、あの娘は、確かに我らが捜し求めし者なのです」

「結論を出すには急ぎすぎていますね」 


 魔術師は頭を振る。


「“分かたれし子”の中でも、その素質の違いは大きい。その娘も、たまたま、偏った性質をもっているだけなのかもしれません。それは、調べてみなければはっきりとしないことなのですよ」

「あの娘のことは、智慧の使徒も認めたのです」

「智慧の使徒の言葉は、うかつに解釈すれば迷路に迷い込むことになる。あの曖昧な言葉をそのまま信じることは止めたほうが良いでしょう……。ムアム司祭、“分かたれし子”については、我々聖導教団に任せておいていただければよいのです」


 溜息交じりの言葉に、ムアムは鋭い視線を向けた。


「そうやってあなた達に任せて、どれだけの年月が経ったか知れない」


 ムアムは厳しい表情で言葉を続ける。


「我々は、どれだけ待てばよいのですか?」


 魔術師は、その問いに答えることはなかった。

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