第3話
ユハは、渡り板から地に降り立って、安堵の息を吐いた。
ようやく地面を踏むことができた。しかし、地上に降り立っても、船にいた時のように地面が揺れている。この奇妙な感覚がおかしくて、ユハは微笑んだ。
港は大勢の人々が行き交っていた。港といっても、ここだけでも小さな町ほどの規模がある。見たことのない数の人々が働く光景に、眩暈すら覚える。振り返れば、大きな船が何隻も浮かんでいた。その大きさから、まるで館が軒を連ねているように感じられた。
「ユハ、何してるの。早く、こっちよ」
シェリウの呼び声に、ユハは慌てて駆け出した。
「ちょっと待ってよシェリウ」
「待ってたら、いつまでたってもそこで呆けてたでしょ」
シェリウは、歩み寄るユハの手を握って歩き出す。子ども扱いだなあ。ユハは苦笑しつつも、その手を解けないでいた。
港は、市場と隣接していた。しかし、市場といっても、やってくる客のほとんどは商店を営んでいる商人たちだ。船から降ろされた積荷が集まるここは、いわゆる卸売市場である。山のように積まれた穀物の袋。壁のように重ねられた木箱。人と商品を満載して行き交う荷車。ユハの知る市場とは何もかも規模が違う。その物量と人の数の多さに、圧迫感を覚えてしまうほどだ。甘く爽やかな果物の匂いの中を通り過ぎたかと思えば、すぐに刺激的な香辛料の匂いの中を突っ切ることになる。様々な家畜が騒がしく鳴き、荷車の車輪が荒々しく街路を蹴りつける。目だけでなく、鼻や耳までもが、飛び込んでくる何もかもに圧倒されてしまった。
二人はこの混雑の中を歩く。手を繋いでいてよかった。ユハはシェリウの手を見て思う。この混乱の只中では、自分はすぐにシェリウとはぐれてしまうだろう。その点については絶対的な自信があった。
市場を抜けると、大通りへと道は続く。大通りの人出の多さも、祭りでもやっているのかと思わせるものだが、行きかう人々の様子からすれば、どうやらこれが日常らしい。育った村では見たことのない様々な服装、容貌の人々が行き交い、その姿に目を奪われてしまう。
「人が多い……」
ユハは思わず呟く。あまりに多い人の波を見ていると、頭が重くなってしまったように感じられた。
「聖女王の
シェリウは笑みとともに言う。タハトカは、ウル・ヤークス王国の北部にある古き街であり、シェリウの故郷だと聞いている。
「ええ……、そうなんだ」
ユハは顔をしかめた。
「そのうち慣れるわよ。私もそうだったもの」
「本当に?私には無理のような気がするなあ」
ユハは自信が持てずに首を傾げた。シェリウは微笑む。
「ユハだって、港町で船主を見付けて、ここまで乗せてもらうことができたじゃない。大丈夫よ」
「それはまた別の話のような気がするけど……」
ユハは、シェリウの的外れな励ましに苦笑しながらも頷いた。確かに、村を出てからの自分は、少し変わることができたように思う。村の修道院で暮らしていた頃には言葉でしか知らなかった広い世界が、行く先には広がっていた。そして、自分はその世界をしっかりと歩いてくることができた。勿論、傍らにシェリウがいなければ歩いて来ることができなかった道ではあるけれど。
二人が歩く中で、人の流れにざわめきが生じた。そのざわめきに不安や畏敬の響きを感じ取って、ユハは辺りを見回した。
人波を割ってやって来る者たちがいる。
その男は中年のウルス人だった。銀糸で彩られた黒い長衣を着ている。何より驚かされるのは、宙に浮いた絨毯の上に座っていることだ。宙に浮いた絨毯は、音も立てず、滑らかに街路を進む。その横を、二人の護衛らしき者達が随伴していた。彼らは仮面のような面をつけた兜をかぶり、彩りのない漆黒の長衣を着ている。その下には、鎧と剣がのぞいていた。
「聖導院の魔術師だよ……」
「あんまりじろじろ見るんじゃない。呪われてしまうぞ」
周囲の人々が囁きあっている。
聖導教団はウル・ヤークスの人々にとって得体の知れない存在だ。古くは聖典にもその名が記され、聖女王を助けてウル・ヤークス王国建国の力となった。しかし、その実態は定かではない。古の時代、この地を支配した巨人、そしてその後にやって来た“高貴なる人々”と聖王国の知識や秘術を伝えているというが、それを庶民が知る機会はなかった。それは、ユハも同じだ。田舎の修道院で暮らしてきたユハにとって、聖導教団は聖典の中の存在でしかない。
視線を移すと、シェリウが強張った表情で魔術師たちを見ている。
「どうしたの、シエリウ」
その厳しい表情に、思わず声をかける。シェリウは、我に返るとユハに顔を向けた。
「なんでもない。驚いただけよ」
シェリウはそう言って微笑んだ。ユハにはそれが取り繕った笑みのように見える。しかし、それ以上聞くことはできなかった。
魔術師達が行過ぎると、人々は緊張から解放されたように安堵の笑みを浮かべた。喧騒が戻ってくる。
「さあ、面白いものも見れたし、行こう」
「う、うん」
シェリウがユハの手を強く引く。その声はことさら張り上げたように感じ、握る手の力も強かった。
二人は街を歩く。やがて、遠くにあった第一の円壁が近くに見えてきた。この辺りは家屋が密集しており、道は複雑にはしっている。
「さて、大体この辺りなんだろうけど……」
シェリウは道の端で立ち止まる。どこからともなく、美しい歌声が聞こえてきた。
「ちょうど、教えてくれそうな兄弟達がいるみたいね」
ユハが言う。シェリウは頷いた。
「あっちね」
音に耳を澄ませながら、歌声にする方向へと歩く。
街角に、人々が集っていた。彼らは、その歌い手たちを囲み、その歌声に耳を澄ましている。その歌い手たちは、五人の僧侶だった。
彼らは群集に、教えの元に身を律することの大切さを朗々とした声で歌い上げている。説話と教えが、歌声だけの複雑な旋律によって響き渡っていた。
やがて、聖女王が奴隷の娘を助ける説話を歌い終えて、僧たちは一礼した。群集は大きく拍手と歓声で讃える。
ユハとシェリウは、僧たちに歩み寄った。彼女たちの服装を見て修道女だと気付いたのだろう。群集は皆、笑顔で頷くと道を開ける。
僧たちはユハたちに気付くと、笑みとともに一礼した。二人も同じように礼を返す。中年の僧が口を開いた。
「我らが姉妹たちよ。我々の歌を聞いてくれたようですね」
「はい、我らが兄弟たち。とてもすばらしい説法歌でした」
シェリウの言葉に僧は頭を振る。
「まだまだですよ。我々はもっと研鑽せねばなりません」
「それは私たちも同じです」
僧は頷くとユハとシェリウを見た。
「我らは民に、あなた方は己の中に聖なる力を見出しているのです。お互い頑張りましょう」
修道士と僧侶の違いは、その修行が己の内面に向かうか、外の世界に向かうかという方向性の違いだ。そうやって互いの役割を決めて、聖王教会の教えを修めている。とはいえ、厳密な違いではない。修道士も民衆を助けるし、教えを授けることもある。一方の僧侶も、己の内面を磨かなければ優れた法と徳を得ることはできないだろう。
「はい、ありがとうございます」
シェリウは答え、ユハは共に深々と一礼した。
「ところで、どちらから来られたのですか?」
「イラマールという村の修道院からです」
「イラマール……、申し訳ない。知らない名です」
「仕方ありませんよ、田舎の村ですから。ところで、シア・ラフィーンという尼僧院に行きたいのですが、この近くでしょうか?」
「おお、シア・ラフィーン。ムアム司祭が導いておられる尼僧院ですね。この近くですよ」
僧侶は頷くと手で示してみせる。
「道を教えていただけますか?」
「いえ、よければ案内しますよ。ついて来て下さい」
「ありがとうございます」
ユハとシェリウの礼に笑顔で答えると、僧侶は仲間たちに声をかけた。そして、仲間から離れると二人を導いて歩き始める。
狭い街路を抜け、溜め池の脇を通り、小さな市場の門をくぐる。そして辿り着いた先には、葉の繁った木々に囲まれた大きな寺院があった。確かに近い距離ではあったものの、道案内がいなければ辿り着くことができなかっただろう。
「それではここで。聖女王の加護があらんことを」
僧は笑顔でそう言って、立ち去った。
青い半球の屋根を連ねた白い寺院は、大小の木々の作り出す日陰もあいまって、とても涼しげに見える。
「ここかあ……。思ったよりも大きな寺院だね」
「そうね。シア・ラフィーンはアタミラでも古い尼僧院だから、もっと古びた寺院だと思っていたけど、綺麗な建物ね」
シェリウは、複雑な紋様が描きこまれた白い門を見上げる。ユハも同じように門を見上げた。その複雑な紋様は、聖なる教えを図式として表現したものだという。そこに込められた真意は、専門的な知識がある学僧にしか理解できないが、そこから発せられる魔力を感じることはできた。
「何か御用ですか?」
ユハやシェリウと同年代の少女が門から顔をのぞかせた。濃い緑色の僧衣を着ている。ユハは慌てて一礼した。
「こんにちは、私はユハといいます。こちらはシェリウ」
ユハの言葉に合わせてシェリウが一礼する。
「私たちはムアム司祭よりお招きを受けて、イラマール修道院より参りました」
「ムアム司祭のお招きを?大事なお客様なのですね。少々お待ちください」
少女はそう言うと駆け出す。
二人がしばらく待っていると、少女が早足で戻ってきた。
「お待たせいたしました、我らが姉妹たち。どうぞ、こちらへ」
少女に案内されたのは、見事な庭園だった。僧院の建物に囲まれた円形の中庭の中央には、噴水があり、その周辺を花や草が彩っている。建物に沿うように何本もの木が生えており、茂った葉が庭園を屋根のように覆っていた。
「こちらで座ってお待ちください」
少女が木陰になっている長椅子を指し示す。二人が礼を言って長椅子に腰掛けると、少女は笑顔で一礼して立ち去っていった。
「すごいなあ、うちの修道院とは大違いだね」
ユハは、辺りを見回して言う。
「田舎の貧乏修道院と一緒にしないでよ。広いことだけは自慢なのよ」
シェリウは苦笑すると肩をすくめた。
甘い鳴き声がして、二人はそちらを向いた。褐色の毛に黒い縞柄の猫がゆっくりと近付いてくる。猫は二人の匂いを嗅いだ後、ユハの足に顔をこすり付けた。ユハは人差し指で猫の額を優しく掻く。猫は目を細めて顔を上げた。
足音とともに、庭園に四人の尼僧が姿を現した。猫は、そちらに顔を向けると、尼僧たちの元へ駆ける。
先頭に立つのは、初老のウルス人だった。その顔には齢相応の皺が刻まれているが、背筋は伸び、歩みは軽やかだ。強い意志を感じさせる眼差しで、ユハとシェリウを見やる。
「遠路はるばる、よく来てくれましたね、我らが妹たちよ」
ユハとシェリウは慌てて立ち上がると一礼する。
「ユハといいます。こちらはシェリウ。お招きに応じて参りました」
「ありがとう。私がムアムです」
ムアムは二人の前に立つと、微笑んだ。
「ユハ、あなたがシュフファ学僧を治療した娘ですね。年は?」
ムアムはユハに顔を向ける。ユハは緊張する己を心中で叱りつけながら答えた。
「今年、十五になります」
「十五……」
ムアムは微かに眉根を寄せるとユハを見つめる。
「生まれはどこかしら」
「生まれは……、分かりません」
「分からない?」
「はい。孤児として、イラマール修道院で育ちましたので」
「なるほど。そうでしたか」
ムアムは頷くと傍らに立つ中年の尼僧に頷いて見せた。そして、再びユハに顔を向ける。
「ユハ、あなたに聞きたいことがあります。あなたは、どうしてシュフファ学僧が患った熱病を治療することができたのですか?誰の知識にもない病を癒した娘がいる、とシュフファ学僧がいたく感激していましたよ」
その問いに、ユハは即答できない。それは、まさしく修道院長とシエリウに隠しておくように戒められていることだった。
シェリウが慌てて口を挟んだ。
「ムアム司祭、ユハはあの病について……」
「あなたには聞いていません。この娘に聞いているのです」
ムアムは突き刺すような眼差しをシェリウに向けると、彼女の言葉を遮った。シェリウは強張った表情で頭を下げる。
三ヶ月前のことだ。イラマール修道院に客人があった。アタミラから訪れたシュフファ学僧は、修道院長の古い知人だという。しかし、旅路で熱風の悪霊に取り憑かれたのか、激しい高熱を出して寝込んでしまったのだ。その熱病は、修道院にいる癒し手たちにとって未知の病だった。治療の方法が分からずに病状は悪化していく。癒し手たちが、そしてシュフファ自身が死を覚悟した。しかし、ユハは違った。数日の間に、その病を解き明かし、そしてシュフファを癒したのだった。
「それは……、修道院にあった書物に症状と考察が記されていたのです。古い書物でしたが、昔、読んでいて、私は覚えていました」
ユハは、おもむろに口を開いた。ああ、偽りを述べる私をお赦しください。ユハは心の中で懺悔する。自分でも上手い嘘だとは思えなかったが、これしか思いつかなかった。
「そうですか」
ムアムはじっとユハを見詰めた。嘘をついた罪悪感と緊張から、その視線と沈黙に耐えられなくなってきた頃、ムアムは小さく指を動かした。唇も動くが、あまりに小さな声に、何を言ったのか聞こえない。ユハには、祈りを捧げているようにも見えた。
ムアムの目が大きく見開かれる。そして、その口元に微かに笑みが浮かんだ。
「分かりました。勉強熱心なことは良いことです」
ユハは思わず安堵の溜息をつく。
「さて、ユハ、あなたにお願いしたいことがあります」
「はい。私にできることであれば、なんなりと仰ってください」
「では、お願いしようかしら」
ムアムは頷くと腰の後ろに右手を伸ばす。金属音とともに、その手に握られているのは遊牧の民が携えているような湾曲した刃をもつ短刀だった。
ユハは、その刃を見て、ムアムを見る。
ムアムは、短刀の刃を己の左手首に素早く押し付けた。引き切ると、僅かに遅れて、激しく血が噴出す。
その鮮烈な赤色を見て、ユハは小さな悲鳴を上げた。背後に控える尼僧たちが一瞬驚いた表情を見せるが、それに気付く余裕もない。
手首から流れ出る血の勢いは止まらない。明らかに動脈を切断しているだろう。ムアムはその手をユハに差し出した。
「さあ、私の傷を癒しなさい、我らが妹よ。このままでは、私は全身の血を流し尽くし、死んでしまいますよ」
ユハは大きく息を呑み込んだ。
左手を優しくムアムの手に添えて、右手をかざす。目を閉じた。
体の奥から力が湧き出してくる。傷ついた血管や肉、皮、その様子が曖昧ではあるが、半ば像となって心の中に浮かんだ。不可視の手でそれを繋ぎ合わせていく。失われたものを補い、あるべき姿へと戻す。ユハの中から生じた力は、ムアムの体へと伝わっていった。
そして、目を開ける。
ムアムが、己の手首を見て、驚きの表情を浮かべていた。
「なんと見事な。あれほど深く切ったというのに、傷跡も残っていない」
ムアムの手首に、すでに傷はなかった。血に塗れているが、出血もない。まるで、血で肌を洗ったかのように滑らかだった。
「これで……、良かったでしょうか」
術を使った後の特有の虚脱感に抗いながら、ユハは口を開く。
「ええ、まさしく、私の願いをかなえてくれましたね」
ムアムは頷く。傍らの尼僧がムアムの手首を布で拭った。
「さあ、我らが妹たちよ、旅の疲れを癒してください。僧院を案内しましょう」
尼僧の一人が、ユハとシェリウの肩に触れた。二人は尼僧の導きに従って歩き出す。
「ついに見付けた」
背中越しに、ムアムが呟いた言葉が聞こえたような気がした。
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