朝を呑む
夢を見ていた。
あの時の夢だ。
目玉は真っ先に溶けた。いつのことだったかは、もう忘れてしまったけれど。だから、目の前はとっくに真っ暗だ。
水はぬるく、臭かった。いろんなものが礫になって、体のあちこちにぶつかる。最初はあんなにこの水は冷たかったのに、と思う。
皮膚にはたくさんの痣ができていたが、骨はまだ白々として皮の中に存在している。
まな板の上で叩かれる肉の気分で、いっそ柔らかくなってしまえば、どろどろに、粉々に、骨も、筋肉も、脂肪も、ぜんぶ分からないくらいに溶けてしまえば、ずぅっと楽になるだろうと考えていた。
水は色々なものをその身に混ぜて、いっしょくたに流れていく。この体も早く、いっしょくたに混ざってしまえと思った。
この苦痛が終われば、それでいい……。
……あのとき『ぼく』は、確かにそう思った。
『面』は、いまでも疎ましい。
奴らは、おれたちの過去であると同時に、『苦痛』の具現であると考える。
おれたちの過去は、苦痛と傲慢と……そして、確かにあった喜びに満ちていた。
冬が過ぎれば春が来て、また夏が来る。
当たり前のことだ。この世は常に流れている。刻一刻と、現在は過去へと流れ、自己の中に蓄積されていく。それは普通の事。
時も、水も、ひとところに留まることは無い。それはおれたちもオンナジことで、今のおれたちは、この『面』たちにも、それを分けてやりたいと考える。こいつらは、おれの一部でもあるからだ。
過去を忘れたおれたちは、代わりに、『面』という形で過去がある。だからおれは『面』が捨てられない。
そう自覚したからだろうか。
瀧川から戻ってから、あんなにお喋りだった三十年が嘘のように、面たちは黙するようになった。橋姫・巽もまた、面になった時から沈黙を保っている。
おれは、夢の中で彼女と出会う。
『おもかげ』ではない、本性の彼女の姿に会う。
そこには、霧深い湿原がある。
寝巻の裸足を水が撫で、ざらついた根っこの肌を感じていた。足首までを濡らす水は、ずっと続いている。霧が、この水面から立ち上る湯気にも見えた。
どこか瑞子人魚の住処の沼にも、あの世の塩の原にあった人魚の林にも似ている。
おれは枝を握り、ちょうどおれの肩のあたりに座す女の隣に立った。
「……なあ、巽ちゃん」
『橋姫』を『巽ちゃん』と呼ぶようにしよう。そう決めたのは、『巽さま』では対等の関係とは言えなかろう、という理由だった。
「怒ってるか? 」
「……なにを? わたしを勝手に、あんな薄っぺらにして瀧川から連れ出したこと? それともわたしの母親にあんな仕打ちをしたこと? 」
「全部だよ」
「怒るわけがないじゃあない」
「そうかな。まっとうな権利だと思うが」
「人魚は母の記憶を受け継ぐ。忘れたわけでもあるまい。わたしは母を『
淡々と巽ちゃんは事実を告げる。
「……それでもわたしたちは、視っている。最初の人魚がヒトを愛したこと。これがヒトを愛した罰だということ。生まれた時から分かっている。本能が、おまえたちを喰らいたいほど可愛いと言っている。彼女らは最後に、ヒトにとっての悪しき存在であろうとした。消え逝く定めから抗って、おまえたちの中に自分を刻もうとした。……わたしは、その人魚の一族の最期のひとりなんだ。……だから、わかる……」
そして巽は、長い長いため息を吐いた。
僅かな沈黙。何かを悩んで、巽は再び口を開く。
「……だから、その、忘れるな。疑うな。わたしはどの人魚よりも、おまえたちを愛してる」
「熱烈だな。……イテッ」
「もう……。人魚ってばかね……今さら分かっちゃって。言葉は奪われていなかったんだから、わたしたち、もっと早く言えばよかった」
「……そうやな。おれたちも、もっと早ウ言えばよかったんや。玖三帆でもなく、克巳としてでもなく……雲児と空船として」
おれは、傍らにある異形の手を取る。彼女の黒い目を見上げて、三十年かけて磨いた偽りのない想いを口にした。
「この体が朽ちるまで、ずっと一緒に」
見上げる目が丸くなり、蕩けるように濡れる。
人魚は 唇を綻ばせ、そして。
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