急 幸福論
※※※※
「あ~……こりゃあアカンっすわァ。剥しましょ」
離れのお札濡れの障子の先、カッちゃんを一目見るなり、宛名師・志村明はそう言った。今日も洒脱な開襟スーツ姿である。相変わらずの布団蟲のカッちゃんは、障子が開いた音にもぴくりとも動かなかった。
「やっぱりそうなるか。して、どういうふうにするんだ」
口のきけないわたしのかわり、後ろで眺めていたおやじが尋ねると、彼女は一転して声を低くして答えた。
「……うちが目で見て、名前を書きだします。それを燃やして終わり。今回はもう使うてない古い名前を“剥し”ますんで、普通ならあとあとの影響は少ないと思いますけれど、なにぶん経験が人間相手ばかりですんで……。正直、うちが引き受けた中では一番大がかりですね」
「ほう。簡単そうに聞こえるが」
「う~んとですねェ。今回は虫歯みたいなもんなんですわ。悪いところを削って、塞ぐ。そういう作業になりますんで、取りそこねから再発っちゅうんも無きにしもあらずなんです。一度でなるべく剥しますけどね」
「経過を見ながら、っちゅうことか。虫歯とおんなじだな。名前を剥すとどうなる? 」
「ご存じのとおり、使われてない名前ですんで、まず完全にその名前を思い出せなくなりますね。あと、その名前で認識されなくなります。それはもう、その人の名前やありませんので」
「そんまんまにしといたらどうなる? 」
「どう……なりまっしゃろか……。うちにも分かりません。これ、元はなんらかの事情で名前を変えたい人にする施術なんですわ。宛名師に剥してもろて新しい名前を付けてもらえば、そん人はまったく別のナントカさんになります。雲児さんらは、たくさんの名前が重すぎて潰されそうな印象を受けました。せやから剥しましょってことになったんですけど、う~ん……そですねぇ、潰されるんやないですかねえ。うち、自分の名前に潰された人、いっこも見たことないんですけどね」
「新型の虫歯菌ってわけか……」
「そうです。せやので、剥しても応急処置にしかならんやもしれませんね。引き受けた以上、うちは最後まで付き合うつもりでおりますよ」
明さんはニッカリと笑って、薄い胸を叩く。
「せやけど……こりゃ、うち一人やと荷が重いかもしれませんから、増援を呼びたく思います。ええでしゃろか? 」
(お願いします。ぼくは、はやくカッちゃんを楽にしたりたい)
「大船に乗ったつもりでおってください」
※※※※
翌々日、晴天の下の我が家に四人の手練れが集まった。七畳の客間に座した四人のうち二人は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「なんで俺が……」
「……それは私の台詞だわ」
苦い顔をした二人の男女は、身長差から上に下に視線を合わせ、互いに当てつけのようなため息を吐いた。
「たまにはええやろ。知らん仲や無し」
「面倒くさい」
「アンタもエエ年やねんから腹くくりい。あ、これ、うちの婿養子で、亭主の志村
無言で深く頭を下げたのは、どう見ても日系以外の血の入った鳶色の瞳の色男だった。髪の色もやや淡い。亡国の王族の血筋といっても信じられる詐欺師向きの美貌を歪め、コンビニに行くような擦り切れたジーンズとパーカーを着ている。
「それで、こっちのデカいのが、うちの幼馴染」
「……
低く唸るように堂のはいったお辞儀をした人物は、ちゃんと日本人でスーツを着ていたが、鴨居に頭をぶつけるほどの長身で体格は逆三角形である。鋭い目つきにシルバーフレームの眼鏡をかけ、
畳についた手には、さらに想像を絶する傷跡が無数に網目を作っている。
「こんなやけど、スーツ屋の営業やから」
「え? スーツ屋? 」
「礼服店の御曹司ですねん。昔の杵柄で、いくつか術が使えますんや」
「……で、最後のこの人は」
「自己紹介、いりませんでしょう? 」
「……なんでこの面子に呼んだのかしら。分からないわ」
それは、あの道具屋『銀蛇』の美人女主人だった。紺色の眼をすがめて、恨めしそうに明さんを見ている。
「こっちの二人がおまけで、あんたの方が本命やねんで? 引きこもっとらんで、たまには本領発揮しな」
「来てしまったものは仕方ないから、やらせていただきますけれど。でも畑が違うんじゃあないかしら、って思っただけ」
「知識はあるやろ。横で助手してくれたらええから。な、エリカちゃん」
「……役に立たなくても知らないわよ」
憂鬱の女主人は銀縁眼鏡を外し、フウ、と艶美な吐息を吐いた。
※※※※
「……説明したとおり、雲児さんと空船さんにはいくつか重複した名前があります。せやから、同時に剥がさなんならん。それはうちと、この忍でやります」
小鳥遊忍は、浅く頷く。
自室から担ぎ出されるように客間へやってきたカッちゃんは這う這うの体で、翁面の下で玉のような汗をかいている。
翁面は、あまたの面の中でも最も温和な『かたち』をした老爺の面だ。その本性は龍神であるため、他の……たとえば河津や釣眼といった、暴力性が特筆した面たちの抑止力になるだろうという判断だった。
ぼくが抱えた湯呑には、たっぷりと澄んだ液体が満たされている。湯呑からは、ぷう~んと保健室の匂いがする。
ぼくはそこに映る自分の裂けた口を見下ろしながら、早くも苦いような気がする唾を飲んだ。
「……剥がしとるあいだに、その『名』を呼ばれちゃ意味がないんで、一時的に声が出ないようにしてもらいます。主成分は酒です。毒の類やないので、そこは安心してください」
しかし、憔悴しているカッちゃんとぼくの小さな肉体にはやや堪えそうな気配がある。急性アルコール中毒が怖い。
「ちゅうか、酔っ払ってもろたほうがええんです。トリップするくらいがベストなんですわ。こないな儀式にゃアつきもんですから、マ、がんばってください」
涙目のぼくの湯呑を握る手を、横から震える手が攫った。
「……クウ」
(カッちゃん……)
空船は面の下半分をずらす。その弧を描いた口に湯呑を宛がうと、ぐいっと湯呑を煽った。
一口、喉が隆起した瞬間に、露出した肌がぶわりと粟立ち、汗が噴き出す。一口ごとに顔色はむしろ青ざめ、飲み干したころには、崩れた豆腐のように畳の上に上半身を伏せてしまった。
いつのまにか近づいてきていた道具屋の女主人が、飴色の大瓶からとくとくとお替りを注いでぼくへ差し出すので、勢いのままに口を付ける。
「……くぐふっ! 」思わず声が漏れた。
苦い。
そして熱い。
冬の水のように冷たいのに、口の粘膜にぶつかったとたんに火を吹く。炎の塊を飲み下していくようだった。鼻に抜ける濃厚な苦みと酒特有の刺激臭でむせ返ってしまいそうになる。
「―――――ブッハァアッ じぬ! 」
「……もう死なんだろ」
ぼくの擦れた魂の咆哮に、魂から酒飲みの乙子の親父は、少し羨ましそうに転がった湯呑を見つめた。
ぜいぜいと呼気が擦れている。喉の奥が爛れているのがわかった。しばらくは、確かに言葉らしい言葉は吐けないであろう。
ふにゃふにゃになって、ぼくはカッちゃんの背中を枕に寝そべった。
「今から、うちが見えるすべてを読み上げます。たまに言うとる意味が分からんようなるかもしれませんけど、気にせんでください」
そう前置きして、明さんは自分もあの酒を一口ほど舐めた。
そしてぼくらの上を、まさしく見えない掲示板でもあるかのように目を凝らす。
「全体的なキイワードは、『海』を起点に『山』そこにある『河川』『湧き出る水』『雨』『治水』と『それらによって得られる豊穣』……つまり水です。それも、筆で線を描くように長く……長く……この大地を支配するように流れ続ける水、循環する水をあらわします。『クミ』は『組ミ』と『汲ミ』……これに『帆』とくりゃ、やっぱ水や」
声がどんどんと低くなっていく。
「『ホ』は
エッ。
ぼくとカッちゃんは、同時に重い首を持ち上げた。
「……名前には、その人物の生末の運命も込められている。それは、その人からけっして剥がれない」
小鳥遊忍が、低く答えた。
……そうか。
(母は、龍に……『オカミ』に負けないための名前をつけてくれていたのか)
カッちゃんが隣で静かに震えている。
ぼくらの中には、二人の母がいたのだ。どちらもがいたから、ぼくらがいる。
日本語は多目的な意味を見いだせる言葉だ。もしかしたら全く違う意味でつけたのかもしれないと、忍さんは言った上でこう付け加えた。
「……ただし偶然だとしても明がそう言うンなら、それがこの名前に付けられた運命の方向性だったことは確かだ」
客間にふと影が差す。日が雲に隠れたらしい。……さっきまで雲一つなく晴れていたのに。
「あとは……そう、女やな……『巽』……八卦やったら妙齢の女……長女を表わします。『タツ』と掛けとるんやな。同じ『タツ』でも『
「なんか、すごい名前が出てきた」
明の亭主の凛さんの眼が、やおら輝きだした。忍さんの腕が横から伸びてきて、その頭を軽くはたく。
「アホなことはしんなや」
「もうするかよ、バカ」
美青年は、子供のように唇を尖らせた。
「名前は呪文や。日本語はとくにそれが強い。音と文字と、二通り二重の『ことば』を結べる。一つの音に、何通りにも意味がある。呪文ゆえに、文字は研磨され、パターン化して、時代と共に流行がある。それらの文字を解体し、ひとつひとつを透かし見ることが出来んのが宛名師の専売特許……近代化が進んで、なっかなか意味の詰まった文字羅列が減ってきた昨今にこの数! 質! 込められた情念が違いますわ!いやあ、こりゃあ大きな仕事になるやもしらんぞぅ……」
「ンなこと見りゃ分かってるわよ。それが彼らという存在を生かしている呪文だわ。彼らから『神』を剥がして大丈夫だとは思えないわ。存在がほどけるかもしれない。危険よ」
「『存在がほどける』……ええ例えを言うやないか。せや。無理に剥がせば、彼らの命が瓦解する……こりゃあ全部死んだ名前やからな。本来なら、剥がすのは死人の名前のほう。神の名前は死ぬことが無い強力な加護やもの……いや、うん。せや、エリカちゃんの言う通り。こりゃ、作戦を練り直さんと……」
「……蛇は再生と豊穣と黄泉がえりだぜ? 龍は流転する水そのものだが、蛇はそうじゃない。そこだけうまく残せば? ただの蛇ならそうそう毒にはならんだろ」
「いや、それでいくと問題なンは、この『カミ』の本性が蛇やないってところなんやよ。『人魚』やもの……彼らを形づくるモンは、
「寿命を弄るンは危険やろう」
「……せやんなぁ。今の性質を残したまま寿命まで削ったらしんどいやろし……」
酔いがだいぶ回って、ぼうぼうと耳鳴りがやまない。そんなぼくの横で、カッちゃんがもぞもぞと体を起こすのが分かった。
「カッちゃん? 」
かすかすの声で、ぼくはカッちゃんを呼ぶ。
ひゅーっ……ひゅーっ……と、カッちゃんの呼気が聴こえる。何かを言わんとしているようだった。私はバンバン畳を叩いて、白熱した議論に水を差した。
「ン? なに? 」
カッちゃんを指差す。畳の上を滑って、宛名師がやってきた。
「ン? ン? こっち? ええよ、
カッちゃんが面をずらし、唇を開けた。金魚のように口を上下させ、最後に薄らとほほ笑んだように見えた。頷いて訊いていた明さんは、ぼくのほうを向いて、こう言った。
「空船さんおっしゃるに……『おれは、寿命なんてどうでもいい』と。『ただの人間程度でも構わない』と……」
それは、ただの人間になりたいということなんだろうか。それが、カッちゃんが選ぶ道だというのだろうか。
あの時――――瀧川から帰って来たとき、カッちゃんは、ぼくとオンナジ道を行くと言った。
やっぱり、違ったのだろうか。
覚悟はしてきた言葉だったが、しかしやはり、堪えるものがある。上げて落された気分というが正しい……それも、一年越しのフリーフォールである。飲み下すのには、少し時間がかかりそうだ。
呆と固まった私の腕を、カッちゃんが掴んだ。上から覗き込んで来る面の奥の眼が険しい。
「……そうじゃない! どんだけ疑り深いんだてめえは。おれは、オカミも葦の御子の名もいらねえって言ったんだ……! おれが……おまえが……おれたちがこだわるのは、『巽ちゃん』と、あの瀧川で生きて死んだ『人』の名前のほうだ。松弥さんや竹流くんや……『柳』の名前だ。それがおれ達を作った先祖の血だからだ。……
ぜいぜいと息を乱しながら、カッちゃんは酔って赤くなった肌で、ニッタリと笑って見せた。無理にしゃべろうと絞り出したもんだから、呼吸から血の匂いがする。
「……ただの人間程度でも、おれと一緒なら、
ぼくは、口を開けた間抜け面のまま頷いた。
「……それが希望でええんやね? 」
明さんはぼくらの顔を見て意志を確かめ、紙を広げて墨を磨った。
「陽が落ちる前に終わらします……」
明さんは筆を執り、真っ白い紙の上を、見えない糸を手繰るように視線を動かした。墨が刻む名前は、総勢八二六人分にもなるという。
開け放した縁側から見える空が昏く、振り子のように揺れている。
ぼくらは、とろりと黒い色をした睡魔に身をゆだね、その瀧川の水に似た幽玄の世界へ落ちていった。
※※※※
おそらく、空船と雲児が眠りに落ちた瞬間のことだった。
入口の戸の横で瞑想するように黙していた乙子法師が、ふいに瞠目して身を起こした。
「身を守れェェェエエエ―――――ッッ!!!」
凛が筆を執ったままの明を庇って体にかぶさり、忍の巨体が夫婦の前に躍り出て何かの印を組む。女店主は袖に手を入れた。
―――――それはまるで、巨大な泡が弾けるように。
音を立てて畳が毛羽立ち、天井が割れる。七畳の客間は、一瞬にして、廃虚の様相となった。
――――翁。
――――男。
――――おもかげ。
――――阿漕。
――――オカミ。
―――――そして、巽。
空間を衛星のように舞った六枚の『面』が、弧を描いてその手に次々と収まる。赤みを差していた肌は、蝋のように白い。濡れた黒い瞳が弧を描く。
それの名前を、乙子が口にした。
「空船ェ……いや……」
艶然と、『それ』が笑む。
「……おまえ、『克巳』か」
※※※※
―――――長い、夢を見たんだった。
おうおうと、龍が啼く。山の下で、上で、龍が啼く。
黒い水。岩屋の奥。桶の中の醜い赤子。人魚。老婆。
人魚が笑う。子供が泣く。溺れる―――――。
腹の膨れた女が、樹に喰われている。白い花、あれは桜。
おまえはうそつきだ。『ぼく』が殺した。雨の中で高く誰かが叫ぶ。
そうだよ。ぼくがあいつを殺してしまった。静かなところで、ぼくは呟く。
体が落ちる。
水に落ちる。
痛い。苦しい。苦しい。苦しい!
泥に溶ける。
……真っ黒だ。
―――――――どうして!
水面を雨が打つ。水を掻き回し、泥が浮かんだ。赤い糸がとろとろと浮かんでは、水に溶けていく。水の中から、白い顔がぼくを見ていた。どこかで知っている誰かの顔だった。彼女がぼくを呼ぶ。あいつを呼ぶ。何度も、何度も。名前は泡になる。
―――――どうしてぼくらが死ななきゃならない……!
あの子が泣くから、雨が降るんだ。知っている。
どうして玖三帆は死ななきゃならないんだろう。分からない。
どうしてぼくは、死んじまうんだろう。それも分からない。
ぼくは、ぼくは―――――!
真っ黒な自問自答に流れていくうち、ぼく……わたしは、そこにいた。
裸足の下に、白い砂浜がどこまでも続いている。
向こうに薄青い林の群れが見えたので、誘われるがままに屋根を求めて歩を進めた。
はたしてそれは、生白くぬるりとした、女が生える木々の群れであった。
それの貌は、どこか見覚えのある、誰かに似た顔をしている。死体の肌に膨れた胎は醜く、生々しい。ざらついた木肌は、よくよく見れば、無数の鱗が生えていた。
はじめて、『ここはどこだろう』と考えた。ひとつ、ぽつんと考えが浮かぶと、こんどは無数の疑問がふつふつと浮いてくる。ここは何? 彼女たちは生きているの? これはどういう場所なの? 自分はどうなったの? 玖三帆は? 巽は、柳は、瀧川は……?
ざわざわと梢が揺れる。
……いや、風なんて吹いていない。
わたしは梢を見上げて息をのんだ。
無数の、白く濁った藍色の瞳の群れ。それらがわたしを瞬きもせずにわたしを見つめている。
――――おかしい。
――――――あれはおかしい。
――――――――脚がある。
――――――――――まだ若い。
――――――――――――あれは何? 人ではないの?
「ア……あなたたちは……」
その時、一本の『樹』が口を開く。
「……まあ、御待ちなさい。おまえの名は? 」
「か、克巳……」
「ああ……そう……そう。おまえはあの娘の……」
その『樹』は唯一、理性と感情のある顔で、わたしを見下ろしていた。
どこか憐れむような悲し気な目だ。
「……我が名は瑞己。おまえが巽と呼ぶ人魚の母です。そして、その半分の命を受け取ったおまえもまた娘と同じ……こんなところに流れ着いてしまって……なんなりと応えましょう」
「ここは、どこなんですか」
「あの世とこの世の狭間、境界の土地。大地と空のあわいに存在する場所。地獄の刑場と同じく、刹那に永久があり、死も無いかわりに生もない。これぞ、我ら一族にかけられた呪い……天女の呪いが逝き憑く姿……ふふ……おかしいこと。これをあなたに口にするのは二度目になる」
「ぼくに……? 」
「そう。あなたは『前』もここに来たでしょう? まさか覚えていない……そう。ここに明確な時は存在しない。もしかしたら会えるやもしれない。……ほら」
「え……ひっ! 」
わたしは振り返り、ずるずると後退した。背中が冷たい鱗の木肌にあたる。
それは、ほんの三歩先ほどまで近づいてから、ようやくわたしの存在に気が付いて顔を上げた。
「……ぼく?」
それはどちらの『克巳』が口にした言葉だったのだろう。
もう一人の『ぼく』はほんの微かに目を見張り、すぐに薄暗い笑顔を浮かべた。
「……なんやぁ、これ。悪趣味やこと」
「き、きみは、だれ」
「ぼくは矢又克巳……なに、きみはぼくの幻覚やろか……あの世でついに頭が可笑しなりやった」
マジマジと、もう一人の『ぼく』を見る。髪がざんばらに短く、体中に紫色の痣がある満身創痍だ。顔は当然血の気が無く、右肩が奇妙に下がっている。
「くっふふふ……あれかナァ……コリャア、ナンか、閻魔様の試練かナア……なあ、聞いたってや、もう一人ン『ぼく』。ぼくねぇ、たいへんなことをしてしもたンでェ」
「……き、きみがもう一人のぼくやとしたら、何をしてしもたんや」
「君もぼくやったら一緒に笑ウてや……ぼくはネエ、大罪人やっで! ナンせこの年で二人も殺しとる! 柳のクズに、クウちゃん……そうや、ぼくが、ぼくが……! クウちゃんを殺したんや! 」
『ぼく』はわたしに掴みかかった。両の手で左右の二の腕を万力のように掴み、締め上げて来る。
「聞いて! ぼくが何をしたか! そしたらきみは、きっとぼくが憎ゥなる! そンで、そンで……! ぼくを殺して!殺してェエ……! 」
『ぼく』は慟哭する。わたしは身をよじって『ぼく』の腕を払いのけると、背を向けて走り出した。逃げるわたしの頭の上を、無数の人魚たちの眼が追いかけてくる。後ろから『ぼく』の声が追いかけてきた。『ぼく』から耳を塞いでも、『ぼく』の言葉は指の間から浸み込んで、どれだけ走っても離れない。いや、違う!これはわたしが、自分の口で話しているのだ! すでに『ぼく』の言葉はぼくの中に流れ込み、ぼくは、『わたし』であった。『ぼく』の記憶は、もはや『わたし』のものであったのだ!
わたしは塩の浜を慟哭しながら叫ぶ。
「――――――殺してェェェエエエエエ―――――――――ッッ」
ぼくは、ぼくのチッポけな願いのために、使い捨てのように玖三帆の命を消費した大罪人だ。そんなぼくが許されるはずがない。ここが死後の国だというのなら、ぼくは魂も残さず消えてしまいたかった。
「アアァ……! アアアアアァァアァァアアア―――――――――」
「……これはいけない」
女の声がした。
稲妻のように目の前が白く、いや黒く―――――とにかく何かが弾けて、わたしは瞬きをして首を引いた。
「……おや戻ってきた」
「み、瑞己……さん」
「なるほど。人魚の血を引いていても、やはり人の子か……ふうん」
そこはもとの、人魚の林であった。わたしを見下ろし、瑞己人魚は片眉を上げて何かを思案している。
「……おまえ、ひとつ、この瑞己の願いを訊く気はない? 」
「い、いまのは……」
「いいえ。願いを聞き入れたくなるはず。だってお前、玖三帆と約束したのでしょう。巽とも約束したのでしょう。なら、この瑞己とも約束を結びたくなる」
「瑞己さん、あんた……何を言っとるの……? 」
困惑するわたしを、瑞己人魚は笑って見下ろしている。
「……地上で何があるか、おまえのいない地上で玖三帆が、巽が、どんなに悲惨で、泥にまみれて死んでいくのか、おまえに教えてあげようか。我が娘、巽人魚は、おまえに半分命をやったばかりに寿命を五百年余りも削られた。玖三帆はけっきょく柳の姦計にかかり、それで起こった巽の癇癪で山は崩れ、瀧川は柳もろとも泥に沈み、巽だけが生き残る。そして巽は、流れ着いた玖三帆の体で――――――」
わたしは金魚のように口をパクパクさせながら、つらつらと告げられるその残酷な結末を聞いた。瑞己人魚は最後に、こう締めくくる。
「おまえがあの子の五百年を奪ったのだと心しなさい。おまえが我が娘の築くはずだった八百を打ち崩したのです。さア……この瑞己の願いを訊く気になったでしょう? ……ほら、いいこ―――――」
わたしはもう、なんにも言えなくなっていた。
「お戻りなさい。お戻りなさい。現世へひとたび、人魚のはんぶんを与えられたお前なら、言いつけ通りにできるでしょう? 」
謡うように瑞己人魚は喉を震わせる。
「褒美に玖三帆の魂もつけましょう……ああ、玖三帆の肉はもう無いか。ならば仕方がない……瀧川の有象無象の
人魚は水に溶けかけた唇で、わたしに口づけた。
「……ふたたび出会うとき、おまえにこの瑞己の魂も与えましょう。ふふ……そうして瑞己は、現世へ再び蘇える」
―――――――――ふたつをひとつに、ひとつを再びふたつに分けて、いつまでも玖三帆と一緒。うれしかなしや……ここは無情の常世なり……うふふふふ……。
忘れていた夢。
『ぼく』が交わした最後の約束。
『
あぁ……なんてことだ。あの塩の大地で、おれは再びあの瑞己人魚と出会ってしまった。あの人魚にだけは、もう二度と顔を合わせてはいけなかったのに……。
瀧川から帰ってきてすぐ、嫌な夢を見るようになった。
おれの中に溶け込んだ『瑞己』が見せる嫌な夢。
契約の時が迫っている。おれは、おれたちは、瑞己に与えられた体を還さなければならない。そのために生まれたのだ。
……クウ。
おれは、お前だけはって思っちまった。でも、違うんだな。そんなのは、一年前とおんなじだ。
おれたちは、過去に立ち向かわなきゃァならない。
※※※※
『ぼく』は空船の体で、再び目を開ける。
……客間がめちゃくちゃだった。なんてことだ。これを『ぼく』がしたことだろうか。外が夜のように暗い。雨が降りそうだった。
息をついて、喉の違和感に、先ほどまでやっていたことを思い出す。
ああそうだった。儀式の最中だったのだ。乙子のおやじが、部屋の隅で『ぼく』をジッと見ていた。『ぼく』は、おやじの険しい顔に、小さく笑う。それにおやじも、ニンマリと笑いかけてくれた。
(おやじ……ごめんナァ)
「……ああ。もうこうなっちゃあ、いくらでも付き合ってやる。気にするな」
脚が一歩、ささくれた畳の上を滑る。また一歩。……手が、脚が、勝手に動く。
カッパリと口を開け、焼けた喉でぼくの中の瑞己が何かを言わんと舌を動かす。
その時、この体を左右から何かが襲った。右手に、脇差の峰を下に構えた小鳥遊忍、左手に、西洋剣を突き出した姿勢の女主人がいる。
明は凛を傍らに貼り付け、机ごと縁側まで下がっていた。
「峰打にしイや! 名前剥がしたったらこっちのもんや! 」
「当たり前でしょう……誰だと思っているの」
もう然と筆を動かしながら叫ぶ明の言葉に、女主人が憮然として返した。
『面』が、ぼくの周りを衛星のようにまわる。
翁面――――男面――――女面――――河津面――――釣眼面――――そして、橋姫面―――――……。
「カッちゃん!――――空船! 」
『ぼく』の足元に、何かがわだかまって歩みが止められた。……いや、それだけじゃあない。
「―――――おまえは! 空船やア! 他ン誰でも無いッ! 」
縋りつく雲児が酒焼けの喉を張り上げている。この脚が、その後頭部を踏みつけた。足の下で雲児が呻く。
「グゥウ……空船ェ……! おまえ、ぼくを置いてぐつもりか!? こんな、簡単に! 乗っ取られやって―――――こんなん、こんなんは、ゴホッ、克巳と玖三帆の二の前やないか……! 」
雲児……。
「おまえは、克巳でもなく、玖三帆でもなく、空船やろう……! ぼくらはオンナジことを言うたやないかァ……! 」
雲児……!
――――――……クウ!
「どっこもいくな……! ぼくをおいて、いかんとってよッ! 」
それは、かつて誰かが誰かに言った同じ言葉だった。
「――――――凛! 燃やせェ! 」
志村明が掲げた半紙に、凛が火種を押し付ける。油も掛けられていないはずのそれが、高々と眩い金の火の粉をまき散らしながら燃え上がった。らせんを描くように巻いた炎が、二頭の蛇の
アァアァアァァァアァァァアアアアァァァァアアアアアアアア―――――――――!!!
空船が身を
空から畳に落ちた面のひとつを、這って雲児は引き寄せて胸に抱く。
本の中の写真のものより、その『橋姫』面は、ずっと細面ですっきりとした貌をしている。振り乱して頬に散る髪は豊かで鼻筋が通り、引き攣った唇は朱く、間から覗く歯は小ぶりの白い柘榴の粒のようだ。全体に朱が履かれてはいるが、その貌は『怒り』というよりも『憂い』を強く見せている。
(橋姫が……巽ちゃんが泣いてる……)
つるりとした頬に流れる筋を拭っても拭っても、橋姫『巽』は泣く。
雲児のかすかすの喉からも、血が流れる味がする。一声も出る気がしない。
「……ふふ、ふふふふふふふふふ―――――」
『空船』は天を仰ぎ、高らかに嗤笑する。
「……ハッハッハハハハハハハハハハ―――――――」
「ハ――――――」長い腕を振り上げ、『空船』は、右手の剣を振り払う。鋼と龍の爪が火花を散らし、澄んだ音が響いた。
素早く身を引いた女主人が吠える。
「ちょっと! あんたの仕事甘いんじゃないの!? 」
「な――――ンやとォ!? あん名前ン中に無かったんか!? 」
「言ってねェで目ン玉こらせ! 」
(……誰もあいつの『名前』がわからない)
素早く視線を彷徨わせる。
『翁』――――――『柳』――――――『おもかげ』――――――『河津』――――――そして『オカミ』…………すべて、この畳のあたりに散らばっている。
……雲児は、身を低くして立ち上がった。乙子を振り返ると、苦笑と共に、襖の上の梁と縁側へ指をさされる。
梁にある時計は、午後4時を指していた。空はすでに落ちかけているだろう。さらに乙子が指した指の先には、庭の池があった。
煙草に火をつける乙子に頷きを返し、雲児は前を向く。空船の背中を見る。乙子が吐いた煙草の煙が、その背中を少しだけ霞ませる。
髪を解き、細く息を吸うと、小柄な体は重力なんて無粋な法則からは解き放たれる。
―――――体が軽い。
乙子が吐いた紫煙を裂き、雲児は解き放たれた矢のように身体を打ち出した。蛇行しながら『空船』の脚をくすぐり、そのまま畳の上を滑る。長い髪が尾のようになびき、『空船』の脇腹を叩いた。驚く暇もない志村夫婦の体を跳ね飛ばし、雲児は一陣の風となって庭へと跳ぶ。
縁側を挟み、改めて正面から『空船』とにらみ合った。
……『橋姫』より、よっぽど『橋姫』らしい貌をしている。ままならぬ怒りと恨みに浮かされた貌だ。
視線を逸らさぬまま、雲児は一枚の面をかかげた。
『空船』の貌が驚愕に染まる。右手が制止に浮きあがり、口が何かを言わんと開く。
(……ありゃ、カッちゃん焦ってら)
間に合うはずがない。観衆にとびきりニッコリと笑って、雲児は『河津』を―――――前世の父を、その顔にかけた。
「……ハあっ―――――」
土座衛門が、雲児の喉を借りて息をつく。
「……ハハハハハ――――――」
河津面『柳』もまた、声高らかに血の泡を喉から吹きながら笑う。
「アハハハハハハハハハハハハ――――――――! ヨヴやっだ! ぐもぢ……! ばがだナァ……! ばがだ、ばがだ―――――― 」
「く、雲児さん……」
「……でめえは、よぐ、よぐ、やっだヨォ! オイ、よく聞げ、『瑞己』―――――」
宛名師・明が、はっ、と筆を取った。
「―――――おでは、おばえに、ずゥウウ―――――ッと、仕返ししだがっだんだ――――――ッッッ!!!! 」
柳は人魚を高らかに嘲笑する。
「――――――やっばり、おでは! そンだげは忘れねえンだよぉぉおおお―――――ッ! ハハハハハハ……ハ、は………」
明の筆先が紙から離れたのは、庭池に雲児が落ちるのと同時だった。
「―――――できた……! 」
「……オイ、灰皿借りるぞ」
明の肩ごしに太い指が伸びる。
あっけに取られる志村夫婦の目前で、その指先につままれた煙草を、ぽとんと、『瑞己』の『己』に、小指の爪ほどの灰を落としたのだ。
燻ぶる灰が、黒白の境に降りた。
その瞬間―――――『瑞己』の二文字は夕日よりなお
「――――――――――――――ッッッ!!!!!」
今度こそ、『瑞己』は天を仰いで悲鳴をあげた。見えない炎に巻かれたように喉を掻きむしりながら脚は奇怪に躍り、やがて膝をついて首を垂れ……動かなくなる。
「フゥ――――――――」
乙子法師ははそれをほんの二歩先で眺めながら、煙草を一本、美味そうに味わった。
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