破 神様、仏様


 門前の街灯は、今日もぱちぱち瞬きをする。薄に囲まれた隣家は闇に包まれ、今日も一人娘のミツコがうふふあははと帯を引きずりながら楽しそうだった。彼女の両親は彼女のお守に疲れ果て、声一つ物音一つと立てない。

 雑木林の向こうっ側には、ちらちら街の明かりが星のよう。

 本物の星空は、濁った濃紺に曇ってちっとも見えない。相も変わらずと、月ばかりが大きな顔をした夜だった。

 屋根の上でのことだ。わたしの懐には二枚ほど、例の物がある。時折それらは揺れて、無い舌を動かすように顎を動かす。

「……もうちょい辛抱したってぇにあ」

 離れの屋根瓦が三枚ぶんほど、バーナーで鉄をじわじわ炙るように、ぼうっと青白く光った。ずるりずるりと瓦の隙間から長いその身をひねり出して、ようやっと空に解き放たれたそれは、くねくね踊るように空へ白い尾を振る。

 白い鼻面をべろりと赤い濡れた舌が撫で、牙が黒い唇の端からこんにちわ。頭は獣、首から下は蛇だが、節だった短い足が三つずつ付いているそれを、人は何と呼ぶか。『龍』。そう、それだ。

 しかし水神の神々しさとは無縁である。なんせ眼は淵が溶けそうに濁り、明後日の方を向いている。唇の端からは滝のように唾液を垂らすばかり。何より胴についているその足、どう見たって昆虫の葉っぱきれのような肢なのだから。

 なんて憐れなその姿。ああ、あんたはどこまでいっちゃうのさ。

 わたしはその白い長虫の背を見送って、強く瓦屋根を蹴った。

 わたしの身は、難なくふわりと風に乗る。

 風はさしずめ、色の無いこいのぼりだ。空洞の帯は、長く長く空を流れている。時に急流のように捷く、時にふわふわと。

 ぐんと高いところにあるこいのぼりは、とくに強い。体はしゃんと伸び、勢いを付けないと隣の帯から破って入り込むのは難しいほど頑なだ。そのうえ、その隣のこいのぼりだって同じ方向を向いているとは限らない。

 まあ、わたしは、そんなヘマはしないのだけれど。

 高いところから見下ろせば、線路向こうの川がわたしの眼を引きつけた。

 黒い水の流れの中を、青白い揺らめきが奔っていく。瞬きの間に消える龍の川下りは、道行く人には気づいても見返す暇を与えない。人はきっと見間違えたと錯覚するだろう。

 わたしは手近なこいのぼりの尾を掴んで引いた。するすると景色が流れていく。その間、わたしの耳に音は届かない。眼だけが濃墨に紛れそうなあの白い光を辿っている。

 こいのぼりは真っ直ぐにしか伸びちゃいない。いくつもの帯を掴んでは引き、掴んでは次へ手を伸ばしながら、わたしは空を泳いでいく。

 やがて、背にしていたはずの月が左手に見えた。線路沿いの高架橋脇のアパートメント。そこに吸い込まれるようにして、龍は身を揺らしながら、頭を尾を突っ込んでいった。

 わたしも彼を追って二階の窓柵に足をかけ、硝子を叩いた。

「お那やい。無事か」

 血の臭いではない、すえた臭いが部屋からする。埃のようなくさい臭い。わたしは鍵のかかっていない硝子窓を開け、中に滑り込んだ。

 擦り切れた古い畳のある、窮屈でこもった六畳である。剥きだしの小さな台所の壊れた蛇口から、ざばざばと水が溢れて床にこぼれ、狭い部屋を濡らしていた。

 黄色い瞳がぎらぎらと黄色く光る。

 獣の面が、わたしをのっそり見上げた。そのとげとげとした針のような肢の下には、白いあわらな女の首―――――。

「空船! 」

 わたしが高く叫んだとたん、黄色の瞳の真ん中に黒が滲み、眉尻が下がった。わたしには、そのとき確かに獣の頭に理性が戻ったように見えた。

 じり、と龍は首を引き、赤い舌が濡れた口の周りをぺろりと舐め取る。呻くように龍は唸る。わたしは懐から一枚それを取り出し、おもてをカッちゃんに向けた。

 それは白木の面だ。垂れた目尻の空洞の眼、馬毛の髭と眉、彫り込まれた皺。

 わたしはこれを、“翁”と呼ぶ。

「カッちゃん」

 面をかかげて、一歩前に出る。龍はわずかに首を引いたが、我に返ったように牙を剥いて、わたしを噛む真似をする。昆虫の肢の下で、女が薄く目を開けたのが見えた。

 わたしは翁をそっと持ち上げ、顔に当てた。土と水のにおいがする。雨の前のにおいだ。

 ふう、と、わたしを通して翁が息をついた。

「空船」

 ―――――かたん。

 わたしの喉から皺がれた老爺の声がして。

 ―――――かたかた。

「今、辛抱して帰らねば、戻れなくなるぞ」

 きゅうぅぅっっ……と、龍の瞳孔が強縮する。噛みしめたあぎとは落ち、見開かれた目には恐怖が混じり、長い体は竦みあがった。生臭い息を何度も繰り返し荒く吐き、空船は、その虫の肢では耳を塞ぐこともできないことに気が付く。

 こいつの考えていることは、手に取るように分かる。

 ―――――なんでお前がその“面”を持っている。

 ―――――なんでお前がその“面”をかける。

 ―――――なんでお前が、その“面”に身を委ねている!

 暗い部屋だ。擦り切れた畳が敷かれている。雲が切れ、月の青い光が、開いた窓から四角く差し、わたしの背中越しに彼の顔までを照らす。

 翁はかたかたと笑い交じりに、とどめの一言を突きつけた。

「おまえが戻らねば約束通り、雲児はわしらのものになるなぁ」

 あらゆる音がやんだ。

 空船は息をするのも忘れ、上目づかいにじっくりとわたしの顔を見た。翁のかかったわたしの頭が、今にも柘榴のように弾けてしまうような想像でもしているに違いない。

 みるみる室内に水が満ちていく。

 龍は声にならない悲鳴を上げて、引きづり出した水で狭い部屋の中を掻き回した。束ねた水が鉄砲水になってわたしを押し上げて吹き飛ばす。

 水に揉まれながら、あぶくを吐いて沈む。沈んでいく。

 どこまでも暗い渦の奥には、あいつの削げた白い顔。

「思い出すねぇカッちゃん。あン時のこと。ぼくらが死んだ日のこと」

「クウ、あんなのは忘れたほうがいいんだ。忘れなきゃあ」

「なら平等に、あんたも忘れなやァあかんね」

「頼むから、おまえはあんなことがあったことは忘れてくれよ。おまえを守りたいんだよ」

「阿呆やなぁ、まったく呆れてまうわ。ねえカッちゃん、おんなじように、ぼくかてカッちゃんを守るつもりでおんねやっで。ずっとそうやったやないに」

「じゃあ覚えといてくれ。おれにゃアおまえの知らねえ約束があるんだ。おれが駄目になったら、そン時ゃおまえはおれに取って代わってあの面たちのモンになる」

「そうか」

「おれにはもう、面が何なのか分かんねえ。あいつらはおまえを喰いたいんだ。そのためにおれに引っ付いてるんだ」

「そうか……」

「……おれはもう、いやだ。疲れた」

「……そうか」

「でも、おれは、クウが喰われんのは、いやだから」

「カッちゃん、あとはぼくがなんとかするよ。あと三日でなんとかなるよ。あとはぼくが、カッちゃんを守うたる。ぼくは大丈夫や」

「いつも……いつもおまえは、そんなのばっかりだ」

「そんなのばっかりはお互い様や」

「そうなのかもしれない」

 ぽろりと目から何かが零れた。

「女々しい情けない奴だよ、おれは」



 ※※※※



「ちょっと雲児、あんた大丈夫? 」

 目を開けると、お那の姿があった。肢体を晒したままの彼女は、濡れた畳を嫌そうに踏みながらわたしの顔を覗き込んでくる。

「空船はどこに行ったの? 」

「帰っただけやぁ。いまごろ寝とりやる」

「はあ、呑気なもんねえ。人の部屋を水浸しにしといて。これ、絶対下まで漏れてるわ。夜逃げしようかしら。ねえ、どうせなら仕切り直さない? 身体が冷えちゃった。お礼ついでに頑張っちゃうわよ」

「……ぼく、そない元気あるように見える? 」

「疲労困憊の時に自分を追い詰めるのも結構なもんよ」

「そら玄人の理論やな……」

 すっかり浸ってしまった布団を避け、彼女は箪笥を漁りだす。「やだ、ぜんぶ水没してるじゃない。着るものが無いわ」

 呑気に下着に胸を詰める彼女の肌に傷一つない事を確かめてから、ぼくは深い溜息をついて、濡れた床に胡坐をかいた。“翁”が見当たらない。彼も空船のところへ戻ったのだろう。

 ひどく疲れた。

 お那はぶちぶち文句を言いながら、なんとか服を着たらしい。鞄を取ろうとして押入れを開けると、どさりと砂袋を落っことしたような音。

「どないした」

 ぼくは立ち上がり、後ろから覗き込んだ。皮膚のふやけた男の腕が、押入れからにょっきりと飛び出ている。

「いっけない。食べ残してたの忘れてたわ……ねえ、やっぱり夜逃げしようかしら」


 帰り着くと、おやじが仁王立ちで出迎えてくれた。

 この屋敷には母屋と離れとがあり、ふだんぼくらは、居間や風呂台所のある母屋を中心に生活している。離れにある自分の部屋など、寝る時くらいに使うだけだ。

 十畳もある母屋の居間は、ガラス戸を挟んで台所と隣接している。わたしは畳敷きで炬燵のある居間では無く、冷たい板敷の台所側を指されて、そこに正座した。

「どうしてこんな無茶をした」なんで知っているのかという謎は、乙子のおやじだからと納得するしかない。たまに、本当にこのおやじは人間なのか疑わしくなる。「あと三日でなんとか来てくれることになったんだろう。ほっときゃあ良かったんだ。お那さんまで囮に使いやがって」

 最後の砦たるマスクも剥され、わたしは気分の上では丸裸である。言葉での弁解を求めるおやじは、胸を張って「おれはカツ坊くらいなら迎い討てる」と言い張った。

 そうなればもうこのチビの雲児には、家主に抗う術はない。わたしは渋々、約一か月半ぶりに、この人の前で喉を披露することとなった。

「お那やから囮になってもろたんや。あいつ、死ぬ体しとらん“あやかし”やもの。それに今しかない思うたんや」

「何が」

「元気になったら、カッちゃんはまたぼくに大事なことン隠すやろ。ぼくは知らやなあかんにや」

「……ま、否定は出来んがな。カツ坊は強情だ。弱ってりゃあポロッと漏らすこともあるかもしれん」

「おやじはどこまで知ってる? 」

「何を」

「人間だった時の、ぼくらンこと」

 おやじは顎の髭をさすり、しばし黙り込んだ。

「おれは、おまえたちを見てきたそのまんまのことしか知らねえよ。最初はそりゃあ、科学の力もあやかしの力も借りてほうぼう調べたがね、たいしたことは分からなかった」

「何を調べたん? ぼく、それ知らなんだよ」

「たいしたことが分からなかったから言わなかったんだよ。まず、おまえの言葉づかいだとか……ほら、大学の先生に聞きに行ったろう。あとはおまえ達を拾った川の近辺で行方不明者がいなかっただとか、カツ坊の面の出所だとか……」

「面の出所? 」

「たとえ不気味な面だって、川の中から自然に削れて出来上がるわけじゃあねえ。誰かが打ったんだ。でもありゃあ最初っから駄目だったな。普通あるはずの銘も無かった。あやかしの方でも目利きしてもらったが、いっこも分からねえ。見る奴が見りゃ、顔の細工の癖なんかでドコソコの職人じゃねえかってのが分かるらしいが、いまいちはっきりしなかった」

「ねえ、ぼくら、どうなってしもうたんやろ。カッちゃんは何か知っとると思う? 」

「どうだかね。おまえこそ、何か思い出すことは無いのかよ」

「思い出せたら苦労はしとらん」

「そうか。ならおれは、カツ坊もそれは同じじゃないかと思っているがね」

 おやじは唸るような声で言った。「どういう意味? 」

「そんまんまの意味だよ。おまえが知らんことを、どうしてあいつが知っていると思ったんだ。三十年も一緒にいて、そんな素振りがあったか? 」

「気づいたンは、ここ一年が初めてや。カッちゃんはなんか知っとウのは間違いない。三十年モンの裏付けや」

「じゃあ、そりゃあこの一年で“思い出した”んじゃあねえのか? 」

 わたしは目を瞬いた。

「思い出したから、カッちゃんはおかしなったっていうん? 」

「知るか。でも原因があるとすりゃアそんなんじゃあないか。そもそも一番分かるのはおまえだろう」

 いつもなら、確かにそうだ。

「……ここ最近カッちゃんもぼくも、人間なんかあやかしなんかよう分からんモンになっとウいうんは、分かるんよ」

 ぼくらを天秤に例えたのは、確かあの魔女だったか。片方が傾けば、反対も傾く。ぼくがあやかしに傾けば、カッちゃんは人に近くなる。人間であるか、あやかしであるかも、それもまた天秤の上だ。

 わたしたちはそうやって、うまくバランスを取ってきた。だから少し前なら、わたしははっきり我が身で感じることができたのだ。

 でも、今は漠然と……。

「今はいろんなことがボンヤリしてて、イマイチわからんのよ……カッちゃん、なんか勝手に……その……ううん……」

 これを口にするのは、なんだか不謹慎ではなかろうか。言霊と云うものがあることも知っているだけに、憚りのある表現な気がしてならない。

「はっきり言わんか。鬱陶しい」

 わたしは恐る恐ると、言葉にするも憚ることをやっとの思いで小さく口にした。

「そのぅ………カッちゃん勝手に、成仏しちゃいそうってねぇ……」

 プッとおやじは吹きだした。

「……成仏。成仏ねぇ……! わはは、おまえら、どっちかってぇとゾンビやキョンシーじゃねえかよ。成仏ってよおぉ! 」

 わたしは一瞬で超ど級に不機嫌になった。膨れて膝を抱え、恨めしげに達磨顔を見上げる。

 ひとしきり腹をかかえて笑い転げたのち、おやじは赤い顔のまま扇を振った。

「マ、好きにしな。ただし面倒はごめんだぜ。なんとか治めな」

 そう確約できたのなら、こんなに困っちゃいないのだ。

「そうつまらん顔するな。あと三日、いや、もう二日だな。たったそれだけの辛抱だ。いまさら二日なんぞ、たいしたもんじゃあねえだろうよ」


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