第二十三夜 海と山椒魚と夢十夜 後編
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そこでおれは眼が覚めた。
どれだけ微睡みの余韻に浸っていたのだろう。はっとして体を起こしたおれの腕の中には、捕まえていたはずの小さな体は無かった。敷布は自分の体のぶんだけ温まっていて、あいつの名残はずいぶん遠くなっている。
夢の中では晴れていた外は、まだ厚い雲があるようだった。しとしと遠い雨音と、逢魔ヶ時ほどに淡い陽が、居間を墨色に滲ませて定かではない。
あいつはもう、この家の中にはいないだろう。そう直感して飛び出した。
はたして外は、様変わりしていた。
粘着質なほどの濃霧がおれの体に膜のようにまとわりつく。家を取り囲む、ほんの先にある石塀の影さえ、そこに『在る』と知らなければ分からない。夜のように暗いものだから、よけいに視界は不明瞭だった。
濁った薄闇を泳ぐように、おれは手探りで門柱の手前にまでたどり着いた。そこに人影がある。
「克巳? 」
その小さな人影は、打たれたように首を廻しておれを見た。
「葦児玖三帆」
おれのフルネームを口にしたのは、克巳の半分くらいの年の子供に見えた。
流れる水のように長い黒髪を背中に垂らした少女である。枕カバーにありそうな花柄のワンピースは少し型が崩れていて、言っちゃあなんだがデパートの紙袋を被ったように見える。素人でもわかる出来は、手作りだろうと知れた。
強張った顔をしていた少女は、おれの名前を口にした瞬間、崩れるように満面に笑んだ。
「あなたは玖三帆? 」
「そ、――――う、だけど……」
少女は子猫ほどの歩幅で近づいてきた。おれの寝巻の袖を引いて唇の前に指を立て、「しいぃ」と息を細く吐く。
どこかこの瀧川の住人に共通した面立ちは、やはりこのへんの子供なのだろう。ここまで登ってくる坂は一本道だけれど、片側がほとんど崖のようになっている。
さらに腰ほどの柵しか無く、こんな小さな子供が上ってくるには不安があるため、多くの大人は、この高台にまで子供を一人で寄越すのを嫌がるはずだ。
「……おい、おまえ」
「シイッたら! 見つこってしまうでしょ! 」
「隠れんぼうでもしとるんか? 」
目ばかりが大きくて、まだ顔立ちの淡い顔に皺が寄り、少女は歯軋りしそうに歯を剥き出しにした。
「またさと子が来んで。あんたは家から出たアあかん。戻って! 」
門柱から出たいおれを、小さな腕が押し返す。流されるままおれは玄関に逆戻りして、田舎特有の広い土間で改めて少女と向き直ろうとした。しかし彼女は慣れた家にきたように、先回りして玄関をよじ登って靴を履いたままのおれの腕を綱引きみたいに引いてくる。
「な、なんだなんだ……おまえなんなんだ! 」
「いいから入って! ここがいっちゃん安全やから! 」
「くつ! 靴脱がして! 」
振り落すようにして靴を脱ぎ、おれは少女の手に引かれるまま、居間の奥にあるもう一つの和室にまで導かれた。この部屋は居間と襖で仕切られるのみで、仏間として作られたであろう部屋である。
この家に仏壇は無いので、この仏間は戸を開け放して居間と続きの広い一室としていた。
迷いのない足で仏間の中心におれを座らせた少女は、その二部屋を仕切る襖と縁側の障子ををぴっしゃりと閉めきってしまってから、おれを見ろして睨む。
「……おまえ、どないしてここン来たの」
「どないして、って。ここはおれの家だし……」
その時、玄関のほうで音がした。
ばじゃん ばじゃじゃん
硝子戸を叩く音だ。激しい殴打音とともに、太い男の声が叫ぶ。
「オオォ―――――イ! オ―――オオオォォイ――――!」
「な、なん……」
「クミホ――――玖三帆くゥ―――――ン―――――」
「ひょえっ……」変な声が出る。
少女は引き絞る弓のように顔を固くしておれを一瞥し、そろりと襖に耳を当てて目を閉じた。
「……おまえは、ぼくらが守うたる」
その言葉が自分に向けられていると気づくのに、三回の瞬きが必要だった。
「あンら、どちらさん」
襖の向こうで、知らない声がする。この少女ほどの子供の響き。それが無人のはずの同じ屋根の下で、湧き出るように現れた。
「こん家になんか用?
男の声が嗚咽する。おれは陣取る少女を引きはがすようにして体をねじ込み、襖を少し引いて玄関を見た。
玄関の扉は、柱が邪魔して見えなかった。そこにいる少女とそっくり同じワンピースを着た子供が、玄関に座り込んだまま玄関に向かって話しかけている。
少女の横座りに投げ出された脚は、おれの腕ほどの太さも無い。短い襟足がかかるうなじが、光るように白く細かった。
「竹流……竹流はどこにおるんやぁ……」聞き覚えのある嗚咽だった。
おれがそうしたように、今度は少女の腕がおれを襖の前から引きはがす。
「……また来ます」死人の声は、それだけ言って遠ざかっていった。
腕を広げておれを遮った少女は、澄み切った瞳をおれに向けた。
「……おまえ、ここはおまえン家や言うたな。違う……こっかァに限っては、もうおまえの家やない」ふん、と少女は鼻だけでため息をつく。
「こっかア、あン世とこン世の真ん中のくに。常世、やでなア」
「……常世」
おれは耳慣れた、しかし初めて口にする単語を舌に乗せる。
「はは……ついに、おれもおかしくなったか? 」
「ふん。ここにいるモンはァ、みイんなおかしい。それがふつうや。うぬ惚れんな」
「……おまえらは誰だ? 」
「サア……名乗るほどの縁もない。終わったらすぐ忘れイ(忘れるはずの)人間や。しやろなア(そうだろう)」
そのとき縁側の障子に、控えめな隙間が開いた。
おどおどと顔を出したのは、三人目の子供だ。同じ花柄の手作りワンピース。目の前の少女より、頭はんぶん低い背丈の子供は、寅さんが被るようなカンカン帽を被って眼鏡をかけていた。目が合うと怯えたように後ずさる。
「あ、あの、姉やん……じきサトコが来るって言うとる。逃がせんなら今やって」
「ほら……いくで。サトコどもは、ぼくも怖い」
まったく勇ましいばかりの顰めっ面で、少女はおれのうでを引いた。
黒髪とカンカン帽に挟まれて腕を引かれるまま縁側をぞろり歩くと、雨戸がガタガタ鳴る。背後から歩み寄って来た短髪の少女も、しんがりを警戒するように短い行列に加わった。
そっちは克巳の部屋だ。とくに裏口のようなものがあるわけでもなく、窓から出ようにも藪の生えた崖があるばかりだと知っている。それとも、おれの知らない道でもできているんだろうか。有り得そうだった。
「きみはサトコってわかる? あのおばちゃんたち」
背後を歩いていた短髪の少女が、朗らかにおれに尋ねた。
「ああ……知っとるよ。小太りのおばちゃんと、眼鏡のおばちゃんと、背が高いおばちゃん」
「そう。巫女の世話役さん。あンヒトら、玖三帆くん探しとるん。しやから逃げなあかん」
「それは、どうして」
「さあ。ぼくにはわからんもん。玖三帆くんが美味しそうやからとちがう? 」
頭の中で、寄ってたかっておれを包丁で切り分ける三人の熟女の図が浮かんだ。
「サトコらは怖いよオ。話が通じんもの。食べられちゃう前に、はよ逃げなアね」
「こら、ミッちゃん」
「用心に越したこたアないでしょ。サッちゃん。ねえ、あんたも姉やんになんか言ってやってよオ」
後ろから小突かれた眼鏡の子が、ぎょっとしてぶるぶると首を振った。
「エッ! ぼ、ぼくゥ? む、無茶いわんでよォ……」
カンカン帽のつばの影から下の髪が、ざらりと刈り上げられている。眼鏡の娘は、帽子の下はいまどき珍しいオカッパ頭をしているようだった。
おれはふと、やけに長く廊下を歩いていることに気が付いた。
見渡せば、慣れた家である。そこの柱の傷の位置も、窓についた汚れの感じすら見慣れている。しかし仏間から奥の克巳の座敷までは、ほんの二十歩もいらないくらいの距離のはずだ。雑談なんて、最初の質問を答える前には部屋の襖に手を掛けないとおかしい。
壁に触れると手ごたえが無い気がする。踏みしめる足の裏に隙間がある気もする。
「……ここはナア、もともと巫女が住む家やねんで。とくべつなんやで。だって、いっちゃん上のお空に近い家やからね。お雛さんも、偉いヒトはいっちゃん上に座るやろ。ここで巫女になった姉やんが、子供を産むんやって。山の下からお婿さんをもろうてね、女の子を産むんやて……」
「……男の子が生まれたア時はどうすんだ」
「さあ? 女しか生まれんねやって姉やんに聞いたけど」
「ちゃうでミッちゃん。男の子やと、『おちうど』に流さんとあかんねやって」
「そ、そうなの? かわいそう……」
「しやけど生まれた男の子は龍の好物やから、流さんでも龍が食べてしまうんやて。でも家に龍が来たら大変やろう? しやからね、こっちから龍に食べさせてあげるん」「食べられたら、どうなるん……? 」「オンナジやっで。常世に行くんやって。しやったら、常世で大人になれんのや」「龍の胃袋は常世に続いとるの? 」「龍のおしりが常世にあんのかも。アハハ」「やだァ」「常世ってどんなとこ? 」「タカんとこの兄ちゃんも、常世に行ったんやて」「ふうん」「ねえ、どんなとこ? 」「年を取らんねやて」「へえ」「そいでね、ここそっくりに、オンナジ家があるんやて」「じゃあ、オンナジ人がおるん。ぼくの母ちゃんもおる? 」「おまえの母ちゃんはおらんで。だって生きとるもん。二人いたら変やろ」「そうかあ……」「姉やんはすごいねぇ。なんでも知っとる」「年上やもの。ミッちゃんとホナミも教えてもらうで」
「……それはいつだ? 」
三組の眼が、水を差したおれの方を見た。
「なあ、その……タカってやつの兄貴が流されたのは、いつのことだ? 」
三組の目が、底光りするような碧が瞳に浮かぶ六つの目が、瞬きもなくおれを見上げていた。
おれは後ずさる。
「おまえらが常世に来たのは、いつのことだ……? 」
「……ぼくは三年もならんくらいかな」
三人娘のうち、髪の長い少女が言った。
「ぼくは一年ならんかどうかってくらい」
短髪の少女が、指を折って数えながら言う。
「ぼ……ぼくは、ついこないだ。ミッちゃんのすぐあとくらい……」
「やっと仲良し三人が揃たんや。ここは良えとこよ。好きな恰好をして、好きなもんだけ食べて、会いたいやつと会えたらうれしい。でも……おまえたちは、もっと遅うでもよかったのに」
髪の長い少女が拗ねたように呟くと、「ええんやよ」と、“サッちゃん”が“ミッちゃん”の肩を叩いた。
「……気イ抜くと、自分の年や現世ンことを忘れてまうん。ここは死人のくにやもの。しやから、玖三帆くん。きみが来るんはまだ早いすぎる」
そう言った“ホナミ”の指が、目の前の襖を開け放った。
突風にカンカン帽が飛んでいく。坊ちゃん刈りの子供が、恥ずかしそうにずれた眼鏡を直しながらはにかんでいた。
「行きなさい」
そう、そっと後ろに下がった坊ちゃん刈りの少年――――帆波さんが、おれの肩を押す。その後ろでおれを見下ろす二人の女は、サヨナラを言うでもなく、何かを言いたげに目を伏せた。
白く白く、遠ざかっていく。
ざざあ――――――ん……
懐かしい潮騒の音がする。潮の味のする雨が、一粒おれに触れた。風がおれの目元を撫でて、「ごめんね」と言った。
……そうか。夢の中で聞いた声は、“ミッちゃん”だったか。
おれは、白波に応えを返す。
その言葉が母に届いた気がしないのは、死人に届くものなぞ、何も無いからだ。
死人に口なし。置いていくだけのあいつらには、おれたちと言葉を交わす術はない。死人の言葉など、生者は慰めにしてはいけないのだ。生者もまた、死人にかけた言葉で自分を慰めちゃあいけない。
そんなものは、一切が幻でしかないからだ。
“サッちゃん”のほうの目元は、あいつにそっくりだった。
どうでもいいけれど。
◐
風が切り裂いてめくれ上げたように、白に覆われて目を塞がれる。再び開けた時には、薄暗い見慣れた廊下である。雨戸を閉め切っているだけでなく、雲の屋根で夜のように影が敷かれた廊下は、手を掛けた襖の向こうの明かりだけで色がついていた。
肩に、白昼夢で触れられた感触が残っている。
相変わらず、克巳の自室は殺風景だ。開きっぱなしの窓で擦り切れたカーテンが重そうに揺れている。濡れた畳を踏みしめ、おれは窓際に立ち、呆然と霧雨でけぶる外を見下ろした。
どこが違うと言われれば、言葉には出来ない。けれどあの世界と、この踏みしめる世界では、真水と海水ほどにも隔絶した違いがあった。
「……そうだ、克巳! 」
少し迷ったあと、もとの道を駆け戻った。玄関までほんの十秒もかからない。
雨戸とガラスの向こうから、猿のような声が高く叫んでいるのが聞こえた。
戸に映る影には目を向けない。散らばった靴をふんだくるように掴んで、また奥の部屋に戻ると、濡れた畳の上で靴を履く。
開け放った窓のサッシに足をかたまま、細く息を吐く。
おれは、霧の中に身を躍らせた。
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