第十三夜 平成百鬼夜行の事情 後編
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ぬめる夜風に、白い花を散らしながら木々がざわめいている。瑞子沼の水面だけが静寂を保ち、風に凪いでいた。
男は苛々と、花弁の積もった地面を爪先で掘り返す。体を揺すって歩き回るたび、腕にぶら下げた刃の先で、土の上にはいくつも筋ができていく。
男の顔は、夜目にも白い面がかかっている。顰めるように薄墨のような眉が寄せられ、不自然に赤赤とした唇の上には、筆の先で撫でたほどの細い髭。目玉を覗きこめば、血走り濁り切った瞳が空ろに見つめ返すだろう。空船の面の一つ。女面・おもかげと同じく、『男面』と呼ばれる一人であった。
男面の使い道は、人魚に預けられていた。雲児が直接彼に与えた役目は、時を待つ。ただそれだけだ。
血の気の多い男面には、退屈でたまらなかった。
―――――――不気味なほど綺麗なとこだ。
誰も知らぬことであるが、この短慮で血の気の多い性分の男にだって、花を綺麗と思う心はある。梅と桜と桃の花の区別だってできるのだ。そもそも、男面は遠いむかし、風流風雅を愛でる生まれであったのだ。
ただ、それだけに、この光景は身がすくむほど恐ろしい。坂口安吾の小説ではないが、この鬱蒼とした桜の森は、気が違うのではないかという圧迫感に包まれている。こんなところに偶然通りかかれば、そりゃア、ありもしない因果を感じて、穴を掘って埋まりたくなるかもしれない。
―――――――空船のヤロウ、いつまでチンタラしてやがる。
こうなっては、早く事を終わらせたくてたまらない。
人魚は移動すると言った。なんでも、山を四つも五つも超えた先にある、娘の墓参りに行くのだそうだ。
「何をしているの」
音も無く沼から上がった当の人魚が、背後から唐突に声をかけてきた。「……別に、なんも」
幼い矮躯に老女の風格を漂わせる人魚は、確かに神秘的だったが、特に興味を引くものではない。
―――――――出涸らしってわけか。
それでも男の目には、老いた人魚が狂ったとは見えなかった。この人魚は、極めて理知的なかたちをした―――――――悪く謂うのなら、昔の自分と同じくらいに計算高い―――――――異形に見える。
―――――――やっぱり親子かね……あいつとオンナジような顔をしていやがる。
「では、すぐにでも出立いたします。よろしいかしら」
「好きにしろよ……おれは人質みたいなもんだ。なあ、あんたはおれをいつ使う? おれはすぐにでも眠りたくてたまんねえんだ」
「ふん。そんなもの、好きしたらいいわ。まったく、慎む口も無いのかしら……。あなた、名前は? 」
気取った言い方が、女面を思い起こさせる。
「ねえよ」こうなった時に、名前なんて意味がなくなった。「おれは死んだんだ」
「いいえ、わたくしには分かる。あなたにも名前があるはずよ」
男は赤みのある癖毛を掻き、面をかけた首を逸らした。古い記憶を掘り起こして、何十年ぶりに自分の名前を口にする。もとを正せば、自分で自分に付けた名。縁深いものから借用した名である。
「……柳だ」
柳は胸中に湧き上がる嫌悪を食む。ああ、やはりこの女は計算高い。
「知っているくせに。いまさら名乗らせるなよ」
人魚は冷たく嗤った。
「娘に惚れた男と顔を合わせるって、どういうものかしらって思ったけれど……つまらないわ。たいしたことないじゃない」
「たいしたことがあって堪るかよ」
柳は思う。思えば生前の自分は、我慢してばかりの人生だった。身内の陰に身を縮め、人魚の呪いに縛られ、逃げることも叶わずに、あの集落でおっ死んだ。そのつけか、男面としての自分はずいぶん気が短くなった自覚がある。
聴いてもいないのに、人魚は昔語りを始めた。
「瑞己はね、ほとんど最後の娘だったわ」
ぞり、と、男面が握りしめる刀の先が地面を削る。人魚は眉一つ動かさず、口を止める気配はない。
「あの頃は、国をあげて大きな戦をするやらしないやら言っていたから、ほとんど捨てるように別れたの。あそこ、昔は『シミズ』って呼ばれていたのを知ってる? 『死んだ水』と書いて『死水』よ。井戸を掘るとね、飲むと臓腑から病んでいく水が湧くので、いつも水に困っていた。それを綺麗にするのに、乞われて産み落としたのがあの子だったわ。……あのへんの水は、瑞己が清くしたのよ。知らなかったでしょう。わたくしももう若くは無かったし、長く毒の水を蓄えて育ったから、あまり力も強く生まれなくてね。長く生きられないと分かっていた……」
長い沈黙が落ちる。人魚の光の無い瞳が、男の顔をじっと見つめて待っていた。
(お喋りな婆アかよ)柳はげんなりとして口を開く。
「……その娘が、血で水を汚したからって自害したのか」
「自分の役目を分かっていたこそ、よ。役目より子を選んだのは、人魚の業。わたくしは褒めることすれ、あの子を責めはしない」
「人魚ってのは、難儀な生き物だな」
「子孫永劫の呪いは、そう解けはしないの」
「その無茶なことを、空児にやらせてんだろう。悪党め」
「ではあなたにとっては、どんなものが悪党になるのかしら」
人魚は笑む。
(……なるほど。こいつァ、おれと議論したいのか)自分が積み重ねてきた行いの技量、とでもいうのだろうか。それをぶつけ合って、研磨したいのである。よく年寄りがやりたがる。それも、たいがいが融通のきかない性質の年寄りだ。柳は少しばかり、面白く思った。
「禅問答か? 人間代表の悪党だったおれから言わせてもらうと、並はずれて身勝手なやつのことだな」
「へえ」
この短い相槌には、いかにも興味深そうな感嘆が含まれているように聞こえた。柳はいびつに目を細める。
(なんだよォ。楽しそうにしちゃってよ。じゃあちょっと、おれのことを知っといてもらおうじゃあねえか)
「ヒトってモンの世の中じゃあ、他人を良い気持ちにさせるやつが善なのさ。ちょっと言っとくとよォ、おれはなりたくて悪党になったわけじゃアないんだぜ。ただ、悪党になったほうが楽な道だったっていうだけさ。良いことに頭を絞るより、悪いことに頭を絞る方が得だったんだ。あんたの娘が兄貴を食うのを見逃してやったのも、ものを盗んだのも、言葉を変えたのも、誰かを騙したのも、誰かに親切にしたのも、子供だろうが殺したのも、女に手ェつけたのだって、おれが気持ち良くなるのに楽な道だったからだ。付け焼刃にしちゃあ、おれはよく悪党やったよ。運も良かったなア」
「ではあなたは、地獄に堕ちるわね」
「まだまだ行かねえよ。空船のつらに張り付いていなけりゃいけねえからな……だからあいつが今のまんまじゃあ、おれはたいそう困るんだ。できるなら閻魔さまンとこにゃア行きたかねえ。……そういえば、人魚は死んだらどうなるんだ」
「さあ、でも人魚にも地獄があるとしたなら、きっと地獄に堕ちるでしょう。だってわたくしたちは人を食う。悪党の血だもの」
「人だって、肉や魚を食うさ。人間もすべからく悪党か」
「人間は薄情なだけ。人魚は人を愛しているのに食うの。食って永劫の伴侶にするのよ……それが悪党といわずしてなんという。まことの悪党は、愛するものが何であれ、愛が奈落ほどにも深いものなのよ」
「おまえ達の愛は、食うことか」
「でなければ飢えるの。そういう呪いだわ。食って生まれた子も、いずれ飢えて愛する男を食うでしょう。そうして呪いにして繋がってきた血を絶つ……それがわたくしの望み」
人魚はそれきり背を向けて口をつぐみ、林の中に分け入っていった。柳はその背を距離をあけて追う。
「じゃああんたは、残った孫娘を、まっとうに恋ができるようにしたいのか」
人魚は長く沈黙していた。自分でした質問であったが、柳は奇妙に居心地の悪いものを抱えて、返答を待った。
「……そう。あなたが名付けて育ててくれた巽にはね。あの子には、愛する人がいる。それがどんな愛であれ……」
「―――――――巽にそんなやつが出来たのか! 」
今までで一番張りがある声が出た。悲壮な声色の中に、感嘆のようなものが被せて混じっている。柳はあの瀧川で死んだきり、巽の行く末を知らないのである。総身を震わせる男を振り返って、人魚は冷めた目を眇めた。
「……あの子が愛しているのは、ただの偽物ですけれど」
人魚が口にした言葉は、木々のざわめきに掻き消される。寝所を踏み荒らして侵入した無数の無法ものに、人魚たちは死してなお嫌悪を表し、声無き悲鳴をあげた。
吹きすさぶ花の嵐の中、赤毛を靡かせて現れた息子の姿を、人魚は念じるように睨み付けた。いつしか百鬼の目が、彼女を囲っている。
「母さん、行かせねえよ。決着はここでつける」
「短慮ね、照朱朗。ここではすべてが母に味方するわ」
ごうごうと風が渦巻いている。あっという間に、林の中は巻き上がった花弁で白く煙った。照朱朗が高く仲間を呼んでいる声が響いていたが、返す声すら風に巻かれて届かない。
―――――――今しかない。
柳は桜の嵐の中で、空船の姿を探した。
「オォイ―――――――空船ェ―――――――どこだァ―――――――」
人魚から離れようとも構わない。壁を作る風に突っ込み、痩躯の人影を探す。癖のある髪だ。色こそ真っ黒だが、あれ実は自分とおんなじような……。
―――――――考えてみりゃあ、あいつ、おれに似ていたのかもしれねえな。
ぽつりと考えたとたん、おぞましいほどの嫌悪が自分を襲った。不気味で肌がかゆい。今更血も涙も無い癖に、自分の頭はどうしてそんなことを考えたのだろう。何十年かぶりに二本足で立ったからだろうか。
花弁があられの様に肌を打つ中で、目の前を黒い影が横切った。柳はそれを腕を伸ばして掴む。振り返った白い顔は焦がれた娘によく似てはいたが、男のつらになっていた。
―――――――まるで悪い夢だな、こりゃあ。しかし、これでおれも晴れてお役御免だ。
「空船ェ! おれだ、わかるか―――――――」
「おまえ、どうして―――――――その体―――――――」
「くっちゃべってる暇はねえ―――――――おれからの餞別だァ―――――――受け取れェエエッ―――――――」
―――――――おれは面だ。こいつのつらに張り付く面だ。こいつが背負った業のかたち。いまさら名前なんざア、イッコもいらねえんだ―――――――。
白く白く、目の前が埋まっていく。空船の頭に、瑞子人魚の声が聞こえる。
―――――――あら、ものに見合ったものを提供するのがこちらの礼儀よ。妖女への依頼が前払いなのは当然でしょう。礼儀は尽くしてちょうだい。
次に聞こえたのは、相棒の声だ。
―――――――では、働きで支払うほかにありません。ぼくには捧げられるものが何もない。あなたさまが提示したお役目を、ぼくが果たす……どうでしょう。
―――――――わたくしは長く生きた。心残りになっているものなんて、一つしかないわ。それでもいいの?
―――――――この天際の雲児の名に懸けて、二言はありません。
―――――――でしたら、人魚の呪いを解くこと。我ら一族に脈々と流れる呪いの血を絶つ。あなたなら出来るはずです。
―――――――……もう一度死ぬつもりで果たしましょう。ですが、それならば、カッちゃんには何も言わないで……。
―――――――いいでしょう。約束します。こちらへ。
暗闇に、人魚の白い首と、その首に連なる水晶が見える。部屋の隅では、息をひそめて照朱朗が見つめていた。
冷たい手の平が首から頬を包み込み、瞳孔の見えないつぶらな目が瞳を奥の奥まで覗き込み、人魚があぶくのような、音無い言葉を囁く。
――――――ゆっくり思い出して……あなたたちの名前は………。
空船は、そこで疑問に思う。
(あなた『たち』の名前――――――? )
閂が外れる音がした。
せき止められていた記憶が黒い濁流となってうなり、鉄砲水となって空船を押し流す。
目を瞬いてその光景を見やる。山が迫るほど近くにあった。田舎道はゆるやかに傾き、顔をあげるとどこかで見た屋根と、満天の星空が見えた。家を巻く土塀の上に、ちいさな人影が腰かけている。
空では、龍が啼いていた。
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