第十二夜 綿津見の木 中編

「七月の半ばに、乙子のおやじさんに電話をかけた」

乙子のおやじとは、おれたちの家主のことだ。「おやじさんはおらず、昼間のことだったから、雲児が電話に出た。あたしは『夏休みかい』とまず尋ねたと思う。長い休みだから、どうだい、前から言っていたうちに来ないかい、と誘ったんだ。雲児は、今年は一人きりだから、是非行かせてほしいと言った……」

 照朱朗さんはそこで少し言葉に詰まり、強く握っていた煙管を置いた。

「……八月の初めに、あの子がここに来た。うちの母さま……瑞子さまは、もうずっと国中を娘の墓参りに行脚することを続けている。ときどき忘れた頃に帰ってきては、また出ていく……その繰り返しだ。あの子がこの屋敷を訪ねた時は、母さまがちょうどお帰りになっていた。母さまが雲児に目を付けたのは、そン時だ。何を思ったか、母さまはあたしと雲児を私室に呼び、雲児に取引を持ちかけた」

「取引……」

「『おまえが忘れていることを、思い出したいか』と……雲児は承諾し、思い出してすぐ、酷く取り乱して、家にすっ飛んで帰っていった」

 おれは、頭の中で記憶を混ぜ返す。今年の夏。雲児は何か、特別なことを言っていただろうか。何かおかしいところは無かっただろうか。……あったのかもしれない。でもおれは、気が付かなかった。それが全てだ。

 照朱郎さんは続ける。

「……何も音沙汰が無く、九月になった。雲児から電話があったんだ。平日の真ッ昼間のことで、たぶん駅の公衆電話からかだろうと思う。『この前はお世話になりました。突然にお暇をして、申し訳ありません』と雲児が言うので、あたしが『構わないよ。今日は学校はお休みかい』と問うと、『いいえ。今日は学校には行かないことにしました。ああそうだ。照朱朗さんに、お願いしたことがあるんです。もう一度、瑞子さまとお話したいんです。今から行ってもいいですか』と。確かにその日、母さんは帰ってきていた。雲児はそのまま電車に乗ってやって来たので、あたしはえらく驚いた。けれど、もっと驚いたのは、あの子が、まったく別人の顔に見えたことだ……」


 分かるかい、と照朱朗さんは伸ばした指先でおれの膝を叩いた。「あの子は思い出したことで、何かが変わっちまったんだとあたしは気が付いた。その後、雲児は瑞子さまと二人きりで数分話して、日が暮れる前には蜻蛉返りで帰ってった。中で何を話していたのか、あたしには分からない。面をかけて水を操るあんたは、あやかしだ。空を飛んで雨を呼ぶ雲児も、あやかしだったろう。空船、あんたは今、ヒトか? あやかしか? 雲児は最後に、ちゃんと雲児だったのかい」

 おれは黙り込む。体がいつになく軽かった。負ぶさっていたものが落っこちたみたいに。重い外套を脱いだように。そのぶん、心だけがひたすらに重い。

「……憑き物が、落ちたみたいなんです。さっき目が覚めてから頭も体もすっきりしてる。……すっきりしすぎて空しいくらいだ」

「じゃあ、あんたはヒトなのか」

「人間だったころのことなんて、覚えていやしません。だから、これが人間の感覚というものなのか、よくわからない。でもさっき風呂で試しました。水が、怖いんです……風呂桶に溜まった水が怖い。顔に飛沫がかかるだけでも怖気がつく。風呂に浸かることができなかった……あの沼は大丈夫だったのに……『ああ……おれはこれで死んだのだ』と……そう、見せつけられるようだ」

「それで」

「……それだけです。雲児は……クウのことは……分からない。おれには普通に……いや、何も変わらずに見えた」

「雲児が消えたあの日、どうしてあたしがあそこにいたと思う? あたしはね、あの子とあの日の昼、電話で話したのさ。その時にね、その話をしたんだよ。でもあの子は……」

 照朱朗さんは気怠い溜息をして、机の上を爪で叩く。こつん。こつん。こつん……。


「分からないことは、まだたくさんある。あんたをあの沼に浸けろと言ったのは、瑞子さまだ。あんたなら、あそこに浸かれば助かるだろう、戻ってくるだろう、と。……実際、そうなった。あんたはほとんど齧られていたはずなのに……いったい、どうしてそんなことを瑞子さまが知って……」

 その時、すらりと戸が開いた。


「それはこの子が、人魚の血を受けたコだから」



 目の前で照朱朗さんの目が丸くなり、一瞬で背筋が伸びた。

「瑞子さま! 」

 するすると衣擦れの音がする。足先が見えないほどに長いドレスの裾を引き、シタシタと瑞子人魚は現れた。長くうねる髪、白すぎる肌、体は折れそうなほどに細く、小作りの貌に濃い淀んだ碧色一色だけの眼がはまっている。背はおれの鳩尾ほどもないだろう。部屋の角で、おゆうが硬い表情をして縮こまっている。

 ―――――――これが人魚?

 瑞子さまはおれのところまでシタシタくるや、おれの頬を、湿った冷たい手の平で抱え込んだ。


「アラ、色男だこと。残念ネェ。わたしくしがあと二百年若けりゃア、一人くらい孕んでやったのに」

 白目のない目がおれを覗き込む。ピィイン…と、神経の糸を弾いたような、痛いほど甲高い耳鳴りが、脳みその中っかわで反響する。耳の穴に直接、瑞子は息を吹きこんで言った。「……答えあわせ、しましょうか」


「あのこが必要以上に入れ込んだのも分かるわぁ。そうねェ。あなた、とっても可哀そうな顔をしているものねぇ……憑りつきそうな顔、しているもの……怨んで呪ったあげく、勝手に死にそうな顔、しているものねエェ」

 おれの目を覗き込み、人魚は嘲る。

「夏、あのコを放っておいたでしょう。駄目よォ……ああいうコは、手綱をきちんと握っておかないと……にこにこしていたって、何を考えているかわかんないわ。次の瞬間には身投げしちゃうようなコよ。抜け目なく機会をうかがっていたのよ。目の前に毒の酒があったら、なんにも知らない顔して干しちゃうのよ。あのコ、そういうコなのよ。あなた、ついに気付かなかったのね」


 それは誰のことを言っている。―――――誰の事を言ってるんだよ。


「……あのこねェ、言ってたのヨ。自分はね、あいつを殺してしまった魂を持っているから、駄目なんですって……ぼくの魂は汚れているんですって……」

 ―――――――だって、あいつがそんなこと、言うはずがない……。

「本当のことを、ね……教えてあげたのよ……雲児のね、魂の名前……人間だったころの、名前ヨォ……」

 人魚は碧の目を見開いたまんま、薄ら笑いを浮かべて、おれの頬から首へ手を滑らせ、そして襟首を掴んだ。

「あんたがあたくしの娘の血を飲んだっていうのなら……ネエ、あんたは、人魚の見る地獄を知っているの」

 おれは目を丸くして、青物の腹のように真っ白い顔を見返した。目の前がちかちかと点滅する。

 ―――――――裸の木。寒い空。凍った大地。女。赤ん坊。……ああ、わたしの足が、足が、こんな……ああ………白、赤、白、黒、白、黒、白、黒―――――――。


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