第十夜 揺り篭は濡れている 後編
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集落でなぜ特別とされていたのか、巽はよく知らなかった。いや、知らなかったわけではない。けして説明をされなかったわけではない。理解しがたかったのだ。
そこの集落のことを、外の者は
集落にはひとつだけ神社があり、それを『おかみ神社』といった。巽の寝床である、そこであった。
瀧川の人々は、『おかみ』への奉納を使命とせんとしているようだった。
集落に通る川の本流には、あの本殿の洞まで続く『ふだらくの滝』というものがあり、そこから供物を入れた箱を落とす。それは必ず新月の夜に行われ、本殿にまで流れてきた供物を迎えたあと、地下の水脈に吸い込まれていくのを見届けて終わる。
水脈は海まで続いていると彼らは信じており、供物が海まで行き着くことを、『うつせおみ』を『落とす』と云うのである。なんでも海まで供物が届けば……つまり、うつせおみが落とされれば、しばらく水害の心配は無くなるのだという。
その『供物』はだいたい巽が齧ってしまうのけれど、どうやら『おかみ』とやらはずいぶん心が広いか、食の関心がないのだろう。巽は食べるなら若い方がいいなあと思う。葬式で流れてくる肉は、たいがいが老人で食べる気がしない。
集落には他にも特有の言い回しがあり、遠雷や、強い風が吹くこと、川が増水して流れる音を指して、『龍神が啼く』『龍が啼く』と云う。
「供物って、どこから持ってくるの? 」
巽なりに、気を聞かせて遠回しになるように考えた言葉だった。柳は洗濯の手を止め、口籠り、五秒は熟考して目を泳がせると、「十分に選ぶんですよ」と言った。
「わたしは、どこからと聞いたの」
「昔は穀物や野菜や魚なんかを縄にふん縛って『落として』いたらしいですよ」
「じゃあ、今は? 人ってそんなにいやしないでしょう」
「外にはたくさんいるんですよ。巽は知らないでしょうがね」
あらかさまな柳の不遜な口調に、ふんと巽は鼻を鳴らした。「それなら、外でどういうものを選んで連れてくるの」
「色々ですよ。巽は子供がお好きだから、なるべく若いのを持ってきます。そうだな。十五より上で、二十のはじめくらいまでの男児です」
「歳も細かく決めているのね」
「そりゃあ十五より若いと、親が騒ぐ確率が増すそうで。探されちゃあ困るでしょう」
「そういうものなのね」
「ま、二十越えた男でも大事にする親もおりますでしょうが、そういうやつは最初から選ばんですね」
「誰が選ぶの? 」
「村の若いやつです。見つからなんだら、順くりに自分らが供物になる。毎回いい仕事をしてくれて、こうして飯にありつける。感謝せんといけませんな」
「……そうね」
たまに、どこかで見た顔が供物に混ざる。これはそういうことだったのだ。
「……じゃあ、玖三帆も行ってるのね」
「あいつはいきません」
柳は、いつになくきっぱりと言った。
「どうして? 」
「あいつは、あの屋敷にいるのが仕事だからです」
もう一度の「どうして」は、聞くことが出来なかった。篝火に照らされた柳が、黒と赤に彩られて瞳を燃やしている。この男に逆らうことは、巽には出来ない。
男は甲斐甲斐しく巽の世話を焼くけれど、けっして従順ではなかった。
喉から出かかった言葉を飲み込み、次の言葉をさぐる。
「これ、言ったかな。沼の中にね、誰かがいるんだ」
「ハ? 誰か、とは……」
「きっと神様だ。おかみ様って、あれだと思うの。すごく大きいんだ」
「……へえ、そうですか」
気の無い返事だった。
巽はむくれて頬を膨らませると、水にもぐる。理由の説明がし辛い、胸がよじれるような鈍い痛みがあった。
柳と云う男のことを、巽はひとつも知らなかった。自分に仕えている男というだけだ。しかし、ただ仕えているというだけではないのは、巽にも分かりつつあった。訂正、意外と知っていた。でも、それだけだ。
(……あいつは何なんだろう)
自分が赤子の頃からいるという。けれど、それを詳しく知る者はもういない。昔はいたのかもしれないけれど、皆死んでしまった。ここでは死者は必ず巽が齧ることになるのだから、まず間違いない。
その知っていたかもしれない人々も、誰かからの又聞きだった。柳はまわりが老いる中、ずっと巽と一緒にいるのだった。
巽はどんどん潜り、暗い水底に手を付いて、壁面まで辿る。洞の中にはいくつも穴が開いている。一番目立つのは、もちろんあの供物が流れてくる大穴であるが、中には水中に隠れ、人魚にしか見つけられない穴も多数存在する。
巽は水の感じから、これの一つが地上を流れる川の一つに繋がっていることを肌で知っていた。そこに潜りこみ、流れに逆らって尾を跳ねさせる。休みなく動かした尾が痛くなって痺れるほども泳ぐと、水面が頭上に見えるようになる。腹が立つとたまにする悪戯のひとつで、今の巽にとって一番悪いことだった。
水が冷たい。ごうごうと『龍神が啼いている』。こういう日は、必ず雨になる。だいたいどれくらいの雨かということも、巽にはよくわかった。今夜は一晩中しとしと続くだろう。
(あれ、しまったな。人がいるじゃないか)
集落の男どもだ。陽が落ちかけ、空が藤色に変わりつつある中、松明をかかげてぞろぞろと歩いている。木々の濃い陰と、掲げ持つ赤い炎と、差す夕日とで、畑仕事で体格のよく似た男たちの顔は、面をかけたように一様に黒く塗りつぶされている。ぞろぞろと列を組んで背中を丸め、彼らは水を覗き込んでいるようだった。網を持った者もいる。
(こんな時間に、漁にでも行くのかな)
ここでふと、『巽』の思考が止まる。
(……いやな予感がする。このあとは、どうなったんだっけ)
ぶつんとテレビの電源が落ちるように、巽の目の前から川面と懐かしい匂いが途切れた。かわりに、ぶつぎれになった風景が、いくつも断片的に流れ出す。
(……ああ、そうだ。思い出した)
巽はあのあと川面を揺らさないように、ゆっくりと深いところを通って川を下った。陽の差す水辺にしか棲まない魚や虫を見ながら、やがて川は広くなる。
流れに身を任せる巽のほうがずっと歩みが早く、行列からはすぐに遠ざかった。どんどん浅瀬になっていくが、かまいやしない。人気は無いのだ。
そこで巽は見つけた。男たちが探していたものだった。底の岩の間に顔を埋め、青い上着がはためき、手足が水面のすぐ下でゆらゆら扇いでいた。
それは、七つほどの子供だった。
次の日、巽は洞を出ることを許されなかった。昼に老人がやってきた。集落の長の老女だということだけ知っていた。
若衆の背負う輿に乗ってきた老女は、挨拶もせずに声を低くして、柳に言った。
「死人が出た」
柳が僅かにのけぞったのが分かる。「そうですか」と言った声だけは、平坦であった。
「次の新月はいつだったでしょうか」それはつまり、次の奉納はいつかという話だ。
老女はゆっくりと、亀のように首を動かしながら言う。
「あと二十五日もあとやぁ。こなァいに奉納しとっちゃばかり。どうする」
「どうするも……」
柳が狼狽えている。老女は溜息をついた。
「……おかみ様は息災きや? 」
「お元気ですよ」
「なら、なんでぇいや。柳さま」
「それは」柳の肩が上下に揺れる。「……供物が、あかんかったんえしょうか」
「供物が? 余所もんをつこたぁんが、いかんと申しますンか……ふうん……けえども、一年に二人は、瀧川の男をおちうどに落としとったんに……」
「集落のものを毎回落とすわけにあ、いきません。でもせめて次は、用心のために瀧川のもんをつこうてみては」
「おかみ様……巽さまはどない言うとりや。なあ、巽さまは、どない思うとりますんや」
「あいつは、上の克巳らを気に入っとります」
「玖三帆か。柳さまはえンですか」
「何がでしょう」
柳の声の単調さが、初めて揺らいだ。
「玖三帆を落としてしもうて、ええンですね? 」
「なして、わたしに聴かはりますんや」
「ミツルを可愛がっとりましたやろ。あいつはミツルの息子やえ」
「そないなもん……ははっ、関係ありませんえな。瀧川を出た女やイ」
「……あんたがそう言わはるんにやら、うちはえンですがいね。ミツルがおらんようなって、やっと生まれやった急拵えの『ヒルコ』も落っち
老女の声色は、呆れた風にも、哀しげなふうにも聞こえた。それに気づいているのか、奇妙に揺れたままの声で柳が畳み掛ける。
「克巳はどないしましょうや! 」
「克巳? ……まあ、克巳には可哀そうなことになるやろが……玖三帆にや、懐いとっちゃあみたいやし……」
「しやない、しやない。克巳は落とさねや」
「克巳を? しやかて、克巳は女やで」
「実はな、なあ、弥百合ちゃん。ほんまもんの『おかみ様』は、男でええんやろかと思うてや」
「ほんまもんの? 」老女が驚く。「それは……考え至りとりませんで」
「おかみ様は竜神やろ。龍神の贄いうたら、乙女いうんが普通ちゃいますんか。なあ」
いつになく熱心な口調で、柳はウンウン自分で言ったことに頷いている。すると老女は驚くほどあっさりと、すべてを決めてしまった。
「……しやなあ。それも一理ある。柳さんがそう言うんなら、次は克巳と……玖三帆の二人にしときましょか……」
◐
目が覚めた。
巽は横たわったまま、目玉だけを動かして暗い室内を眺めた。見慣れるにはまだ馴染まない天井が見える。
自分の息遣いがうるさい。どうして、と思いつつ、今しがた見ていた夢の事を思い出そうとするが、しかし脳裏の雨音に流れていってしまったようで、一つの情景も浮かばない。どこかで嗅いだ匂いだけを覚えていた。
窓が開け放されていた。まだ降っている。乱吹いた雨粒が、絨毯とカーテンを濡らしていた。竜が啼いている。
空に稲光が迸った。白い世界に、黒々と人影が差す。
巽は夜気を啜って硬直する。
遠雷を背に、誰かが立っていた。その人影はずいぶん背が高く、天上にまで首をもたげ、巽を見下ろしているように差す。
光が去ると、しかしそれは、項垂れるように首を下げた小さな姿をしていた。長い髪が風に散らばり、飛沫を受ける姿は寒々しい。
「だれ」
ほんの囁くような声しか出ない。巽はかわりに、その子供にじっと目を凝らす。秋の終わりに、褪せた薄手のシャツを一枚着ているだけだ。「あんた、だれ」
応えるかわりに、そいつは顔をあげてみせた。白い顔が薄く笑ってこちらを見ている。福福とした女の能面が、そいつの素顔を隠している。
うぅ、と、それはくぐもった声をあげた。もがくように肩が揺れた。
「……苦しいの? 」
巽は尋ねた。今度は応えがあった。
……たつみさま、と、一言そいつは呟いた。小さな体に合わない男の声だった。
「たつみさま。わたしは。あなたにだけは。うそはつきません、よ」
面が笑む。ぼつぼつとたどたどしい言葉は、子供のように崩れていく。
――――――あいつとの。やくそく、を。
――――――ぼくは、うそは、つからへん、から。ネェ……
「あっ……」
巽は這ったまま、身じろぎもできなかった。やがて人影は消えていて、巽は濡れた床の上で這いつくばっていた。冷たい雨が体を濡らし、服や髪がうっとおしい。体の震えが止まらない。
「どうしてこんな、いまさら……! 」
雨音が、稲光が、床に這って項垂れる巽の上を遠ざかっていく。
(なんで声が出なかったの。なんで名前を呼んでやれなかったの。なんで一言、謝るだけでも出来なかったの……)
その声の持ち主の名前を、巽は脳裏で何度も呼んだ。
玖三帆! 玖三帆!玖三帆!
(あいつはわたしを恨んでいるに違いない……)
雲が晴れ、まみえた星空に、数日ぶりの虫時雨が聞こえだした。どれだけそうしていただろう。
爆発のようなけたたましい音を立て、鉄扉が開く。男は荒い息をしながら、玄関口に立ちすくんで巽を見つめた。
柳は血走った目を濡れた部屋に向ける。巽は乱れた髪の下から言った。
「柳、さっき、玖三帆が来たよ」
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