第苦話 けものみち 後編


 ◐


 ここ最近、冬も近いというのに、やけに雨が多い。もう一月近くなるだろうか。古い壁面のコンクリの罅が、こころなしか広くなった気さえする。

 雨になると巽は元気だ。今年は空梅雨で、ことさら堪えたようだったから、顔色がいいとほっとする。しかし毎朝九時には外に出なければならないおれは、冷たい雨に生気を吸われてゲッソリだった。

 花が咲いたような雑踏も傘の下で項垂れたように見えるのに、調子の良い巽は、ことによっておれの外出手前に起き出してきては外出をねだる。つまるところ元気なのは、人魚くらいのもんなのだ。

 おれは車に乗り込み、キーをまわした。遠慮なく暖房の温度を押し上げ、濡れた指先を擦り合わせて暖を取る。


 気が付けば、人魚に出会って一世紀以上にもなってしまったのだった。最近では、目に見えて体力が落ちてきている。黒さを保ってきたこの頭に白髪を見つけたのは去年の秋だ。巽は気付いているんだろうか。

 逆に、人魚はどんどん若返る。より一層と、美貌の曇りが晴れていく。

 あのころは良かったなあ、と思う。あの山村にいたころは、まさしく天下であった。もう、半世紀ほど前になるだろう。あっというまだ。

 今のおれに出来るのは、小銭を稼ぎ、その合間に野良猫野良犬をあさるくらいだった。巽には、生まれて一年以内の若い血しか与えないことにしている。獣を代用しているのだ。それくらいはしよう。

 保健所や、それらを集める施設や、ネットで検索した子犬譲渡である。懐が温かければ、ペットショップやブローダーも巡った。そしてどんなに遅くなっても帰りには、いわゆる自殺の名所というものにも行ってみる。この小さなスマートフォンが、おれたちの命綱だった。

 ここ十年ばかりはインターネットを覚え、だいぶ楽になったと同時、やりにくさも出てきた。現代は検索で一発、地域のそれらが出てくるが、ネットでおれの情報を拡散されてしまうことが怖い。また、同じ施設で続けて調達することは出来なかった。

 疑心暗鬼に陥った情報社会の弊害か、書類仕事がかっちりしてきたところが多くなったように思う。身分不確かな者には、野良犬だろうと与えてはくれない。捕まるわけにはいかないのだ。一番良いのは、自殺者がたまたま男で、まだ息がある場合。次に街にいる野良を攫うことだ。発情期の春先などはいいが、獲物が見つからず、見知らぬ街をあてなく歩き回ることもしばしばである。


 おれたちがあの山村を出たのも、雨の日だった。歩く横で黒く水が噴いていて、互いの顔が泣いているのか笑っているのか分からないほど霧で曇った道。おうおうと山の上で竜神が吠えていた。おれたちは手と手を取り合い、一度も振り返らずに山を下りた。まるで最初のあの時のように。

 今日は野良探しをしたあと、夜から早朝にかけての仕事がある。とりあえず国道に出ようとハンドルを切った。住宅街と田園の混在する中に、ひときわ鮮やかな緑のフェンスと、白い四角い建物が見える。児童の手作りの交通安全の看板の脇をのろのろ通り過ぎた。小学校は早くも門が閉じ、すでに授業が始まっているらしい。


 ラジオをかけようと左肩を下げ、手を伸ばしかけた時だった。

 視線が左上を向いたのだ。巽はいつも、助手席ではなく後ろへ座る。後部座席に向けられたバックミラーが、目の端に映った。くっきり白い顔をした誰かが、そこにいたように思ったのだ。

 巽だと思った。確かに見慣れた人魚の肌色に見えた。これは間違いない。

 あいつが隠れてついて来たんだと思い至り、そして、そんなわけがないと知ってもいた。巽が、おれより先にこの車に乗り込めるはずがない。苦手なエレベーターを使ったとしても、あの鈍い箱じゃあ階段には勝てるわけがない。

 おれは慌ててバックミラーを二度見した。

 いない……。


 車を止め、おれは後部座席を覗き込んだ。誰もいない。いるわけがないのだ。座席は冷たく、乾いていた。

 これは、あの時に似ている。背負った桶の中から声を聞いた時の、あの冷たい手で肌を撫でられたような、総毛立つ感覚。



 ―――――――おまえ、約束を違えたな。




 袖の下で鳥肌が立っていた。おれは思わず、車を降りた。ただの空見だった気がしなかった。

 雨は霧雨になっていた。ミラーの脇に立ち、しばし雨に打たれる。じわりと温まっていた身体に、雨が染みていく。

 細かい水粒は、街路を白く煙らせていた。裸の田畑に霞がかかり、霞の中に家々や木々の影が見え、さらにその霞の上に影が落ちているのである。

 びゅうと風が吹いた。

 霧が体に吹き付けられる。何かの群れのように、霞がいっせいに蠢いて渦巻いて行進する。息が白い。顎が痙攣していた。

 運転席の窓におれが映っている。側らには、色の無い子供が立っていた。

 細いあごに、吊り上がった黒々と濡れた眼。血の気の少ない唇。華奢な四肢をたらりと脱力させて、どこかで見たことがある服を着たそいつは、泣きはらしたように赤く潤んだ目尻をおれに向ける。記憶よりも背が伸び、顔立ちが洗練され、よりいっそうと巽に似てきていた。巽と血の繋がりなんて無いのに、不思議とそいつは、あれとよく似た面差しだった。

 おれは、そいつの名前を知っている。喉から押し出されるように、そいつの名前が口から出た。

「カツミ」


 それを合図にしたように、カツミははっと目を見開いて、大きく口をあけた。黒々とした瞳は一瞬で膜が張ったように濁りきり、柘榴の粒のような歯列の奥の蠢く粘膜の洞穴をおれに向け、白濁した舌を跳ねさせ、痩せた手をおれに向かって伸ばし――――――また強く風が吹いた。

 渦巻く霧と共に、カツミもまた、蝋燭の火のように風に流れて空へと消えていく。


 風が雨雲を攫ったのか、空があっというまに晴れた。しかし青空の下では、まだ雨は降っている。肩の肉を打つような、さっきよりも大粒の雨だ。

 こんな天気雨を、『狐の嫁入り』という。聴くところによると、神隠しの予兆だそうだ。


 ――――――ねえ、柳さん。

 記憶の中の幼い顔が、おれを見上げて言う。

 ――――――ぼくがもし、うつせおみを落としたら……

 ――――――クウは、死なんですむんですよね。

 カツミは、その時まだ十三歳だった。夏の日差しと蝉の声が燦々と降り注ぐ。木陰からはみ出た背中が暑かった。

 ――――――ぼくはね、柳さん。もし運よく生きていたとしても、くわれても、ええんです。ええんですよ。



 あいつが成長して、高校生にでもなっていたのなら、こんなふうになっていただろう。そう、あいつは死んでいる。この世にはいないはずなのだ。だからおかしい。

 おれはその現場に居合わせたのだから。

 おれがあの、奈落に繋がる滝壺に、落っこちるように仕向けたのだから。

 ――――――ぼくはちゃんと、巽ちゃんを助けてみせます……神さまなんて、きっともう、この世にや……おらんのですから。


 ◐


 夜の車窓から、暗闇にぎらついたネオンが、ちかちかと目を誘う。何年経とうとも夜の街は、腰が浮いたような落ち着かない気分にさせる。夜の蝶とはよく言ったもの。まるで自分が光に寄りつくだけの頭の無い虫になったようで、まとわりつく不快感があった。

 国道に沿って車を走らせながら、気が急いて仕方なかった。まだ雨が降っていやがる。このままでは事故を起こさない自信が無い。

「くそっ、なんなんだ……」


 陽があるうちはまだ良かった。歩く人々の顔は前を向き、おれもそれに倣えば良い。それでも今日一日の収穫は散々なもので、原因は言うまでもない。

 付けっぱなしにしているラジオからは、聞き取れない言葉の歌が流れている。人気の若手バンドらしく、男なのか女なのかよくわからない声だと思った。譫言のような言葉の中、断片的な単語だけを耳が拾って脳みその中でハウリングする。

 ……気がおかしくなりそうだ。

 夜のパートまで数時間あった。陽はすっかり落ちてしまったが、まだ帰宅途中の未成年が出歩いてもおかしくはない。どこか店にでも入ろうか。おれは酒は飲めないが、二十四時間やっている飯屋も最近は少なくない。けれどそうなると、今度は車が邪魔だった。

 そこまで考えるとたまらなくなってしまって、おれは適当な路上脇に車を止め、背中を丸めてハンドルの上に覆いかぶさった。目を閉じ、大きく深呼吸に努める。


 ……落ち着かなければ。

 今この時も、見られている気がしてならない。人ではないものは、何も顔についた目玉だけでものを見るとは限らないということを、おれは身を以って知ってしまっていた。その気になれば、あいつらはどこまでもついてくることが出来るのだ。

 顔をあげると、自分の車がシャッターの降りた薬局の前に止まっているのが分かった。ひっそりと街灯だけが立っている道の向こう側で、ピンク色のネオンがきらきらしている。

(なんであいつは、いまさら……)

 克巳は、一見して明るい子供だった。悪戯好きのお転婆で、同世代よりも飛びぬけて頭が良かった。成績の話ではない。老熟という意味での、『頭が良い』だ。  


 生い立ちや最期を考えると、あいつほど祟って怖いやつは、おれにとってはそういないのだと気が付く。少なくとも兄貴や母親や、村の男どもよりも怖い。もはや顔も覚えちゃいないのはもちろん、あいつらは、おれが人魚と因果で結ばれる前の奴らだからだ。


 克巳と玖三帆の経歴は似ている。

 あいつらの親は、どちらも集落を逃げ出したのだ。やがて死ぬか、育てきれなくなったかして、集落に子供だけで返されてきた。うち、玖三帆は特別だ。あいつの母親は、おれが手を出した女だった。そのすぐ後に彼女は集落を出たから、もしかすると、玖三帆のやつはおれの種から生まれたのかもしれない。

 それでもおれが恨まれて怖いのは、克巳の方だった。それはきっと、克巳が巽と似ているからだ。巽がまだ、皺くちゃの婆あだったころから思っていた。克巳は、あの人魚に似ている。だから巽とも似ているのだ。


 冷めた目の子供だった。

 十になるかならないころから、一人きりであの一番の高台にある家を宛がわれ、十一の冬に十七の玖三帆がやってきた。親と妹が死んだから来たというのに、克巳は最初から笑っておどけて見せた。そして他人が楽しげにしているところを、観察するように冷めた顔をして見つめる。

 人の機微を学習しようとする。それだけに、あれほど熱心な生物を他に知らない。あいつは誰が何で喜ぶかと一緒に、どうすれば一番嫌がるかも知っていた。昆虫の習性を実験するような目をして学んでいた。

 克巳が大人になれば、どんなに恐ろしい女になるだろうか。

 そんな妄執が、おれの胸にずっと蔓延っていたのは間違いない。だからあいつを殺す時、はじめておれは躊躇った。あいつが人で無くなれば、どんなに怖いだろうと思ったから。けれど生きていれば、おれは狂っていたかもしれない。

 克巳は本当に、綺麗な顔をしていたのだ。あんな子供がただの人間であるほうが、おれにとっては脅威だった。

 あいつの中に、おれはヒトという化け物を見たのだった。



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