第二十七夜 月光に眩暈 前編
雨が降っている。ぼとぼとと、塊のような雨が降っている。遠雷が近づいてくる。
跳ね回る泥色の瀧川を見下ろす克巳の背に、おれはつい、尋ねた。
「おまえ……そこに飛び込んで、死ぬつもりなのか? 」
ゆっくりと首をもたげた克巳は、凪いだ目でおれを振り返った。
黙するおれたちの間を、甲高く啼く風が一閃する。克巳の服と、出会った頃は肩にも付かなかったはずの、いつしか腰まで伸びていた髪が、霧を含みながらひるがえった。
「……ぼくは、死にたいわけやア無いんやよ」
克巳は言って、また川を見下ろす。「でも、」
「ぼくは、死にやあならんと思う―――――」
飛沫が克巳の足首を濡らす。「しやないと、終わらんと違うやろうか……」
くらくらと克巳の頭が重そうに揺れた。今にも踏み出しそうな小さい踝を見ながら、おれはじっと、視線を下げたままにする。
「おまえ一人死んだところで、何が変わるもんか」
目を見ると、何も言えなくなるだろうと思った。
「おまえなんて、この世の大半にとっちゃあ、いてもいなくてもオンナジだ……そうだよ、おれだってそうだ。おれは―――――ああ、ちくしょう。違う、そうじゃない……」
さっきこいつの弱音と泣き顔を見て安堵したのは、まぎれもなく自分だ。
おれは告げる。
「……そうじゃあないんだ。巽さま」
その唇が震えていた。
「違うんだよ。巽さま。おれは、たぶん克巳が大事なんだ。その餓鬼の体が心配なんだよ。……そいつが笑ってると、安心するんだ。忘れていた妹を思い出しちまう……いい思い出なんてないし、ろくに覚えちゃいない。似ているかも分からない……でも、克巳の中に、おれは妹を見るんだ。そいつが生きてなきゃ、おれはもう、おかしくなる」
ハアッと吐いた息が震えていた。
「なあ、巽さま……そいつを泣かせないでくれよ」
「―――――ああ……っ 」
その碧の眼が溶けたように、大粒の水を溢した。
克巳の体ががくりと落ちる。霧を掻き混ぜる風が、女の悲鳴のように啼きながら霞を引き連れて遠ざかっていった。
「克巳! 」
ほんの数歩が、ひどく遠く感じた。傾いだ克巳の体は、尾鰭のように髪の束を置き去りにして空中をふらりと泳ぎながら落ちる。
べっちゃりと泥の海に沈んだ克巳の頭を抱きかかえて、顔を覆う髪を掻き分けながら、おれは細い息を何度も吐いた。青白く薄い瞼はぴくりともしない。
「克巳……巽さま」
あの人魚を傷つけたろうか。
おれはぐっと息を詰めた。巽人魚を怒らせるということは、この山に住む人たちを敵に回すということだ。もちろんおれに、行く当てなんかない。無事にこの山を降りられる保証も無い。
と、不安と同時に、あの人魚はほんとうに神さまのようなものだったのだな、と考えた。
人ひとり操る。そんなことが出来るものは、ヒトとは違う。化け物か神様だ。
泥だらけのおれたちを、殴りつけるような大粒の雨が降り出した。
ここではこんな天気を『龍が啼く』という。
これは、彼女が泣いているのだろうか。
◐
たっぷりの闇で満たされた龗神社の洞の奥で、わたしはさらに深い水に潜っていく。夏でも冷たい黒い水は、音も光も無い世界だ。いるのはわたしと、あの黒い朽ちた石像だけ―――――。
身を寄せても、藻が揺れるだけで石像は口をきかない。癒すこともないが、傷つけもしない。ただ、忘れることを促してくる気がする。
地面が音もたてずに落ちるよう。
絶望するとはそういうことだと柳は言った。
わたしはもう何度も、それを味わっている。だからこれは、絶望などではない。
よろこびだ。
こんなことは初めてだった。誰にも成し得なかった。
ほかの誰でも無い。玖三帆が、愛しい人が、わたしを見つけて名前を呼んだのだ。
こんな奇跡のようなことが、本当にあるのだろうか。「巽さま」とあの口が……。
―――――どうしてそれだけで……。
ずっと誰かに、こうして見つけてほしかった。おまえは『巽』という名前だと指摘してほしかった。この名前に、柳に付けられた以上の意味をつけて欲しかった。
……ああ、思い出した。どうして忘れていたんだろう。
克巳、おまえは最初にわたしの名前を呼んで、「一文字違いやんね」と笑ったのだ。
――――ああ、うれしかったなあ……。
◐
龍が啼いている。
あれだけ厚く重なっていた雲が、ちぎれるように青空が覗いた。大ぶりの水粒はなおも止まず、おれたちを打ち付けていたが、けっして寒くはなかった。
どこかの木陰で夏の虫が第一声を上げてから、少し早い蝉時雨が騒ぎ出す。
ザアザア降りの天気雨は、太陽に輝いて洗い流したように澄んでいた。
高い青空が、緑の森が、赤々と照らす太陽が、色を取り戻して夏が来るまでの数舜を、おれは文字通り瞬きも出来ずに眺めていた。
一向に目を覚まさない克巳を連れ、おれはやっと重い腰を上げる。
意識の無い人間を連れて歩くには、けっきょくお姫様のように横抱きにするか、赤ん坊のように背負い込むしか楽な道はない。
十四の子供は、もう十分に肉も詰まっていて手足も長い。背の高い女が同じ背丈の男より軽いということはないし、逆でも同じである。同世代に比べてヒョロリと長い克巳と、同世代に比べても発育悪く成長したおれでは、大人を背負うのとそう変わりは無かった。
「なあ、克巳……」
ぬかるんだ地面を踏みしめて、おれは沈黙する背中の荷に問いかける。
「おれ、覚えちゃいねえけどサア……正直なところ、妹はおまえと似ていない気がするんだ。おれを見てりゃア分かるだろ。女でもだいたいこんなもんさ。何より、自分を食えだなんて言う変態ジャアないだろうしな……まあでも、傷の舐め合いくらいにゃあ、誰でもするだろう。でも、おまえを妹の代わりにや、せんから……」
いくら体は大きくても、ぐんにゃりとしたこの肉の体温は、まだまだ子供そのものだ。
「しやからおれと、山を降りようか。なあ、克巳……」
うん、と肩口に額が擦りつけられた。
「大丈夫だよ。死にやしねえよ。どこ行ったって……」
「うん」
「三年も一緒にいたんだ。おれたち一蓮托生でサア、いいじゃねえか、もう」
「ウン……ッ」
そう、克巳は何度も何度も莫迦みたいに頷いた。
うなじが濡れる。目の前を、飛沫が陽に照らされて輝きながら降り注ぐ。
ひゅう、と風が一閃した。
地面の底が抜けて、黒い穴が開いたのだと思った。それほどに一瞬で、おれの体は吹き飛び、恐怖するほど軽くなる。背中にいたはずの子供が奪われた背中とおれの首には、流れた血だけが残った。
「克巳ィッ! 」
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