第二十六夜 ガラテアの本能、または警告と迷彩
柳がおまえに懸想したと気づいたとき、わたしはおまえを憎らしく思ってしまう自分に、ずいぶん驚かされた。
あれは、顔も忘れた母がわたしの馬代わりに寄越した男であるのだと、わたしに与えられた記憶が言う。
わたしはよくよくそれを理解していたが、幼少のころに、何を勘違いしたのか、あの男を父と呼ぼうとしたことがあったのも事実だった。
あの男は、母を甘言で騙し、わたしを攫って売ろうとし、それができないと知れば殴って育てた男である。瀧川では入れ替わり立ち代わりにたくさんの人間を見たが、あれほど欲の深い人間は見たことが無い。
あいつに泣かされた女が、水辺で顔を洗いながら「あいつは地獄に落ちるだろう」と言っていたのを知っている。同じようなことは、この百年余りのあいだに両手で足らないほどあった。
わたしは地獄に落ちる男を手放しがたく思っているのか。
人魚に父はいない。そういうイキモノだ。
しかし友をつくることは、出来るのだ。そのはずなのだ。
わたしはどうして克巳を憎く思ってしまうのか。柳が目を付けるほど綺麗だったから? わたしに無いものを持っているから? 玖三帆が傍にいるから?
きっと全部だ。
浅ましい。わたしは神さまのくせに、ヒトを妬んで苦しんでいる。
人間なんて、すぐに死んでしまう。赤ん坊が老人になるのはあっという間だ。寿命を待たずとも、ひょんなことでぽろりと落っことすこともある。
莫迦らしい。
わたしは、そんな人間になりたいと思っている。
一回目。
玖三帆が死んでしまった。柳が殺した。
おまえは、玖三帆を助けてほしいと言う。
わたしは言った。
「そんなことをすれば、死ぬよりつらいことになる。助けられる保証も無い。わたしに出来るのは、おまえの意識を少しばかり巻き戻すだけだ」
繰り返される時の長さは、わたしたちのような、ヒトではないものたちが生きる時と同じ感覚の世界だろう。おまえは擦り切れて消えてしまうかもしれない。
けれど、おまえはそれでもいいという。
だけども、わたしが駄目だった。
「……わたしはおまえを失いたくない」
克巳は、はじめて同じイキモノのように触れて来たヒトだった。
化け物でも神さまでもなく、ただ友という括りで言葉を交わすことが、どれだけわたしを安心させたことだろう。
そんなおまえが、わたしを神として頼っている。
それは放り投げた小石のように、寂しくわたしの中に落っことした。
それでも友だもの。わたしは最初におまえを見てどう思ったのか、もうとっくに忘れてしまったけれど、過ぎし日々がどんなに楽しかったのかは忘れられない。
おまえにわたしの血をあげる。はんぶん命をあげる。
命をかけるおまえの旅路に、わたしがあげられる大切なもの。
ヒトは皆、生きたがりだと思っていた。死にたくない、死にたくないと喚きながら死んでいく。
おまえはその欲が無い。どうせ死にたがりなんだから、そんなものいらない。そう意固地に言うのだろう。
でもわたしは、友なのだから。それに、神さまなのだから。
おまえが憎らしい。羨ましい。妬ましい。だけど。
爪先ほどの命を燃やし尽くすことに躊躇わないおまえが、わたしは誇らしい。
それは本当なのに、どうして。
どうしてこうなってしまったのか。誰よりもそう悔やむのはわたしだ。
「また失敗したなあ」
柳が言う。
「あいつ、やっぱりおれを止められないんだ」
柳が笑う。
おまえ……おまえ……どうして玖三帆を殺そうとするの。
「自分の子を殺すのがそんなにおかしいか? 人の世ジャア、いくつもあることだア。なあんも不思議じゃあない」
人魚はそんなことはしないのだ。
「人はするよ。猿のときからしてるんだ。おれはご先祖様に倣ってるだけサ」
そんなことするくらいなら、人魚は自分の子供を食う。腹に収めて、また生みなおすんだ。そんなおぞましいことはしない。
「人はそんなこと出来ないさ。飯が足らなけりゃ余所から奪うし、弱いモンから食っていく。そうやって生き残らねば、ヒトではない。子供を殺した親は言うんだ。『来世でまた』と。死んだら次があんだとさ。馬鹿だねエ。すぐ忘れるくせ」
それがヒトなら、人魚はヒトを好いたりしないはずだ。
「ふふん。そんなら、おまえらはヒトに代々騙されっぱなしなのさ。おまえのカカアもおれに騙されたジャアないか」
話を逸らしているね……どうして玖三帆を殺す理由がある。
「簡単だろう。あいつがおれの女をとったからサ。おまえ、玖三帆に懸想しとるだろう? 克巳を傍に置いて、あまつ、おれを差し置いておまえまでってのは……ナア? 」
そんなの! そんな理由で!
「そんな理由ジャアないさ……見て見ろよ巽。おまえもオンナジふうになるさ。だっておまえの名前は、おれがつけたんだもの。おまえはおれのさ」
立場を弁えろ。おまえなんて、また消してやることも出来るんだ。
「ほら見ろ。おまえはおれの娘サ……。不都合なやつは、誤魔化して騙すんだ。そんなもんはズルだろう? おまえはおれを消せはしないサ。自分に名前をつけた親父を殺すのは、おまえにゃ出来やしないんだから。人魚は子殺しをしないんだろう? 親殺しだって、出来やしないのさ。おれは知ってンだ。残念だったなあ」
おまえくらい殺せる!
「殺せやしない……だって、おまえから離れられない呪いをかけたのはおまえの母さまだ。おまえも知らない母の顔を、おれだけが知っているんだもの。おまえと同じ生を生きられるのはおれだけだもの。おまえは玖三帆と克巳を助けて、そのあとどうする? あいつらが夫婦にでもなって、子が生まれて、おっ死んで、そンあともおまえは生きるんだ。ヒトの生はこんなにも短いんだ。おまえ、どうやって生きる? おまえの世話をするおれもいないで、神さまだ、化け物だって恐れられながら、どこにも行けずに寿命を待つか? ……なんてかわいそう。寂しい、寂しい……そうやって生きるンか? その点、克巳はいいなあ……あいつはいい。あいつはヒトだ。それもとびきり上玉だアな。なんとでも生きられる。イイなあ……おれは、克巳が食べてしまいほど可愛いよ。おまえなんて、ハア……」
出ていけ柳!
「……おまえにゃあ、なーんも、無いなあ。ひひひひひひ……」
分からない。
「また失敗だ。克巳のやつ、また失敗したなあ……なあ、知ってるか、巽。玖三帆のやつは、あれでけっこうやるんだ。おまえが下に落っことした葦児の明海って女、いたろうよ。あれ、子供ができたってよ。そんで、集落に帰ってきたいんだって文が来た。……まだ五ヶ月だろう? 誰ン子だろうなア」
……また法螺を吹いて。騙されないよ。わたしに見えること、知ってンくせに。
「……そうは言ってもサ、たった今、慌てて確かめたくせに。お前って奴ア、やっぱし冷血だ。だから見てみろよ、ほら。克巳のやつ、可哀想になあ。いつも泣いてここに来る。おまえ、ほんとうに何にもできないんだ。役立たずなやつだねえ。神頼みもこれジャア……」
逆だよ。わたしは神様だから、何にもできないんだ。克巳も承知してることだ。
「ふうん……ならやっぱり、役立たずだナア……」
おまえにわたしのことが分かるものか。
あんなものに惑わされてはいけない。あんなもの、あいつの十八番だ。
わたしは知っている。柳はそうして母を騙し、わたしを攫った。口八丁手八丁で、瀧川での地位を手に入れた。わたしという人魚の身を散々利用しておいて、こんどはわたしの心まで利用しようとしている。それだけだ。
「……なあ、思わねえか? ここで死んだ玖三帆の命は、いったいどこに行くんだって。死んでも元通りになんだもんなア。命ってのは、そんなに安いモンじゃあねえだろう? なあ? 克巳は何回玖三帆のやつを殺すんだろうな。何回繰り返して、おまえの命をすり減らすんだろうナア……へへへ……知ってるサア。おまえの知ってることは、おれだって知ってンさア! おまえ、あいつに半分命をやったろう。血を分けてやったろう。ねえ? みてみろ、無様だなあ、克巳のやつ。おれは玖三帆を殺してやるさ、何度でもなあ。おれはやめねえよお。なあ、止めてくれやしないのか? なあ、巽。おれを止めてみろよ。出来ないんだろう? おれを殺してみろよぉ……おい、泣いてんのか? 」
わたしはおまえに騙されない。
「そう言っても、おまえ、自分の面ア見てみろよ。……あいつが憎いって言ってンぞ」
そんなわけがない。
「克巳が羨ましいんだろう? 玖三帆が羨ましいんだろう? おまえ、おれの本当の娘だったらって、そうすりゃあ優しくしてもらえたかもしれないって、そう思ったろう? おまえ、自分が克巳みたいにもっと綺麗だったなら、って、そう思ったろう? 嘘はつくなよ。おれにだけは嘘はつくなよ。ぜエんぶお見通しだ。おまえ、ヒトが羨ましいんだ。親殺し、子殺しができる、パッと死んじまう。そんなヒトが羨ましいんだ。なあ? そうだろう? ナア? ……顔は正直者だあ」
克巳が言った。
「……巽ちゃん。ぼくはもう、駄目だ。助けられない。ぼくはもう、疲れてしまった……――――――」
「アハハハハハ! 見たか! 見たもんか! あいつ、落人に飛び込んだ! 常世へ逃げやがった! 巽のはんぶん、持っていきやがった! 持ち逃げだ! ずっこいなあ、ヒトって奴ア……すぐ死んじまう。残ったおまえは惨めだなあ……ハハハハハハ! そう! その顔だ! ……いままででイッチバン、おまえのその顔が見たかったヨオ。いいなあ……おまえ、怒ってるなあ。……イイジャアないか。おまえの友も死んじまったんだ。おまえの友は盗人になった。おまえの親父と同じだ! おまえの大事な大事な命を削ってやったのに、それを持っていきやがった。アハハ! 神のものを盗ってった奴ア、報いがいるだろう? 」
柳が言った。
「罰がいるナア」
柳がおまえに懸想したと気づいたとき、わたしは、よりにもよっておまえを憎らしく思ってしまう自分にずいぶん驚かされた。あのときは気が付かなかったけれど、柳を殺すことは、もはやわたしには出来はしまい。
わたしを育てたのはヒトだ。地獄に落ちるような男だ。
わたしは悲しかった。おまえはわたしをヒトと同じように接してくれたから、『神さま』としてわたしを頼って来たとき、ほんとうは泣きたいくらい悲しかったんだ。
いいや、ほんとうは、もっと前から泣きたかった。
柳はわたしの前で一度だって、他の女を『おれのものだ』なんて言ったことはない。
……イイナア、って思ってしまったわたしは、莫迦だと思う。
わたしは莫迦だから、あの男を殺せないし、友のおまえに見当違いな怒りを向けている。
可哀想な玖三帆。おまえはきっと、誰にも助けられない。
克巳、おまえは忘れているだろうけれど、おまえがわたしに「玖三帆を助けて」って言うのは、最初じゃア無いんだよ。
言っただろう。『死ぬよりつらい目にあう』って。それでもいいって、おまえ、言ったじゃあないか。あれは嘘だったのね。わたしはもう知っているよ。
わたしはヒトに生まれたかった。おまえになりたかった。
美しければ愛されたのか。人であればよかったのか。違うだろう。
分かっているんだ。
分かっているけれど……!
どうしてわたしだけがこんなに苦しんでいる。この苦しみは、これから何百年も続くのだ。気が遠くなるだろう? そのときにはおまえはいないんだ。
こんなひどい事ってあるか?
「なんだおまえ、ヒトみたいなこと言いやがるナア」
柳が嘲笑する。
「おまえ、ヒトじゃあねえくせにヨゥ……」
そうか。
ああ、そうか。わたしは、人間に触れすぎたんだ。これじゃあ、まるで人間だ。
浅ましい生きたがり。爪先ほどの時を尊んで。八百生きる人魚の頭じゃあない。
わたしは、生まれた時から人魚だったジャアないか……。
だからもう、玖三帆もおまえも、どうだっていい。そう思うことにした。
すると、とても安堵したんだ。あらゆる苦しみが遠くに見えた。
おまえが苦しむ姿を見下ろして、楽しんでいる自分もいる。まるで生まれ変わったみたいに軽くなった。
ああ、わたしは、たくさんのことを我慢していたんだなア……。
わたしは悪い神さま。ここは瀧川。わたしのくに。
誰か、本当に神さまがいるのなら、どうか。
この巽を殺してください――――――。
◐罪人
そこで人魚は眼が覚めた。
ダークグレーの枠にはまった車窓が見える。外には厚い雲がかかり、重そうに垂れこめている。シートの下でうなるエンジンの振動があった。
一歩、一歩と、あの山に近づいているのがわかる。
ふうぅ……と吐いた息は、我が身のものながら熱く籠った生臭さを感じた。
夢は、残酷なほどにすべてを思い出させてくれた。
巽の頭は、ぐらぐらと煮立ったように熱に浮かされている。手は、無意識に、自分の腹部の上を撫でさすっていた。腹がくちくなっていた。数日血を飲んでいない。
視界が白む。隣に座り、ハンドルを握る男の横顔だけが、くっきりとして見える。
そこにいるのは、頭に白いものが目立ち始めた小男ではない。いいや、けっして背の高い美男では無かったけれど、恋しく思った人の姿だった。
なぞるようにして、その横顔を見つめる。少し目つきの悪い三白眼や、尖った鼻、癖のある赤く透ける髪、痩せた胸板、筋肉質な腕……。
強く目を瞑る。
巽は夢の続きを望む。エアコンの排気の音が、轟々と流れる水音に変わる。
思い出そう。自分が仕出かした事の顛末を。どこからどこまでが、作り出したマヤカシだったのか。
ラジオが新しい歌を歌う。
―――――傷には雨を。花には毒を。わたしに刃を。嘘には罰を。月には牙を。
―――――あなたに報いを。
故郷はもうすぐだ。
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