第二十五夜 ラブレター・フロム・×××


 拝啓。『矢又克巳』だった未来のぼくへ。

 これは、ついにこの記憶にまで行き着いた君への、前世のぼくからの手紙です。

 これを書いているぼくには、もう腕も足も無いので、これは、そう、いわば貴方の自問自答でもあります。

 ぼくは雲児の手でこれを書いているし、これを見ているきみも、またぼくだ。

 だからぼくは、きみと、雲児の中にいる玖三帆くんに向けて、ぼくが最後に見たもの……ことの顛末を語ってみようと思う。

 だからぼくが玖三帆くんのことをクウちゃん、って呼ぶのを許してね。空船くん。


 クウちゃん、最初っからで悪いけど、きみはとてもアクドイやつだ。

 きみは自分が思っているより愛想笑いが上手で、気持ちが優しくて、世話焼きなところがある。そういうところを他人は、とりわけ女性は好くだろう。

 ぼくが明海姉さんや巽ちゃんに嫌われちゃったのは、きみのせいだ。

 かつてのぼくは、きみのことを兄のように感じていたと思う。可哀想なぼくは、どんどん一人ぼっちになってしまった。

 きみは酷いやつだから、ぼくを一人で放っておいたね。まあ別に、ぼくもそこまで寂しン坊ってわけじゃあなかったから、別に良かったんだけれど。

 でもぼくは、ちょっとだけ、明海姉さんや巽ちゃんの気持ちが分かる。

 みんな、きみにもっと好かれてると思ってたんだ。きみは明海姉さんにお別れくらい言ってやっても良かったし、巽ちゃんにその場限りの約束なんかしちゃあいけなかった。


 あれはいけなかったね。

 嘘つきのくせして、「貴女にだけは嘘はつきませんよ」なんて。

 巽ちゃんは、きみが思ってるほどガキじゃあない。ぼくのことは同等に扱うくせして、そりゃああの子も歯がゆかっただろう。

 でも仕方ないよね。ぼくらは似たモン同士だった。


 きみがしつこく「友達は大事にしろよ」なんて兄貴風吹かせるやつだったら、ぼくはきみのことを好きにはならなかった。

 きみもそうだろう? ぼくが子犬みたいに甘えるようなやつだったら、きみは明海姉ちゃんに便乗して、山を下りてたんじゃあないかな。そんでどっかで死んでたんだろう。


 ホントウは、母親以外の手料理なんて嫌いなんだ。余所ン家の味がするものを食べていると、ぼくの体は、その家の血に置き換わってしまう気がする。

 それでもきみの作った食事を一度も残したことがなかっただろう? それは、あそこで初めてきみの作ったものだけが、素直に美味しいと思ったからだ。


 ぼくはね、きみのことが本当に好きだったんだ。

 だからきみに、ぼくを食べてほしかった。ちっぽけな肉になって、きみに食べられたかった。

 酷いことを言ったかも。でもこれは、ぼくなりの愛の告白ってやつなんだよ。



 あの日、眼が覚めたらきみがいなかった。

 外にはまだ雨が降っていて、風がビュウビュウ吹いていた。時計は九時を指していたのに、外は夜みたいに真っ暗だった。

 ぼくは群れからはぐれた仔牛みたいに家の中をぐるぐる回って、きみを探しに家を出た。

 家の裏、ぼくの部屋の窓のあたりにね、藪が崖のようになっているだろう?

 あそこに、隠れた石段があったのを、きみは知らなかっただろう。

 傾斜70度ほどもある坂に、サルノコシカケみたいな石段が、カーブを描いて下段の川岸にまで続いているんだ。

 村人と会いたくなかったから、ぼくはそこを降りて行った。

 どうしてだろうね。寝惚けていたのかな。きみは川にいるような気がしてた。


 確かにきみは川岸にいた。川岸でも、巽ちゃんがいつも座っていた大岩の向こう側、川を挟んだ岸、崖のようになった坂の上の山道。木の枝の間から、きみの背中が見えた。

 増水した川は、あの大岩も頭もてっぺんしか見えなくて、崖の、ふだんは日が差して緑色の草がたくさん茂っているところまで飲み込んでいた。  

 飛沫が飛んで、川の上だけ湯気のような霧が立っている。きみの姿は霧の向こう。

 灰色の渦を巻きながら煮立った川を見て、ぼくはとても嫌な予感がしたんだ。


 きみは柳のやつと何か話していた。柳の横顔と、きみの後ろ頭が見えて、柳は口を釣り上げて笑っていた。きみたちは口論しているように見えた。


 ぼくは、きみのことを呼んだ。

 きみは振り返った。柳から視線をそらした。

 その瞬間、きみはこの世から消えた。……対岸の崖の上、見えた木の隙間からは、柳だけが。


 あいつの、真っ赤に裂けた口、三日月みたいに曲がった眼をした顔だけが。

 そっからの記憶はぶつ切れだ。



 ぼくは雨ン中、川を遡るように山を走って、巽ちゃんの洞に飛び込んだ。

 増えた水が路の中にまで流れていて、黒い水を掻き分けながら進んだ先、洞の奥は広くて丸い湖になっていた。篝火が黒い水面を赤く溶け出すように照らしている。

 ぼくは初めて、巽ちゃんの顔を見た。木彫りの彫刻のようで、水に濡れているのに、不思議と肌は乾いて見えて、瞳と下肢の鱗ばかりが碧く濡れてきらきら光っていて。

 ぼくは何をどう巽ちゃんに説明したのか覚えていない。

 巽ちゃんは、ぼくの手を握ってこう言う。


「ダイジョウブ、克巳ちゃん。わたしに任せて」

「ここにいる限り、わたしが望めば誰も死なないわ」

「そう……この瀧川では、だれも死なないの」


 その時のぼくには、それがどういう意味なんか、分からなかった。

「でも克巳、おまえはわたしを裏切ったね」

「わたしたち、友達だったでしょう」

「おまえ、次は玖三帆をわたしにくれるって言ったじゃない」

「それが玖三帆を助けるための約束だったじゃない……」

 巽ちゃんは悲しそうで、ぽろりと一粒だけ涙を溢して、縋りつくみたいに握りしめたぼくの両手に額を擦り付けて嗚咽した。

 ぼくには、何のことか分からなかったけれど、玖三帆くんを巽ちゃんにあげるなんて約束をした覚えもなかったけれど、ぼくは、巽ちゃんと同じ気持ちで玖三帆くんと一緒にいたわけでは無かったけれど……ぼくはただ、ただ。

 この心優しい友が、傷ついて泣いているのが可哀想で。同時に、玖三帆を助けなきゃと思っていて。

「玖三帆くんを助けて、巽ちゃん」

 緑の瞳が睨むみたいにぼくを見た。緑色に篝火が映り込んで金色の光の珠が浮かんでいて、目が離せない。


「これは嘘つきの罰なのよ。克巳」

 そう言った巽ちゃんは、ぼくの唇に顔を寄せて、強く唇を噛んだ。不思議と甘い血の味が香り、そして。


 次の瞬間には、ぼくはひぐらしの音を聞きながら、柔らかくて冷たいその男の腕の中にいて。


 三番目のぼくは、その瞬間にぜんぶ思い出した。

 クウちゃんを突き落とした男が、ぼくを捕まえて笑っていると分かったとたん、ぼくの方が暗いなかに突き落とされた気分だった。

 気づいたら刀であいつを刺していて、三番目のぼくは怖くて震えた。

 四番目のぼくにも、五番目にも、巽ちゃんは『罰』だって言った。

 覚えていても、覚えていなくても、ぼくは玖三帆くんを助けられない。


 ああごめんなさい! ぜんぶぼくのせいだ! きみを殺したのはぼくだった!

 きみは助けられない。川に食われる。巽ちゃんがぼくを見る目は、どんどん怖くなる。


 そのうち、ぼくは自分の夢を見た。あの秋の日暮れ、あの男の腕の中で思い出すまでの日々。暗闇の中でぷかぷか揺れる夢を見た。


 夢の中、鍋の中を見下ろすあの紫の眼の女は、ぼくだ。

 ぼくは、ぼくを見下ろしながら、何かが変わることを祈った。

 瀧川に行かないこと、いっそ、きみや巽ちゃんと出会わないこと。それでも良かった。

 どうあっても、ぼくは柳に連れて行かれて瀧川にやってくる。巽ちゃんを見つけて、きみが遅れてやってきて、ぼくは!

 ぼくは夢の中で、何度も何度も、ぼく自身に向かってもっと早く思い出せって願った。


 だって、まだきみに返事を聞かせてもらっていないんだから!

 もっと早く、きみに「ぼくを食べてくれないか」と尋ねていれば、もしかしたらこの渦が終わるより先に、ぼくを終わらせてくれるんじゃあないかってふうにも思ったこともある。

 でもそれじゃあ駄目だ。ぼくはそんな形で死にたいんじゃあない。きみにこの肉を食んでほしいんじゃあない。

 こんなのは嫌だった。


 ぼくはぼく自身のために、浅ましくもきみを何度も殺してしまったのだ。

 巽ちゃんは怒っている。玖三帆くんが死ぬのはぼくのせいだと思っている。それはその通りなんだ。

 柳を止めることは、巽ちゃんにもできないようだった。ぼくが止めるしかない。

 クウちゃん、きみは何にも覚えちゃいなかった。

 終わってしまった今でも、思い出すと歯がゆくてたまらない。

 何度ぼくは失敗して、葦児玖三帆という人を殺したんだろう。

 きみは、ビデオの中のドラマみたいに巻き戻るたびに生き返って、何も知らない新しいきみとして動き出して死んでしまう。どうしてきみは憶えていないのか、憎く思ったこともある。

 いずれ死に行くきみを、それでもぼくは見逃すことができない。

 ぼくはきみを憎みながら、きみが死んだら巽ちゃんに泣きついている。



 ぼくは巽ちゃんに尋ねた。

「巽ちゃん。人魚の血ィ飲んだら死にやへんって、ホントウなんやろか」

 むかし、巽ちゃんは言っていた。

 人魚のはなしに幸せな結末なんてない。

 好いたものとは報われず、人を信じて莫迦を見る。八百比丘尼は人魚を食べて不幸になった。わたしたちは、そういう生き物だ。

 そう言っていたのに、巽ちゃんは歯を出して笑って、「いいよ」と頷いた。

「やってみればいい」

 どうなるか見物だね。そう続けるように、巽ちゃんはまた笑った。


 あれは失敗だった。

 もらったその日にぼくはそれを鳥の砂肝といっしょに炒め煮にして、夕食に出した。

 きみが八百比丘尼みたいになったら、ぼくはきみに付き合おう。そう思って、ぼくが先に料理を食べた。

 生姜を利かせて醤油と味醂で味付けた肝は、臭みが消えて、我ながら良い味だった。

 でもきみがそれを食べた瞬間、ぼくは「失敗した」と思ったよ。

 飲み下した瞬間にえづいたきみは、陸に打ち上げられた魚みたいに、床をのたうちまわった。


 その先は思い出したくも無い。気がおかしくなりそうだった。おかしくなっていた方がましだ。ぼくは失敗した。きみを初めて、この手で殺めてしまったのだ。


「わたしはお前を許さない」


 ぼくを指差して、再三と巽ちゃんは言う。

「……ぼくが玖三帆くんを取ったから? でもそれなら、どうして玖三帆くんを苦しめるようなことをするんだよ。巽ちゃんは、あいつのことが大好きだったじゃあないか……あれは嘘だったの」

「わたしは嘘なんて言わないよ。神さまだもの」

「じゃあ……どうして……罰だっていうのならぼくだけでいいじゃないか」

「………まだわからないの? 友達だったのに」

 ほんとうにぼくらは、友達だったんだろうか。

「やってはいけないことをしたのは克巳のほうじゃあないか」

 そんなの分からないよ。

「玖三帆はもういいんだ。どうせあいつは助けられない」

 それこそ嘘だ……きみはあんなに。

「他はなんでもいい……! 友を失うなら玖三帆だっていらない。他のものならなんでもあげたのに! 」

 ぼくは何かをしてしまったのか。

「でもっ! おまえがっ! 」巽ちゃんは、ゼイゼイと喘ぎながら唾を飛ばしてわたしに指を突き付けた。


「おまえが! 柳を誑かした! あいつだけは! あいつだけはやらないっ! あいつはわたしと死ぬまで一緒だ! やるもんか! おまえにだって――――」



 ――――ああ、どっかで見たやつだ。

 ぼくはその夜闇に光る緑色の一対を見ながら、ぼんやりとそう思った。

 母の葬式で見た黒い女の目。黒い水の中の人魚の目。

 ……はりつめて飢えた猫の目。


「……お前も柳も、死ぬより苦しい思いをすればいい」

 ぼくは、巽ちゃんの吐いた血の名残を舌に感じながら、またあの男の腕の中で眼が覚める。



 そうしてまた、人殺しになるのだ。


 ◐


 雨が降っている。

 瀧川の土地は、ことさら水に生かされている。

 滾々と湧く清水流るる川、大地をすべ落ちる水。

 蜘蛛の糸のような春雨、風の無い梅雨の雨、枝垂れるような夏の夕立、秋雨は露ほどにだけ湿らせ、冬は……。

 何百、何千と季節が巡り、絶え間ない命が繋がれる。

 わたしはいつしか、何十も何百も、何万もの雨を知っていた。

 この夢のわたしは、わたしではない。

 わたしはこの山になって、自分の上を流れる水を感じながら、最後はゆっくりと目を閉じる。

 その人魚は知っている。

 わたしが啼くと雨が降る。風が吹く。雷が空を光らせる。

 川は太り、田は潤い、の血となる。肉となる。

 と子をなして、またとなるのでしょう。

 ああ……幸福だ。これこそが幸福に違いない。

 あなたも幸福でありましょう。これで約束は果たされましたか。

 はて……?


 、とはいったい、誰のことだったのか……。

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