第十夜 揺り篭は濡れている 前編

 黒い雨が降る。空から闇をはらみ、ぼとぼとと、つぶてのような雨が降る。水の矢に掘り返された土からは、生臭いような、鉄臭いような、青臭いような、おぞましい臭気が水気を辿って立ち上り、床下を辿って屋内にまで流れ込んでいた。

 湿気を吸った畳は冷たい。横たわる体の末端から冷えていく。やおら薄く目を開けて、巽は畳の目を辿った。これは夢だ。巽は分かっている。畳なんて、今の家には無い。


 ――――――ネエ、巽ちゃん……ぼくのこと、食べてくれる?

 ……少女の声が、耳に差し込まれる。

 これは遠い昔の焼き回し。

 本当なら、頭の上には電灯の紐が垂れているが、それを引く気にもならなかった。このまま、この場所で微睡んでいたかった。

 見える自分の腕の肌色は、夜目にも光るほど。すべらかで柔らかく、産毛は透き通って細く柔い。

 ――――――これでいい。きっと大丈夫。

 わたしは、きっと美しい。

 いつしか、降りそそぐ雨音がやんでいた。

 とこ、とこ、とこ……。誰かの足音が近づいてくる。

 すう……と、顔にひとすじ光が差した。襖の間から、明るい橙に塗られた居間が垣間見えた。

「巽さまったら。マァた、こんなところで寝て」

 懐かしい声が言う。その人の顔は、橙の光を背にしているものだから、よく見えない。ただ、笑っているのは分かった。


 巽は重い足を引きづりながら体を起こし、目を擦って欠伸をした。

「……おはよう」

 喉から出たのは、男とも女ともつかない皺枯れた声。

「おはようございます。さあ、おうちに帰りましょう」

「克巳は? 」

「柳さんが迎えにいらっしゃっとりますよ」

「いやよ。今日は克巳と遊ぶって決めたんだもん」

 口を尖らせ、巽は畳の目に爪を立てる。「克巳はどこ? 」

「克巳はもう稽古の時間になったので出かけましたよ」

「ひどい。置いてくなんて。なんで起こしてくれなかったの」

「巽さまがお休みになっているから、遠慮しやったんでしょう」

「いやだ、帰らない。克巳が帰ってくるの、待ってるんだから」

「あらら、巽さま、泣かないで」泣きだした巽の前に屈み、髪を梳き、ひやりとした手がその頬を拭った。「ほら、もう夕方です。暗くなる前に帰ってご飯を食べないと。早く寝ないと、明日遊べませんよ」

 ……ああ、わたしはこの優しい人の名前を知っている。


「くみほぉ……」

「玖三帆が巽さまに嘘を言ったことがありましたか? わたしは巽さまにだけは嘘を申しませんよ」

 優しい夢は鮮明さを増し、記憶が波になって巽を飲み込んでいく。もはや、はっきりとその人物の顔を見ることが出来た。人懐っこい若者が三白眼を緩ませている。

 美男ではないが、時々、強い目をする時がある。この人がそうやって遠くを睨んでいると、どきりと自分の胸が跳ねるのを巽は知っていた。

 玄関まで玖三帆に背負われ運ばれる。巽は、その背中の上で揺れる数十秒が好きだった。

 惜し気も無く五畳はある玄関。待ちかねたとばかりにその引き戸に手をかけたまま、柳が待っていた。鴨居の下で飛び跳ねても頭をぶつけないんですよね、と笑う玖三帆だが、柳はそれよりも頭半分短い。膝より高い上り框の上と下にいるのだから、巽の目からも柳の赤い枯葉色のつむじがよく見えた。

「帰りますよ。巽」

 巽はしぶしぶといったふうに頷いて、柳の胸に手を伸ばす。外から虫の声がする。抱き上げられ、ふと横を見ると、掛けられた鏡が視線の高さにあった。小さく縮んだ老婆が、男の腕に収まっている。

 ――――――ああ、これが醜いというのか。

「ねえ」

「なんですか。忘れ物でも? 」

「どないしましたか。巽さま」


 巽は強く念を込めて、人差し指を伸ばした。

「これ、こんどは取っといてよ。嫌いだから……」

 鏡は嫌いだった。





 柳に負ぶわれ、開け放された門を出る。脇は崖になっており、でこぼこの細い石畳の道を下っていく。反対側は畑だ。隣家はなく、山を拓いた空き地に、今は茄子が生っていた。巽は柳の背中に顔を伏せ、歩みの揺れに任せて耳をそばだてた。誰も来ませんように、わたしを見ませんように、と。


 玖三帆の家は、集落の最も上、山の木々に押し込まれたような外れにあった。ここから見ると、森の切れ目からだんだん畑が一帯を覆っており、山肌に沿って土地が蛇行して存在するのが分かる。山の間に墨色の海が顔をのぞかせた。巽はしばし、それを見る時だけは、顔を僅かに上げて眺めることにしている。この景色が故郷だと、自分に毎夜言い聞かせる。

 山肌を重力に従い流れる水を利用し、この土地は潤っていた。

 道を、畑のあぜを、気難しい老爺の住む家の敷地を、下り、下り、下り……やがて、用水路代わりの小川に行き着く。今度は小川の脇の小路を辿って上る。上る、上る、上る……。小川は本流に戻り、柳の倍ほどもある岩棚が重なって見えるようになる。夜目には困らない。人魚は、もっと暗い水の底でもよく見える。柳もまた同じだった。柳はその岩屋たちを避けて山に入り、月明かりも通らない獣道を踏みしめて、さらに川を上る。長年歩いた道なりだった。やがて拓かれて、草木がひとりぶんの肩幅だけ避けて通っている。

 木肌の重なる隙間に、ひょっこりと鳥居が現われた。

 黒々と濡れたように、青い輝きを反す鳥居だった。

 鳥居の奥からは笛の音が聞こえた。そこには聳える苔むした地蔵と、壁のように目の前を遮る崖がある。

 崖にはちょうど刀を刺したように、斜めに亀裂が奔っており、その亀裂の奥にさえにも緑が這っている。前に立てば笛の音のような音がして、うすら冷たい風が顔へ吹き付けられた。

 柳は巽を背負い直し、巽は柳の首にしがみついた。そうして両手を開けた柳は、亀裂へと身を滑らせる。内部はあかあかとして明るく、巽の両手を広げたほども広い。灯りがいくつも吊られ、なだらかに下っていく。十歩、二十歩も歩けば、亀裂は灯りが作る濃い影に紛れて見えなくなる。


 やがて、道はさらに広く拓けた。

 匙でくり抜いた西瓜のような形の洞窟は、柳の背の三人分、広さは畳が二十枚敷ける。ちんまりと『人』の字のような屋根のついた小人の家があり、それを含めたこの空間が拝殿となる。小人の家の後ろから、ぷっつり地面は途切れ、刷毛で黒を伸ばしたような水が満ちている。黒は篝火を写し、ゆらめいて静かだった。柳はいつも通り、丁寧に巽の服を脱がして沼に浸ける。ここが、巽に与えられた寝床であった。


 人魚ってものは、お噺の中では不幸になってばかりだ。美しいもののように描かれているのに、最後には人に傷つけられて、そいつのことを考えながら死んでいく。もはやそういうものだというように、揃いもそろって不幸にしたがる。なんとも難儀で不条理ないきものだ。

 ……というような話をすると、克巳はへらりと笑って言った。

「そりゃあ、お約束ってもんやないですか」

「それがいやなのっていう話をしているんでしょ」

「ちゃいますうって。やって、綺麗なおんなのひとが“そう”なんのンは、お約束でしょう? なら巽ちゃんは大丈夫。大人になって、綺麗になってから心配しやなぁ」

「シッツレイなコね。わたしにそんなことを言うのはあんたくらいだよ」

「誰も言わんから、ぼくが言うんやァないですか。灰かぶりが不細工だったら幸せになれましたか? 」

「じゃあ、けっきょく綺麗じゃなきゃ幸せになんてなれないんじゃない」

「ち、ち、ち。巽さまったらァ分かってない。灰かぶりが幸せになったのは、それが物語だからですよ。現実じゃア不細工が不幸って通説は、見た目しか見てない周りが勝手に言うだけのことです。そもそも美人には不幸も似合うものだし、不細工でも幸せなやつは幸せなんです。ヒトは人生を舞台に例えがちですよ。いっとう美しいもんが主役だと思っちまう。真っ先に幸せになるやつは、自分の役なんて気にしちゃアいない」

 克巳は肩をすくめて溜息を吐いた。縁側から、日に焼けない足が垂れている。つるりと滲み一つない肌は、強い日差しの下では真珠色に輝いて眩しい。

 並んで座る二人の傍らには、西瓜の載った盆が置かれている。

 巽もまた克巳の顔を見つめ返して、深く深く溜息を吐いた。

「でも克巳、それは詭弁と言うものよ。あんたがそれを言っても仕方ないじゃないの」

「そんなんいうのは、巽さまだけですわ」

「そんなことない。おまえを見れば、誰だって……」

「なまっ白くて痩せていると、じじばばからのウケは悪いんですよ。だからもっと食えって、玖三帆がうるさくってねェ。毎日、朝夜と「もういらんのかあ」つって言われるぼくの身にもなってくだしや。これで太ったら、今度は肥えたぞ豚だって馬鹿にするんですからね」

「玖三帆が? そんなこと言うの? 」

「言いまっさァ! これがねェ、アイツふだんはシレッとしてんますけんど、そらアもう、口が悪いんですよ。口もでかけりゃ言う事もでかいし、何かあれば足も手も出るし、目なんか鬼みたいに、こぉーんなふうにしてね」

 克巳が目蓋の皮をつまんで引っ張ったところで、巽は口を覆った。


「なんや巽さまに吹きこんどるや! 」

 尻を叩かれた子犬のように啼いて、克巳は顔を赤くして振り仰ぐ。「いたい! なにすねや! 」

「何もそれもあるかあ! あほんだらァ、変なこと言うたら拳骨やっど」

「真実や! 巽さまは騙されとる! 」

「口ばァっか達者になりおって! 」

「ぎゃあっ二発もぶった! 学校の先生にもぶたれたことないのに! 」

「うそつけぇ問題児」

「ぼくの口は正直に生きるためにあるんですよっ! クウちゃんは知らなんだか。ね、ほら見て巽さま。こーんな顔ですよぉ~。ふぎゃん! いたい! ぼくの美貌がオカメになるぅ! 」

「とっくにオカメやろが! こらまてっ」

 縁側を軽やかに飛び降り、裸足で克巳は庭まで飛び出した。物干し竿をくぐり、庭木をするする上って垣根に座り込む。


「降りてこんかァ蝉がきィ! 」

 玖三帆ですら口調を荒げ、びっしょり汗をかいているのが可笑しい。しれっとした顔で「ぼくはあほちゃうから、分かってて降りるようなあほなことは出来まへんね」と言っている克巳も面白かった。

 克巳は巽を見下ろして言う。

「ネエ……ぼくは幸せに見えますか? 」

 そしてふたたび夜が来る。


「柳、あれちょうだい」

 巽は濡れた手を伸ばして淵を叩いた。

 柳は火を取ってくると、油を流した皿に火をつけ、蝋を塗った紙を貼った籠で覆い、ばらけないように縄で縛ったものを、巽の目の前へ流した。

「夜更かしはいけませんよ。あと、きのうは葬式がありましたからね。お役目を忘れちゃアいけません。それと、ぜったいに火傷をしないように」

「知ってるわかってる! 」

 縄の両端を握り、皿を触らないようにしながら、巽はざぶざぶと尾を舵にして漕ぎ出した。柳はしばらく見送っていたが、巽の頭が鼻の上まで沈んだあたりで「さて、飯だメシ」と立ち上がって行ってしまう。

 巽は縄をぴんと持ち、一気に水に沈んだ。陸では役立たずの太い尾が力強く水を蹴り上げて、巽は空気を吐いて水を飲み込む。首の付け根にある鰓が開いた。


 これを見つけたのは巽だった。

 どんなに古い村人たちも知らないだろう。藻に沈んでいたそれは、巽が丁寧に手の平で磨いて、その鱗を再び浮かび上がらせた。

 顔は削れてもはや定かではない。ただ、のっぺらぼうの瓜実の輪郭と、明らかに肩の付け根あたりからも生えている鬣のような長髪が靡いていた。水に流れた顔と比例して、首は生々しく骨の通った皮膚の凹凸がある。その首は常人の五倍は長く、丸みのおびた肩の下には、丸々と逞しい、尖った鱗の身体が水底に波打って蜷局を巻く。

 その龍は、つるつるとした黒い石でできているようだった。水が引いたことが無いという沼の底、遠い昔に沈んだ龍は、巽にとっては敬うべき先住民であり、拝み、かしずくべき何かだ。

 明かりがばらけて消える少しのあいだ、巽はこれを照らしだす。そうすれば、水面からもその影が浮かんで見えるのだ。誰も見る者はいないけれど、巽は静かにその鱗を撫で、首を垂れる。

 この人の顔は、いったいどんなものだったのだろうと、巽は空想する。

 やさしい弓なりの目をしているのか、それとも雄々しくこちらを睨む目だろうか……。男のようにも、女のようにも思えた。乳房があったとしても、髭があってもおかしくはない。

 じゅっ、と音を立てて、人魚の目にも暗闇が戻った。


 巽はとたんに、この像が首をもたげるような気がする。無い目が開き、今度は“彼”の方が巽をジッと見下ろしてくる。“彼”の鱗は、ぎざぎざで猟奇的だった。ぬらりと尾を泳がせて、巽の身体のまわりを囲み、肌の上に影が差す……。

 巽はぺろりと上唇を舐め、食事の時間を知った。ごみになった松明の残骸をかき集め、水面に泳ぎだす。隙間なく独楽のように縄で縛られた屍体が浮かんでいた。ごみを岸に投げ出し、それに襲い掛かる。ぐいぐいと体重をかけて水に沈めて熱を取り、夢中になって歯を立て、水に流れないうちに啜った。

 全て終わらせたものは、手を放せば流れていった。こうして吸い尽くせば肉袋は縄からほどけ、水に浮かばないまま沼の最深部、底にある洞から流れ流れて細切れになり、やがて海で溶ける。

 ここに玖三帆や克巳が来なければ良い、と思う。しかし予感がある。いつかあの子たちは来るだろう。そしてわたしは……。

 下から水面を睨む。経験は無くとも、やり方は朧ながらも知っている。丁寧に、大切に。捨てるくらいなら、骨も残さず無駄にせず、この胎に収めてみせよう。

 唇へ舌を這わせる。甘い味がした。

 さて、腹は膨れた。

(明日は克巳と遊ぶんだ)

 巽が六十の齢を数えた、夏の盛りのことである。

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