第4話「道端のヤグルマギクを」

 先ほどから布の中でもがき続けて、カルブはやっと足を動かせるだけの緩みを作れた。

 だからこうして立ち上がれたのだが、今度は布を内側から引っ張って、ミイラにしてはみずみずしく健康な肌が見えないように祈る。

 特に足は、ツタンカーメンのように細くない。


「大神官アイよ、次のファラオとなるが良い!」

 カルブがツタンカーメンの言葉を伝える。

 声が上ずらないように。

 王の威厳がきちんと表せるように。


「トート神が教えてくれた! アイよ、おまえはもう年だ! おまえの命はあと五年しかない! その五年の間にアンケセナーメンを政争から遠ざけよ! おまえの次のファラオを選ぶ際に、アンケセナーメンが巻き込まれぬようにせよ!」

 アイはカルブに深くひれ伏した。

 死んだはずの王がしゃべっているという状況、ファラオへの指名、寿命の宣言。

 いずれも本当に受け止めるのには時間がかかるだろう。

「か、必ずやアンケセナーメン様をお守りいたします!」

 この場ですぐに理解できたのはこの命令だけだったが、それこそがファラオが最も求めていることであり、今の王宮ではアイにしかできないことだった。

「くれぐれも言っておくが、アンケセナーメンを悲します行為は許さぬぞ! アイも! 他の者も聴け! 何者かがアンケセナーメンを傷つけんとせし時、我は死の翼をまといて目覚める! ここに居る者は皆、この言葉を胸に刻み、のちのちまで伝えよ! “王の眠りを妨げる者は呪われ、速やかなる死が翼をもって舞い降りる”と!」


 声を張り上げて啖呵を切る。

 腹から声を出そうとして、力を入れたのがまずかった。

 カルブの体のバランスが崩れた。


(やばい!)

 両手を布で押さえられ、両足もわずかしか動かないこの状態では体勢を立て直せない。

(やばいやばいやばい!)

 このまま無様に床に転げ落ちたりなんかしたら、ニセモノなのがバレてしまう。

 そう思った次の瞬間、カルブの体は神々の手によって支えられていた。


 正面から両肩を掴んでいるたくましい手はアメン神。

 後ろから支えてくる無数の手はアテン神。

 後ろからの手をあごに添えられて、カルブは顔の向きを修正された。


「カラヘッヤよ」

 ツタンカーメンの言葉をカルブがくり返す。

「ホズンの魂については悪いようにはせぬと神々が申しておられる」

 もとよりひれ伏していた侍女は、さらに深く頭を下げた。



 最後にカルブは王妃の方に向き直った。

 王妃は棺桶が置かれた祭壇にようやくよじ登れたところだった。

 食事用のテーブルよりも少し高い程度の台だが、彼女にとっては人生最大のおてんばだった。


「アンケセナーメン……しばらくはアイのそばで我慢してくれ。そしてそのあとは、今度こそ王位なんかに関係なく、ただ愛せる人を見つけてくれ」

「いや!! つーたん!!」

 王妃がミイラに抱きついた。

 キスを避けてカルブは顔を背けた。

「この体ではダメで……だ!」

 この一言だけはカルブが自分で言った。

 すぐにツタンカーメンが、告げるべき言葉をカルブにささやく。

「代わりに花を摘んできてくれ。王宮の花園で……いや……道端のヤグルマギクを」

 それを正確にカルブが伝える。

「わかったわ、つーたん」

 アンケセナーメンは祭壇を降りるのにも大変な苦労をしていたが、カラヘッヤの手を借りてどうにか成し遂げると、二人で外へと駆け出していった。


 他の人々も広間から追い払い、辺りが無人になってから、ツタンカーメンがカルブにささやいた。

「本当にキスしていたら呪い殺してやるところだったぜ」

「勘弁してくださいっ」

 そして二人はクスクスと笑い合った。




 やっとやってきた祖父によって布を解かれたカルブは、荘厳なる王宮の内装を初めてその目に映し、黄金で惜しみなく飾られた天井を見上げて思わず感嘆の声を漏らした。

 布の下で息を詰まらせながら聴いていたあのやり取りは、こんな場所で行われていたのだ。


 本物のミイラとの入れ替わりが終わったところで広間の外から足音が聞こえてきた。

 祖父はうまく脱出できたが、慌てたカルブは祭壇の角に足を引っかけてスッ転んでしまい、立って走ってまた転んで、そのままその近くの柱の陰に転がり込んで隠れた。

「やーい、のろまー」

 ツタンカーメンが触れてもすり抜ける指でカルブのほほを突き、カルブは効いてませんよーと言うようにほほをプクッと膨らませてみせた。



 両手いっぱいのヤグルマギクの花束を抱えきれずにまきちらしながらよたよたと駆け戻ったアンケセナーメンは、祭壇に身を乗り出して棺の中を覗き込んだが、そこに言葉を発せられる存在はもはやなく、ミイラにいくら話しかけても、ささやき一つ返らなかった。

 アンケセナーメンの泣き声は、黄金の天井に反響して楽器のように鳴り響いた。


「神々は儀式の準備で出て行った。ここにはおれ達しか居ない。今からおれが言う言葉は、絶対に誰にも伝えるな」

 カルブにそう告げ、ツタンカーメンの透き通った魂は王妃の傍らに進み出た。

「アンケセナーメン……おれの妻……おれの大切な人……」

 声音に涙の色が滲む。

「一緒に来てくれ!!」

 神に禁じられた言葉を叫んだ。

「愛してる愛してる愛してる!! 離れたくない!! そばに居たい!! ずっと一緒だって約束したのに!!」

 王がどんなに叫んでも、その言葉は王妃の耳に届きはしない。

 それは届いてはいけないものだから。

 届かないとわかっているからこそこうして叫べているのだから。

「他の人を見つけろなんて言ったのはウソだ!! おれ以外を好きにならないで!!」


 王と王妃の嘆きの声が、まるでハーモニーでも奏でるかのように重なり合う。

 柱の裏にへたり込んで、カルブは自分の嗚咽が漏れないように口を押さえて震えていた。

 王の言葉を王妃に伝えてはいけない。

 胸が張り裂けそうだった。

 ミイラ職人としての仕事は終わった。

 カルブがツタンカーメンのためにしてやれるのは、世界中でたった一人だけ、王の言葉を聴いていること。

 この言葉は誰にも伝えてはいけない。

 両手を口に当て、だけど決して耳を塞ぎはせずに、王の叫びをカルブの心の中だけに刻み込む。

 いつかカルブが年を取って死ぬ時、王の言葉を知る者は、世界に一人も居なくなる。

(その時まで、オレは絶対に忘れない)

 カルブは今、ツタンカーメンの泣き顔を初めて見ていた。

 出逢った時からずっと笑顔で。

 良くスネて、たまに怒って。

 そんな男の泣き顔だった。

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