第2話「おはよう」

 透明な神は、おそらく水の神の力を借りて、ナイル川の水面をまっすぐに渡っていく。

 カルブは船着場へ走った。

 西岸に着いてからも走って走って、自分のミイラ工房の戸口で、ようやくツタンカーメン達に追いついた。


 日の暮れかけた薄暗い室内。

 作業台の遺体を覆うナトロンの山。

 透明な神はツタンカーメンの幽霊を、遺体に重なるようにして寝かせた。


 カルブはおそるおそる作業台に歩み寄った。

 静かな寝息が聞こえたが、鼻息はなく、遺体の顔の周りのナトロンの粉はピクリとも動いていなかった。


 死後に日の光の下を自由に飛び回る魂は、夜には休息のために肉体に戻ると云われている。

(ミイラの使い方としてはあってるけど……作りかけのミイラでも大丈夫なのか……?)

 カルブは棚から引っ張り出した作業用の大きな布に包まって、その夜は工房の床で眠った。




 夢の中ではカルブ達の周囲は一面の砂漠になっていた。

 ツタンカーメンはカルブのかたわらで吹きすさぶ砂にまみれて横たわっている。

 二人の前に、もとの大柄な人間程度の背格好に戻ったセト神が迫り、間にアヌビス神が立ちはだかっていた。

 邪神の手の中では黒い球状の雷がうなりを上げているが、アヌビス神は丸腰だった。


「もうおやめください! ここは叔父上が好き勝手に暴れて良い領域ではありませぬぞ!」

「黙れアヌビス! 我輩はお前を甥だなどとは思っておらぬ!」


 セト神がアヌビス神に黒い雷球を投げつける。

 アヌビス神はすばやく飛びのくが、セト神はすぐに次の雷球を作り出す。

 しかしセト神の視線はアヌビス神ではなく、ツタンカーメンの方を向いていた。


「ッ!!」

 カルブが走り、セト神に飛びついた。

 雷球は二人の胸の間で破裂した。



 瞬間、カルブには時間が止まったように感じられた。

 カルブの心臓がドクンと跳ねた。


「あ……あ……」

 自分の身に何が起きたのかわからなかった。


(オレは……どうして“今”こんなことを考えているんだ?)

 足がよろめく。

(どうして“十二歳の時の記憶”が急によみがえって……)

 顔が熱くなる。

 これが術の効果だ。

(嫌だ……思い出したくない……っ)

 それなのに他の何も考えられない。


 そんなカルブの鼻先で、同じ術を受けたセト神が雄たけびを上げた。


「うおおおおおお! ネフティスうううう! おのれオシリスめ!! おのれおのれおのれエエエエエエエ!!」

「叔父上……」

「黙れ!!」


 セト神が荒々しく腕を振り回す。

 砂嵐が巻き起こり、邪神は風に乗って飛び去った。

 今度こそ戦いは終わった。



「セトめ。自分の術にやられたか」

 気がつけばトート神がカルブの隣に立っていた。

「大丈夫か?」

「は、はいっ」

 そうとしか答えられなかった。

 頭に張りついて離れない十二歳の時のイメージは、とても他者に話せるものではなかったからだ。


「それよりツタンカーメン様はっ?」

 駆け寄ると、目は閉じたままだが呼吸は安らかだった。

 どうやら心配なさそうだ。


「セトが使った術は、自身の過去のもっとも嫌な記憶を呼び起こさせるものだ。思い出すだけで死にはせぬ。……つらいだろうがな」

「……ツタンカーメン様はあんな風に死んでいったんですね……王妃様の名前を呼びながら……」

 泣かないでとささやきながら。


「セトが思い出したのは、かつてオシリスに闇討ちを仕かけようとその寝室に忍び込み、セトの妻のネフティスがオシリスを口説いているのを目撃した際の記憶であろう」

「へ?」

 トート神の言葉にカルブは間の抜けた声を上げた。

 ターイルに売りつけられた神話の巻物では、その辺は省略されていた。


 アヌビス神が口をはさむ。

「余談だがワタシがこの術を受けると、そうして生まれたのが自分だと知った時の記憶がよみがえる」

「マジっすか……」

 エジプトに限らず、古代の神話にはこのようなたぐいのものは多い。


「カルブのは、十二歳でオネショをした記憶だな」

「うむ。今のところそれに勝る記憶はないな」

 アヌビス神とトート神が、うんうんとうなずき合った。


「何で知ってるんですかっ!?」

「オマエを見守るようにオマエの両親や祖父母から日々祈られているからだ」

「オネショまで見守らなくていいでス!」


「私は神々の書記としてエジプトの全てを記録している」

「オネショまで記録しないでくださイィ!」




 朝日がまぶしい。

 カルブが目を覚ますと、ツタンカーメンの幽霊が一緒の布に包まっていた。

「おはようカルブ。昨夜はオネショしなかったな」

「なっ!?」

 何でわざわざ一緒に寝てまでそれを言うのか。

 怒るのと、無事を喜ぶのと、どちらを優先するべきかと頭を抱えるカルブをよそに、ツタンカーメンは昨日の負傷などウソのようにゲラゲラと笑いながら空中を転げ回った。

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