その悲しみをわけてください
第1話「最後まで」
ミイラ工房での暗殺未遂事件の翌日。
自宅の台所でカルブがパンケーキの材料を混ぜていると、誰かが訪ねてきた。
アンケセナーメンの侍女だった。
さすがにもう王宮から出るわけにはいかなくなった王妃に代わり、褒美の品を届けに来たのだ。
「ああ、ご自宅にいらして良かったですわ。工房まで行くのはさすがにちょっと……ねえ」
そういいながらも中年の侍女は、カルブの体を通して家にまで染みついたニオイが気になるようだった。
「それにしてもカルブ様がこんなにお若い方だったなんて……。もともとアイ様が見つけていらした職人ですから、アイ様と中の悪いホレムヘブ様は反発なさるかと思ったのですが、ツタンカーメン様はよっぽどおじい様を気に入っておられたんでしょうね。祖父がダメならば孫に、なんてことまで遺言で申されるだなんてねえ」
ツタンカーメンはポカンとしていた。
「おれ、そんなこと一言も言っていないぞ。おれの体がおまえの工房に運ばれるまで、おまえの存在もおまえのじーちゃんの存在も知らなかった」
侍女が帰ってから、二人でその理由を考えた。
「たぶんアイのやつが、自分が指名した職人をホレムヘブに否定されるのが嫌でウソをついたんだろうな」
そう言いながらもツタンカーメンの表情は曇ったままで、カルブはファラオも自分と同じことを考えているのだなと悟ってうつむいた。
「工房を仕切っているのがオレ一人で、立地場所も他の工房から思い切り離れていて……アンケセナーメン様の暗殺にちょうどいいから……」
「アイにはアンケセナーメンを殺す動機なんかない」
「だったら他の誰かがアイ様を利用するために、目的を隠して入れ知恵を……」
「決めつけるなよ」
「でも! 今からでも他の工房に移した方がいいんじゃ……」
「アンケセナーメンはおまえの工房にはもう来ない」
「でも……アナタが選んだわけじゃないのなら……」
「おれは最後までおまえがいい」
パンケーキを焼き上げて、侍女が届けた最高級のハチミツをかける。
未来のものとは小麦の種類が違ったようで、話に聞いたようにふっくらとはならなかったけれども、ツタンカーメンはうまいうまいと平らげた。
その日の夕方、ツタンカーメンは王宮の様子を見てくると言って家を出て、カルブは眠れない夜を過ごした。
(もしツタンカーメン様の目の前でアンケセナーメン様が襲われても、幽霊には助けられない。防ぎようがないのなら、辛い場面を見てしまうより、この家でじっと待ってた方がマシなんじゃ……)
カルブには祈ることしかできない。
神々は果たしてアンケセナーメンを守ってくれるのだろうか。
(どうして神様達はツタンカーメン様を守ってくれなかったんだろう……)
明け方近く。
カルブは夢の中で神々の争いを垣間見た。
アメン神の完璧な肉体からくり出される重厚なアッパー・カットが、アテン神の胴体たる太陽円盤を捕らえた。
アテン神の丸い体は、球ではなく円盤。
まるで壁に描いた平面の太陽が、平面のまま絵から抜け出してきたようだ。
太陽円盤は縦にグルグルと回転し、衝撃を逃がしつつ、胴体から生えた光り輝く無数の触手を鞭のように振り回す。
アメン神はすばやく飛び下がったが、リーチがある上に数も多い触手のカオティックな動きを完全に避けることは叶わず、下から跳ね上がった触手にカウンターを食らって吹き飛ばされた。
周囲から女神達の悲鳴が上がり、見渡すと二十名ほどの神々が観戦していた。
アメン神への応援にひときわ力が入っているのは、奥方のムウト女神。
隣には二人の息子のコンス神の姿も見える。
ここは港が見える丘の上の空き地だった。
眼下の水面は、地上のナイル川と繋がった、地下の冥界のナイル川だ。
アメン神はすぐに起き上がる。
アテン神は回転を続けながらアメン神に踊りかかる。
拳と拳がぶつかり合って歓声が響いた。
弓を持つネイト女神や、サソリを従えたセルケト女神は、野次馬しながら真面目そうな顔をつくろっている。
戦神メンチュウは心底楽しそうだ。
手を取り合ってきゃあきゃあとはしゃいでいるのは、瓜二つの姉妹神・イシスとネフティス。
ライオン頭のセクメト女神は、自分も参戦したいみたいだ。
「いったいいつまで続ける気なんだ」
すぐそばで声がして振り向くと、アヌビス神が渋い顔をして腕を組んでいた。
神々の殴り合いを横目に眺めながら、
アテン神の太陽円盤は平面だけど、ケペリ神は太陽を大きな球体で表している。
その球体をラー神の船に積み込む。
ラー神の船は、地上の空を、カルブ達の頭上を巡って現世を照らす。
港では知恵の神トートと正義の女神マアトが異国のダチョウについて話し合っている。
マアト女神は頭にダチョウの羽を飾っており、この羽で死者の生前の罪を量る。
人は誰でも必ず死ぬ。
葬式が終わったら、冥界の長い旅が始まる。
マアト女神に認められた心の正しき死者は、アアルの野という永遠の楽園に招かれる。
死してなお特別な存在であるファラオは、栄光に満ちたラー神の船に乗せてもらえる。
死とは辛いだけの終焉ではなく、祝福されし新たな暮らしの始まりなのだ。
ラー神の船の周りには大勢の“人間”が集まっていた。
王の印の頭巾を身につけた歴代のファラオ達に連れられ、奥方や臣下と思われる人々も一緒に船に乗り込んでいく。
エジプトの長い歴史の中では衣服の流行も移り変わる。
ファラオにしては腰布の丈が短いのは、古い時代の王なのだろう。
桟橋に立つ、若い女性と目が合った。
栄光に満ちた王族の中で彼女だけが悲しげで、冥界の中で彼女だけがこちらの存在を認識していた。
カルブは彼女が、ツタンカーメンを生んですぐに亡くなった母親なのだと直感した。
目が覚めて、すでに日が高くなっているのに気づいてカルブが布団を跳ね上げると、中からツタンカーメンがコロコロと転げ出てきた。
「何でいちいち人の布団に入りたがるんですか?」
「何で驚いてくれないんだよ」
「二度目だからです。驚く前にあきれてるんです。ツタンカーメン様だって、男同士じゃ気持ち悪いでしょう?」
「だってアンケセナーメン以外の女のに入るわけにいかねーし」
「他の男のには入ってるってことですか!?」
「いや、カルブだけ。そんなことよりだな」
「そんなことで済まさないでください!!」
「それより王宮が何だか変な雰囲気になっちまっててな。アンケセナーメンが襲われたのがきっかけになって、おれが死んだのも暗殺だったんじゃないかなんてうわさが広まってた」
「ああ。やっぱり」
「やっぱりって何だよ、やっぱりって」
「そりゃファラオがその年で死んだら誰だってそう思いますよ」
カルブは軽く肩をすくめたが、ツタンカーメンは深刻な顔で腕を組んでいた。
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