第344話 旅路の間の中と外④
ダメだよ、と耳元で制止の言葉を聞いた瞬間、胸に浮かんだのは安堵の思い。
もちろん、がっかりしたような気持ちも無いではないが、ほっとした気持ちの方が圧倒的に上だった。
ジェスにあんなことやこんなことが出来なかったのは残念だが、お風呂場でふざけてのおっぱいタッチは今までも見逃して貰えたし、これからも見逃してもらえるだろう。
欲望のまま、取り返しのつかないところまでいかなかったおかげで。
キスは、まあ、ちょっとしたいたずらとして許して貰うしかない。
シュリとキスしてたのが羨ましくて、と正直な気持ち80%くらいを混ぜ込んで主張すれば、ジェスは不満そうに唇を尖らせつつも、最後には許してくれるはずだ。
ジェスに近くなりすぎていた身体を安堵の吐息と共に起こし、
「シュリ、ありがとう。止めてくれて助かった、わ?」
振り向きながらシュリに礼の言葉を告げる。
その語尾が疑問系になったのは、目に入ってきた映像の処理が追いつかなかったからだ。
フェンリーが振り向いた先にいたのはシュリで間違いない。
間違いは無かったが。
手触りの良さそうなサラサラの銀色の髪の間から、何故か猫っぽい耳が生えていた。
目をぱちくりし、言葉もなく、ただその暴力的なまでの可愛らしさを見つめる。
当のシュリは、どうして自分がそんなにじっと見られるのか、いまいち理由が分かってないらしく、ほんのり首を傾げた。
その仕草がまた可愛さを倍増し、フェンリーは鼻の奥がツンとし、液体が流れ落ちてくるのを感じた。
「フェンリー、鼻血……」
「え? あっ! うそっ!?」
シュリの指摘に、慌てて手で鼻を押さえる。
鼻血を出すなんていつ以来だろう。
子供の頃をのぞけば、ジェスに怒られてぐーで殴られたはずみに出た時以来だろうか。
(鼻血が出たらどうするんだったかしら)
上を向いたらとりあえず、流れを止めることができるだろうか、と上を向こうとした。
たしか、ジェスにも「上でも向いてろ」と言われ、じゃあ膝枕をしてくれと冗談で返したら、更に怒られたものだ、と懐かしく思い出しながら。
「フェンリー。鼻血は上を向かない方がいいよ。ちょっとそこのイスに座って?」
言われるままに、室内にあったイスに腰を下ろすと、シュリがフェンリーの太股をまたぐように、向かい合わせに座ってきた。
シュリの顔が余りに近くて、思わず後ろに身を引いてしまう。
そんなフェンリーをとがめるように、その頬をシュリの両手が挟み込み、
「だめだよ。じっとしてて!」
そう言って、唇を尖らせた。
その表情がまた可愛くて、どうにかして距離をとりたい気持ちにさせられるのだが、シュリの手がそれを許してくれず。
フェンリーは仕方なくあきらめてシュリのしたいようにさせることにした。
「鼻の付け根をさ、こう、つまむんだよ。しばらくこうしてれば止まるから。こう見えて、僕、鼻血の止め方は上手なんだ」
周囲に鼻血を出しがちな人が多いからさ、そう言いながらシュリが笑う。
その笑顔がなんだかきらきらして見えるのは気のせいだろうか。
気のせいなんだろう、たぶん。
(そう言えば、ジェスに惚れたての頃も、ジェスの笑った顔がやけにきらきらして見えたっけ)
ふと、昔の事を思い出しつつ考える。
それと同じ現象が起きたという事は、自分はシュリに惚れたのだろうか、と。
だがすぐに、まさか、と首を振る。
ジェスに惚れてからは彼女一筋だが、男とも女とも恋愛の経験はある。
でも、小さな子供によからぬ気持ちを抱くことだけは無かった。
だから、自分にその気は無いはずなのだ。
そう自分に言い聞かせつつ、シュリの猫耳をちらちらと盗み見る。
シュリの頭から生える猫耳についての説明を求めたいのだが、鼻をつままれているとどうにも話しにくかった。
作り物かと思っていたが、どうやらそうじゃないらしく、ずっと見ていると動いているのが分かる。
シュリの顔を見ているとなんだか動悸がおかしいので、フェンリーはそうしてずっと、シュリの頭からにょっこり出ている猫耳の辺りに視線をさまよわせ、ただ時間が過ぎるのを待った。
そうこうしているうちに、
「ん~。そろそろいいかなぁ?」
そう言いながらシュリがフェンリーの鼻から手を離し、どこからともなく濡れた布を取り出して、せっせとフェンリーの顔を拭き始めた。
綺麗になったフェンリーの顔をまじまじと眺め、
「ん、大丈夫そうだね」
と大きく頷いてにっこり笑い、シュリはフェンリーの膝から床へ。
それを名残惜しく見送ったフェンリーは目撃してしまった。
シュリの猫耳に釘付けで気づいていなかったものに。
シュリのお尻からにょろりんと生えたしっぽももちろん可愛らしかったが、しっぽのせいでズボンがずり下がり上半分が見えてしまっているシュリのお尻が目にまぶしかった。
そのせいで、またもや鼻の奥がツンとして……
「じゃあ、そろそろジェスを起こして話をしよ……って、またぁ?」
言葉の途中で何気なくフェンリーを見上げたシュリは、呆れたような声を上げる。
でも、すぐに仕方がないなぁ、と肩をすくめ、再びフェンリーの太股にお尻を乗せた。
そして、
「まあ、出ちゃったものはしょうがないよね。大丈夫だよ、すぐ止まるから。止まったら、今度こそ、ジェスを起こしてお茶でもしながら話をしようね」
言いながら、フェンリーの鼻の付け根を、そっと指先でつまむのだった。
◆◇◆
「ふぅ~。シュリが声をかけてくれんかったら、あのまま奴らの再調教を始めて、目的地に着けないところじゃったのじゃ。あぶなかったのじゃ~」
再び進路を南にとり、高速で移動しながらイルルはこっそり独り言をこぼす。
ロスした時間を取り戻すため、上空を超高速で移動しているので、おそらく当初の予定からそれほど遅れることなく、目的地に到着できるはずだ。
頭の中の地図を確認しながら、イルルは1人頷く。
空の上には障害物もないし、目的地の方向へただまっすぐ進むだけだから、後はただ全力で飛べばいい。
注意すべきは目的地を通り過ぎてしまうことだけ。
そんなぼんやり飛べる状況の中、暇になったイルルはふと、昼間感じたイヤな予感について考えていた。
あれはなんじゃったんじゃろうな~、と。
あの時は急いだ方がいい気がしたのでとにかく緊急回避をしたが、もう少し気配を探っておくべきだったかもしれない。
周囲にイヤな気配はないか、己の探れる範囲でサーチしてみる。
が、近くには特になく、強いて言うなら王都方面にイヤな感じがうっすら感じられた。
(王都方面とはやっかいじゃな~。妾もシュリも、しばらく帰れぬぞ?
まあ、腐っても国王の膝元じゃし、守護は万全じゃろうし、結構化け物じみた人材も揃っておるし、まあ、大丈夫じゃろ。大丈夫じゃなかったら、ジュディス辺りが連絡してくるはずじゃ)
考えながら、なんとはなしに王都方面のイヤな感じを探る。
すると、そのイヤな感じの中に、ほんのり懐かしさのようなものを感じたイルルは、不思議そうな顔で首を傾げた。
「む? なんじゃろの? この妙な懐かしさは。王都の方におるのは、もしや妾の知り合いか?」
懐かしさの招待を予想しつつ、イルルはちょっとにんまりしてしまう。
(知り合い、というと、里の者達かのう? ようやっと妾の偉大さに気付いて探しに来たのかもしれんの~)
帰るつもりは毛頭無いが、それでも自分の事を探しに来てくれたのだとすれば、うれしくない事はない。
まあ、土下座して懇願されても、今更シュリの側を離れるつもりは全くなかったが。
(すまんの~、お主等。妾はもはや、シュリだけのものなのじゃ)
王都方面にいるのは己の里の民と決めつけて、イルルは心の中で宣言する。
王都にいるのが、自分の想像とは全く違った恐ろしい人物……いや、龍であるなどとは夢にも思わないで。
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