間話 フィー姉様とリメラ、ときどきアガサ③

 諸々の挨拶をすませ、妙に疲れた気分で学院を後にしようとしたシュリは、なにか忘れている気がしてアビスの腕の中でかすかに首を傾げる。

 アビスが主のそんな愛らしい姿に思わず目を細めつつ、学院の門をくぐろうとしたその時、腕の中の主の姿が忽然と消えた。



 「シュリ様!?」



 慌てて周囲を見回したアビスは、その時やっと己が常とは違う空間にいることに気がついた。

 さっきまで確かに感じていたたくさんの人の気配の感じられないその空間には、自分とシュリと、後もう1人。覚えのない人物の気配がした。



 「私に会わずに帰ろうだなんて。ひどいわ、シュリ」



 恨みがましくも妖艶な声がするりと耳に入り込んでくる。



 「あ、何か忘れてるなぁって思ったら、アガサの事だったのか。ごめん、色々衝撃的な事があってさ」



 対する主の声は脳天気で愛らしく、聞いているだけで頬がゆるむ。

 だが、声は確かにするのに、見回す周囲に声の主の姿はなく。



 (目線の高さに人影はない……ということは、上か)



 その推測のもと、ばっと顔を上へ向けたアビスの視線の先には見知らぬ女の腕に抱かれた主の姿があった。

 コウモリのものに似た艶やかな黒い翼も、逆さハートを先端につけたような漆黒のしなやかな尾も、人のものではあり得ない。

 そして、体の中を半分だけ流れる魔人族の血が訴えていた。

 アレは己と同じ側のモノだ、と。



 (魔族が、なぜ王都に!?)



 半分は魔人族の血を引きながらもちゃっかり王都で職を得ていた自分達のことは棚に上げて、アビスは歯噛みする。

 魔の本能で、目の前の女が自分より格上の存在だと明らかに感じつつも、どうにかして主を取り戻さねばと、アビスは宙に浮かぶ女を睨みあげた。

 その明らかな敵意に気づいた女……アガサは、目を細めてアビスを見下ろした。



 「あらあら、毛を逆立てた子猫ちゃんがこっちを威嚇してるわね」



 どうしようかしら、とアガサが冷ややかに笑う。

 普段擬態している、高等魔術学院の院長という表向きの顔の時は決して見せない表情だ。

 あっちの姿は上品な老婦人の姿で、シュリの知る限りいつもにこにこと朗らかな笑顔を崩さない。


 一緒に過ごしていて安心できるのはあっちの猫をかぶった方の姿なのだが、半夢魔のこちらの姿の方がアガサの本性には近いのだろうということは理解している。

 とはいえ、このまま放置してアガサとアビスが喧嘩をはじめてしまっても困るので、



 「アビス。僕は大丈夫だから。それにこの人、知り合いだし」



 急いでアビスにそう声をかけておく。

 だが、アビスが警戒を解くよりも早く、アガサの方がシュリの言葉に食いついた。



 「知り合い、だなんて。寂しい紹介の仕方はやめてちょうだい。他にもっとふさわしい紹介の仕方、あると思わない?」



 拗ねたように唇を尖らせるアガサに、シュリは素で首を傾げる。

 知り合い、以外にどう紹介しろというのだろう?

 友達、と紹介するには少々年齢差がありすぎる気もするし、とシュリは少々頭を悩ませてから、



 「えーっと、おばー様の昔の冒険者仲間?」


 「シュリ?」


 「じゃあ、おばー様の友達??」


 「シュリ……」


 「じゃあじゃあ、奮発して、おばー様の親友マブダチ! これで決まりだよね? あ、おばー様からの苦情はアガサの方で処理してね?」


 「決まりだよね、じゃないわよっ!! ヴィオラから離れなさい、ヴィオラから!!」


 「ええぇぇ~?」



 我慢の限界だとばかりにアガサに叱られ、シュリは困った顔で再び首を傾げる。

 アガサの欲しい称号は、どうやらヴィオラ関連ではなかったらしい。

 でも、そうなるとやっぱり……



 「じゃあ、僕の……えーっと、親しい知り合い?」



 そんなのくらいしか思い浮かばない。

 だがやはり、そんな称号でアガサが満足してくれる様子は微塵もなく、



 「じゃあ、友達! これでいい??」



 面倒くさくなったシュリは年の差を無視してアガサを友達にランクアップした。

 しかしそれでもアガサからうなずきは返って来ず、



 「ダ・メ。もっと他にあるでしょう? 私とシュリの関係性を表すのにふさわしい言葉」



 甘い声音でだめ出しをされる。

 しかし、そんな風にいわれても思いつかないものは思いつかない。



 「ええ~……。他に何かあるかなぁ」


 「んもぅ、じらし上手なんだからぁ」


 「いや、じらしてるつもりはないんだけど……参考までに、アガサは僕にどんな言葉を求めてるわけ?」


 「そうねぇ。スタンダードなところで恋人、とか。あ、でも、別に愛人とかでも……」


 「却下。アガサは別に僕の恋人じゃないし、愛人でもないでしょ?」


 「ええぇ~……ダメ?」



 むぎゅう、と押しつけられるおっぱいはとても気持ちがいいが、それとこれとは話が別である。

 世間一般の男子ならこれで堕ちていただろうが、この年にしてある意味百戦錬磨なシュリにはそこまでの効果はなかった。

 とはいえ、気持ちいいことは気持ちよかったが。



 「ダメだよ。やっぱり友達か知りあ……」



 きっぱり首を振るシュリの頬にそっと手を添えて、アガサはシュリの言葉を己の唇で封じた。

 防ぐ間もなくぬるりと舌が入り込んできて、まるで別の生き物のように動き回り、シュリを翻弄する。



 (……やっぱりアガサのキスって別次元だなぁ)



 シュリが思わずそんな感想を抱くほど、夢魔の血を引くアガサの口づけは巧みで。

 珍しくシュリが防戦一方の戦いとなった。



 「……ねぇ、ダメ?」



 たっぷり時間をかけてシュリを追いつめ、勝利を確信したアガサは濡れた唇をなめてから、甘く問いかける。


 恐らく。


 シュリ以外の男子ならコロリと陥落していたに違いない。

 しかし、どうにかこうにかシュリは持ちこたえた。



 「ダ・メ、だよ。アガサは僕の友達。それで良いでしょ?」



 上気した頬に潤んだ瞳でシュリは上目遣いでアガサを軽く睨む。

 愛らしくも色香あふれるその仕草を前に、アガサの防御力など、ゼロに等しかった。

 そんな状態で、シュリの言葉を拒めるわけもなく。



 「わかったわ。お友達でいいわよ。もう、シュリにはかなわないわね」



 苦笑混じりにそう答え、アガサは己の負けを認めた。

 ようやくアガサを屈服させたシュリは、嬉々として己の執事の方を振り向く。

 これでようやくアガサの紹介を完了できる、と。


 凛々しい執事の姿を求め、視線を巡らせたシュリはどうしても望んだものを見つけることが出来ずに、首を傾げる。

 といっても、アビスの姿がなかったわけではなく。


 アビスの姿は確かにそこにあった。

 ありはしたのだが。


 そこにいつもの凛々しさの欠片さえなく。

 内股になった足は何かを耐えるようにプルプルして、その頬は熟れたリンゴの様に赤く。

 潤んだ瞳は熱い欲望をたたえて懇願するようにシュリを見つめていた。


 己の執事の明らかに発情した姿を突きつけられ、シュリの頬がひくっとひきつる。

 いつかは来ることだと思っていたが、アビスもその姉のルビスも状態はまだ安定しており、もうしばらく先のことだと思っていたのに。



 「あらあら。すっかり出来上がっちゃってるわねぇ」



 アガサは面白そうにそんな言葉を唇に乗せ。



 (一体誰のせいだと思ってるんだよ!)



 シュリはちょっとプリッとしつつアガサを横目で睨み、突き刺さるアビスの熱い視線に小さなため息をこぼした。

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