第272話 サシャ先生危機一髪⑤
何が起きたのか、分からなかった。
いい気分でサシャをなぶり、その唇からとうとう悲鳴を、助けを求める懇願を引き出した。
彼女の取り澄ました仮面をやっとはぎ取り、いよいよこれから本格的に彼女を楽しもうとした瞬間、それは起きた。
内臓破裂するんじゃあないかと思うくらいの衝撃を腹に受け、気がついた時には壁に背中を思う存分打ち付けて為すすべもなくうずくまっていた。
己の前方。
サシャ先生がいる辺りから、ものすごい威圧感が押し寄せてくる。
訳の分からない恐怖に胃がでんぐり返り、否応無く胃の中身をリバースしながら、さっきまで猛りまくっていた分身君がちゅんっと縮こまるのがわかった。
(な、なんなんだ!?)
バッシュは思う。
己の身に、一体何が起きた、と。
ぷるぷる震えながら、それでもどうにか顔を上げ、己の正面に視線を定める。
そこにいるはずの、威圧感の正体を見るために。
だが、それを視界におさめた瞬間、バッシュの首が90度近く傾げられた。
不可解なモノを見たとでもいうように。
バッシュの正面、バッシュの視線からサシャを守るように、ソレは立っていた。
見た目は非常に愛らしい。
全身を包み込むタイプの着ぐるみを着ているのだろう。
犬……だろうか? いや、狼かもしれない。
フードについているピンと立った耳は犬と言うには少々長くシャープに見えた。
だが、たとえ狼をモチーフに作られたものとはいえ、その着ぐるみは文句なく愛らしい。
しかし、ソレを着ている人物の特定は難しそうだった。
本来ならフードの下から着ている本人の顔が見えるはずなのだが、その顔はなんともふざけたアイマスクで隠されていた。
それで視界は確保できるのだろうかと疑問は残るが、当の本人は平然としているのだから恐らくちゃんと見えているのだろう。
そのアイマスクは、着用している人物の顔の特徴を見事に隠していた。
とはいえ、バッシュが知っている範囲で目の前の人物に特徴が合致しそうな相手が一人だけいる。
いや、体の大きさだけなら他にもいるだろうが、こんな場所に乗り込んできてバッシュの邪魔をしそうな相手は一人しか思いつかなかった。
その人物はまだ幼く体も小さい。
だが、初等学校、中等学校を一息に飛び越えてしまえるだけの能力がある、油断できない人物。
「も、もしや、シュリ君、なのかい!?」
バッシュは、自分が担当するクラスの異端児の名前を呼んだ。
そうに違いないと、半ば確信を持って。
だが、相手から返ってきたのは想像と違う反応で。
愛らしい着ぐるみさんは、大きく肩をすくめ、やれやれと言うように首を振ってみせた。
見当違いの答えに呆れているかのように。
「シュリ、君じゃない? じゃ、じゃあ、お前は一体何者なんだ!?」
バッシュの叫びに、その問いを待っていたとばかりに着ぐるみの人物はエヘンと胸を張る。
そして声も高らかに名乗った。
「理不尽な悪は許さないっ! 弱きを助け、強きを挫く!! 着ぐるみ仮面、ただいま参上っ!!!」
「き、着ぐるみかめ……はあっ?」
予想の斜め上を激しく突き抜けた名乗りに、バッシュは混乱したような声を上げる。
思っていたのと違ったその反応に、シュリ……いや、着ぐるみ仮面もワタワタしはじめた
「あ、あれ? 着ぐるみ仮面はやっぱりおかしかった?? う~ん、でもなぁ。着ぐるみレンジャーを名乗るには人数が足りないし、着ぐるみマスクってのも、マスク被ってないから微妙だし。あ、でもアイマスク付けてるから、あながち間違いじゃない、のかなぁ。だけどやっぱり、マスクと言えば頭にすっぽり被るアレのイメージだし。う~ん、う~ん……やっぱり、着ぐるみ仮面が一番しっくりする気がするし。うん、やっぱ着ぐるみ仮面かな! よし、決めた。着ぐるみ仮面でお願いします!!」
「ハ、ハイ」
無用な長ゼリフは明らかにシュリの声で、シュリに夢中な人々なら姿が分からなくとも問答無用で聞き分けたであろうが、幸いなことにバッシュはそうではなかった。
ややひきつった表情でシュリ……いやいや、着ぐるみ仮面の言葉を聞き、最後には気圧されたように頷く。
この時点でもはや、バッシュは当初の目的などすっかり忘れ、すっかり毒気を抜かれていた。
彼のジュニアも、すっかり大人しくなってしまっていたが、それはそれ、これはこれ、である。
悪いことをしたらきちんと罰を受けなくてはいけない。
それは大人も子供も一緒だし、責任ある大人がした悪いことは、いたずらをした子供レベルの罰で許されるべきではないだろう。
ここはきちっと、大人なお仕置きを受けて大いに反省して貰うべき場面だと、シュリは毒気は抜けてしまったものの、自分の行為に関しては一切反省していないであろうバッシュの顔を睨んだ。
シュリがこのままお仕置きをしちゃってもいいのだが、ここは助っ人を呼んでおくことにする。
早めに処理して、シュリはサシャ先生のケアに戻る必要がある。
今も現在進行形で背中に熱すぎる視線を感じながら、
「相手の気持ちも考えない悪逆非道。着ぐるみ仮面がこの目でしかと見届けた」
シュリは声高にバッシュの罪状を明らかにした。
「あ、悪逆非道。わ、私はただ、愛しい女性と愛の営みをごく普通に行おうとしただけで……」
うろたえたように、白々しくも己の罪を否定するバッシュ。
だが、それを認めるようなシュリではなかった。
「だまらっしゃい!! 薬を盛った女性しか相手に出来ないような男なら、男なんてやめてしまえばよろしいっ!! ポチさん、タマさん、懲らしめておあげなさい。思う存分、容赦なくっ」
どこかで聞いたことのあるような台詞回しでバッシュの主張をぶった切り、シュリは今回のお仕置き人を呼び出した。
「ポチにお任せなのであります!」
「ん、タマにお任せなの」
どこからともなく現れて、シュリの斜め後ろ左右にそれぞれ一人ずつ、二つの人影が並ぶ。
「き、着ぐるみ? いや、獣人、なのか??」
その人影を見たバッシュが混乱したような声を上げる。
着ぐるみ仮面の後ろに現れた人影は、一人は背が高く、一人は背が低かった。
が、着ぐるみ仮面と違い、二人とも出るところはしっかりと出た大人の女性らしいシルエットをしている。
更に、耳と尻尾も大層立派なものをお持ちだった。
着ぐるみと言うには、少々リアルなものではあったが。
そして二人とも、着ぐるみ仮面と同様、ふざけた絵柄のアイマスクを付けていた。
「さて、二人とも。どんなお仕置きをお考えかな?」
「無理矢理される女性の気持ちを痛いくらい実感してもらうでありますよ。想像できないくらいエグい奴を、思い切りぶち込んでやるであります!」
「……二度と変な気持ちを起こせないように、つぶしてあげるの。ぷちっと」
お仕置き方法は二人に一任していたが、返ってきた返事を聞いて、シュリの背筋も冷たく凍えた。
女の人って怖い、女の人を無闇に怒らせないようにしないと、とシュリはほんの少し遠い目をする。
だが、二人のお仕置きを止めるつもりはなかった。
相手の気持ちも考えずに己の欲望のみを優先させようとしたバッシュ先生の罪は重い。
生半可なお仕置きでは、彼に反省を促すことは出来ないだろう。
とはいえ、口ではつぶすと言いつつも、実際はつぶすまではしないだろう。
ぶち込むって言うのも、比喩的な表現なはずだ。
……たぶん、きっと。
「ふ、二人の自主性に任せるけど、ひ、人死にだけは出さないようにね?」
「はい、であります!」
「はい、なの」
シュリの与えた最低限の注意事項に頷き、二人が獰猛に笑う。
いつもやる気の薄いタマも、今回はなんだかやる気に満ちあふれているような気がして仕方ない。
まあ二人には、ご褒美を約束しているから、そのせいもあるかもしれないけれど。
「じゃ、じゃあ。や、やっておしまいなさい?」
自分でお仕置きをした方が良かったかもなぁと、若干の後悔も感じつつ。
ノリノリの二人を前にもう後へは引けないシュリがおずおずとゴーサインを出す。
それを合図に、二人がそろって前に進み出た。
ぽきぽきと指を鳴らし、可憐な唇から牙が覗くほど凶悪な笑みを浮かべながら。
「なっ、なにをするつもりだいっ!?」
怯えたバッシュが後ろに下がろうとするが、壁を背中にした彼がそれ以上逃げられるはずもなく。
二人の手に、為すすべもなく両腕をがっちり捕まれた彼は、
「わ、私は、ただ愛を育もうとしただけなんだぁぁぁっ」
「黙るであります」
「見苦しい言い訳は許さないの」
「むぐぅっ!?」
この期に及んで反省の欠片も見せない言葉をはくバッシュは、教育的指導として容赦なく猿ぐつわを噛ませられる。
そして、声にならない叫び声と共に、二人に引きずられて視界の外へと消えていった。
反省ってものを知らない人だなぁ、と呆れた眼差しでそれを見送り、シュリは小さく息をつく。
バッシュ先生にはしっかりお仕置きを受けてもらい、明日にはきちんと揃えた諸々の証拠を校長先生に提出して、二重の意味でのお仕置きを受けて貰う予定だ。
校長先生はのほほんとした人ではあるが、性犯罪者予備軍を教師として雇い続けるほどダメな人ではないだろう。
どこからともなく、何ともいえない悲鳴が聞こえてくる気がするが、シュリはそれを意図的に耳から閉め出して、サシャ先生の期待に熱く潤んだ瞳に向かい合う。
そして、
(僕に出来る限りの努力はしよう!)
と小さな拳をきゅっと握るのだった。
◆◇◆
着ぐるみのフードを脱ぎアイマスクを外せば、サシャ先生がとろけんばかりの笑顔で迎えてくれる。
「着ぐるみのフードを被っているシュリ君も素敵ですけど、お顔がきちんと見える方が、やっぱりいいですね」
言いながらうっとりとした表情で、サシャはシュリの頬を両手で撫でた。
その感触を、ただ楽しむように。
普段の真面目なサシャからは考えられないスキンシップだが、シュリは黙ってそれを受け入れ、自分からもそっと、彼女の頬へ手を伸ばした。
薬の影響なのか、全身にじっとりと汗に濡れた彼女は、その額にも頬にもうっすらと汗を浮かべている。
息も荒く、顔も赤い。
なにも知らなければ病気で熱でもあるのかと、絶対安静を申し渡してベッドに押し込む所だ。
が、今のサシャ先生の状態はベッドでじっとしていても辛いだけということは、大人な性教育を周囲の女性陣から強制的に学ばざるを得なかったシュリにはよく分かっていた。
女性の性欲は、男が想像するよりずっと深く複雑なのだと言うことを。
とはいえ、今のシュリは男の端くれだが、前世は女性だった訳だから、女性の性の複雑さの一端くらいは分かるつもりだ。
とはいえ、そっち方面は基本的に淡泊な方だったし、男運もなかったせいもあって、経験値はないに等しいが。
(……まあ、前世で足りなかった分を余裕で補えるくらい、過剰すぎるほど教え込まれちゃった感はあるけど)
愛の奴隷達をはじめ、己の周囲を固める教師(?)陣達の顔を思い浮かべつつ、シュリは内心苦笑を漏らす。
そして、サシャの頬を優しく撫でながら、ゆっくりと顔を近づけていく。
(少なくともキスは、前世の僕より、ずっと上手になってるだろうなぁ)
そんなことを思いながら、己の唇をサシャのそれに押し当てた。
最初は浅く。
ゆっくりと角度を変えながら、彼女の唇を己の唇で愛撫するように。
「ん……」
優しく心地のいい口づけに、サシャの唇から甘い吐息が漏れる。
シュリは、サシャがすっかり自分を受け入れてくれているのを確認しながら、徐々に唇の触れ合いを深めていった。
その後もシュリは精一杯サシャ先生の状態異常改善に励んだ。
色々頑張ったがそれでも足りず、サシャ先生の求めに応じる為に、やむを得ず[猫耳]スキルを発動した。
多くは語れないが、尻尾を有効活用する必要から猫耳と猫尻尾を生やしたわけだが、その姿をさらした瞬間、サシャ先生が感極まったように気絶してしまったので、結果、諸々の面倒事は無事に解決した。
今現在、シュリが見つめる先には、非常に満足そうなお顔で眠る……もとい、気絶しているサシャ先生の姿があった。
その姿に既視感を覚え、そういえば、と思い出す。
そういえば、ジュディスも最初この姿を見たとき、こんな感じになったな、と。
(ん~、そんなに暴力的かなぁ? この姿)
ごく一般的な獣人さんと一緒だと思うけど、とそんなことを考えつつ、サシャの身体に寝室から持ってきた毛布をかぶせておく。
そして、気持ちよさそうな寝息を立て始めたサシャ先生の頭をそっと撫で、
「でも、まあ、結果オーライ……なのかな?」
シュリは、ちょこんと首を傾げた。
◆◇◆
翌日から、シュリが校長先生に報告して首にしてもらうまでもなく、バッシュ先生は忽然と姿を消した。
もしや、ポチとタマがその存在ごと消してしまったのでは、とドッキリしたが、二人がきっぱり否定したので、とりあえずは胸をなで下ろす。
ただ、存在こそは消さなかったものの、かなり厳しめのお仕置きを行ったようで、彼の失踪はそれが原因なのかもしれない。
どんなお仕置きをしたのか、好奇心から尋ねてみたところ、二人から微妙に目をそらされた。
その後ものらりくらりとはぐらかされ、二人が実際にバッシュ先生にしたお仕置きはどんなだったのかは謎のままだ。
まあ、生きているのは確かだろうから、それでいいかとシュリは自分を納得させた。
こうして、バッシュ先生問題はきれいに片づき、サシャ先生の周囲に平穏が戻った。
だが、事件の後遺症だろうか。
サシャ先生が顔を赤くしてシュリをぼーっと見つめることが多くなった。
「サシャ先生?」
とシュリが声をかけると、すぐにはっとしたように、
「な、なんですか? シュリ君」
いつもの教師の仮面をかぶってしまうけれど。
事件の後、シュリはここしばらく忙しくてチェックしていなかった、恋愛状態の人リストの精査をした。
そこに、サシャ先生の名前がしっかりプラスされていて、それを確認したシュリが思わずがっくり肩を落としたことだけ、ここに記しておく。
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